chapter 6
音楽は止まない。
百瀬は階段を上がり、照明の落とされた廊下をふらつきながら進む。窓の向こうの月が冷たい光を投げかけ、夜の校舎をいっそう現実味の無いものにしていた。
音楽室にたどり着いたときには、大した距離でもないのに息が上がっていた。がんがんする頭を振り払い、力を込めて重いスチール扉を押し開けた。
ピアノが鳴っている。
確かにここが怪異の発生源だった。先日とは違い、百瀬が扉を開けても、ピアノは鳴り続けている。
百瀬は覚悟を決めた。念のため扉を全開の状態にして、音楽室の中へ踏み出した。一歩、また一歩とピアノに向かって進む。
その時だった。
バタン!!と、背後で大きな音を立てて扉が閉まった。
「な……っ」
ちゃんと扉が開いた状態で固定されているのを確認したはずだった。
驚いて入口へと戻りドアノブを掴む。開かない。扉全体が糊付けされたかのようにぴくりとも動かなかった。
焦りのあまり既に開かないとわかっているのに、ドアノブをガチャガチャと回そうとし続けてしまう。
だが意識の外で頭上からぱら……と天井の建材の屑が落ちる音を聞き付けた、と同時にその場から横っ飛びしていた。
上から何かが落ちてきた。
板張りの床が粉々に弾け飛ぶ。先程まで百瀬がいた位置だ。
それは指だった。
先程まで百瀬がいた位置に巨大な五本の指が刺さっている。天井から手首が突き出し、指先が床にめり込んでいる。
百瀬は床に転がり込んでいたが、この怪異をはっきり目にしてすぐさま立ち上がった。逃れようと狭い空間の中で走り出す。
今度は目の前に指が落ちてきて、急ブレーキを踏んだ。慌てて別方向へと走り、その後を追いかけるようにして指が繰り返し降ってくる。音楽室の中の追いかけっこ。出口はない。百瀬が力尽きたらおしまいだ。
「くそ……っ、くそ……っ」
意味のない悪態が口をついて出る。
ありえないことが起こっている。自然現象ではあり得ない。
認めるしかない。これは「悪魔」だ。
どうやら聖水では抑えきれなかったらしい。あるいは聖水を振りかけたからこそ、刺激されて今晩のような状況に陥ったのか。永辻があと一日でも早く戻っていれば良かったのに。そう悔やまれるが、もはやどうにもならない。
再び背中すれすれの所に指が落ちた。
前につんのめるように走ったが、行き止まりだった。
目の前はピアノ。
気がつけばピアノのところまでやって来ていたのだ。
演奏は未だ続いている。狂った鬼ごっこの中で音楽だけが美しく奏でられている。
百瀬は観念した。グランドピアノの側板に背中を預け、振り返る。
袋の鼠となった彼を指がついに押しつぶす、とそう思った。
意外にも指はまだ動かなかった。百瀬の目の前で床に突き刺さったままだ。
(止まった……のか…………?)
おそるおそる指を観察する。今までそんな余裕はなかったが、ここに来て初めて自分を襲うものの姿をまじまじと見た。
窓から差し込む月光が皎々と青白い指を照らし出す。思ったより幼い指だ、と思ったのが第一印象だった。そして親指の付け根が目に入ったとき、百瀬は目を見開いた。
親指の付け根に赤いくの字がある。彫刻刀を突き刺してしまったと思われる、変わった傷口。
「え……、式見…………?」
百瀬の目の前に突き立てられた指と指の隙間。その向こうに少女が立っている。
血の涙を流す少女が。式見小夜の姿が。
彼女は恨みがましそうに百瀬のことを見ている。
「な、なんで……」
思わずこぼれた言葉に、小夜の顔はいっそう歪んだ。
<なんで、って?>
彼女の言葉は声ではなかった。ピアノの音色と一体化し、空間そのものを書き換える音楽だった。
<先生が、「ピアノを弾け」って言ったからじゃない!!>
駆け上がるクレッシェンド。爆発するフォルティッシモ。
頂点に達した音量に、百瀬は反射的に両耳を塞いだ。だが言葉は手のひらを突き抜けて彼の鼓膜へ、心へと突き刺さる。
<お母さんだけでもうんざりしてたのに……先生まで!>
小夜は覚えている。
生まれたときから家にはアップライトピアノがあった。誰に言われるでもなく、ピアノの前に立ったのは自分からだった。
練習をすればするほどうまく弾けるようになるのが楽しかった。好きな楽曲を見つけてきて、それが自分の手で再現できると嬉しかった。
そんな小夜の姿を見て、大喜びしたのは母だった。良い講師を熱心に探して小夜を通わせるようになった。家で弾いているときも隣に来てあれこれ口を出すようになった。
――もっと練習しなさい。
――もっと上手に弾きなさい。
気がつけば弾きたくない曲ばかり弾くようになっていた。ピアノを弾くことは楽しみではなく、こなすべき作業になっていった。
小夜は自分が機械になったような気分になることがある。出された楽譜を見て、その通り弾いて音を出す機械。
「嫌だ」と言えたら良かったのかもしれない。だが何が嫌なのか自分でもうまく言葉にできなかった。
それに高いレッスン代、母の熱心さ、世間の目。今更どうやって口に出せば良いのかわからなかった。
そうやって口をつぐんでも、心はぐちゃぐちゃだった。
もう嫌だ。もうピアノなんか弾きたくない。なんでこんなことしなきゃいけないの。




