chapter 5
「……なあ、式見。前言ってた合唱祭の伴奏、やっぱりやってみないか?」
小学校の年中行事の一つとして、11月に合唱祭がある。全クラスがそれぞれ合唱を披露するのだが、伴奏者は各クラス内から出すことに決まっている。
百瀬は既に一度、伴奏を小夜に打診していたのだが、コンクールのための練習で多忙なことを理由に断られていた。
「これだけピアノがうまいなら、難しい曲ではないはずなんだ。うちのクラスはピアノを弾ける生徒が他にいないから……」
百瀬がそう話す途中、小夜の表情が止まり、ピアノの音も止まっていることに気がつかなかった。
「ピアノなんか好きで弾いているわけじゃない!!」
と怒鳴られて、百瀬はようやく彼女の逆鱗に触れてしまったことに気がついた。
「し、式見?」
うろたえる百瀬に、
「親が言うから仕方なくやってるのよ!それなのに伴奏までやれって?しつこいのよ!」
とまくしたてる。椅子を後ろに蹴倒さんばかりにして乱暴に立ち上がると、不機嫌も顕わに音楽室を出ていった。
「あー……、やっちまった」
百瀬が前髪をくしゃりと潰して呻く。
小夜がピアニストを目指していて、空いている時間はいつもピアノの練習に充てていることは知っている。彼女の両親、特に母親が娘に期待をかけ、遠方の有名な先生の教室にまでレッスンへの送り迎えをし、自宅での練習にも付きっきりなことも聞いている。そしてそのような状況が彼女にとってかなりのプレッシャーとなっていることにも気づいていた。
それなのに、そんなギリギリの精神状態の彼女にさらなる負担をかけようとしてしまったのが、百瀬だった。
良くない。本当に良くない。
この信頼回復には相当時間がかかるか、もしくは卒業しても許してくれないかもしれない。そうであっても仕方ないだろう。とりあえず合唱祭の伴奏についてはおしまいだ。もう二度と小夜には頼めない。
反省の念で頭がいっぱいだが、5時間目はもうすぐである。
百瀬は重い足を引きずって職員室に戻ることにした。
* * *
「あら、百瀬先生。今日も遅いわね。その割に全然仕事が進んでいないようだけど」
松野がすっかり長引いた6年生の学年会議から職員室から戻ると、百瀬が自席の机に突っ伏していた。いつからこうしていたのだろう。外は既にとっぷりと日が暮れている。彼の手元にはチェックしようとしていたらしいドリルの山が積んであるが、手を付けた様子はない。
「はい……、完全に集中力が切れてます…………」
「まあまあ。一体何で悩んでいるのよ?」
松野は自分の椅子をコロコロと転がして持ってきて、百瀬の傍で座った。百瀬とは去年から一緒に働いているので、ある程度は彼の扱いもわかってきている。
「合唱祭の伴奏のことなんですけど」
と言いながら、百瀬がむっくりと起き上がった。
「ああ、前にも言ってたわね。百瀬先生のクラスは式見さんの予定だったかしら」
「それが前に式見に頼んで断られたところを、諦められずにもう1回頼んだら怒らせてしまって。今回ので完全に心を閉ざされてしまった気がします……」
百瀬が深い溜め息を吐く。
聞いた松野も「うーん」と腕を組んで唸った。
「百瀬先生の気質を考えれば、そう極端に生徒を怒らせるようなことを言ったりやったりしたとは考えにくいのよね。あくまでもその式見さんの過剰反応のような気がするけど。コンクールが近くて親御さんも娘に厳しくしているようだし、ストレスを溜め込んでいる可能性は十分にある。でもこの手の家庭内の問題は学校側にはどうにもできないしねぇ」
気をつけなければならないけど、気にしすぎても仕方がない。先輩としてそう伝える松野に、百瀬は暗い顔のまま反駁する。
「そうは言っても、いっぱいいっぱいの式見に対して、俺は自分のクラスの都合で伴奏をしつこく頼んだわけですよ。それって式見に「自分のことを考えてくれる人間は誰もいない」と思わせるのに十分じゃないですか?あれくらいの歳でそんなこと考える状況に追い込まれるのは、本当に可哀想なことだと思うんですよ」
百瀬があまりにも深く反省しているようだったので、松野は「いけない」と思いつつちょっと笑ってしまった。大の男がキノコが生えそうな程にめそめそしているので。
「百瀬先生って意外と感受性豊かよね」
「意外ですみません」
からかわれるがままの百瀬の背中を、松野がぽんぽんと叩いてやる。
「大丈夫よ。子供の方も意外と大人を見ているから。言動が多少間違っていたとしても、本当に自分のことを思ってくれているかそうでないかはちゃんとわかっているものよ?」
「そうだと良いんですけど……」
その時だった。
雷のような重低音が学校全体に鳴り響いた。
床も天井もミシミシと震わせる、暗く重いソナタ。豪雨のように降りかかる音の暴力に、職員室に残っていた教師らはわけがわからず顔を見合わせた。
「な、何……?」
「これ、ピアノの音……?」
両手を力いっぱい鍵盤に叩き付けても、こんな大きな音がピアノに出せるはずがない。技巧に富んだ指先で奏でられる美しい楽曲。だがどんなに美しかろうと、この音量では化け物の咆哮だ。
抑え付けられるような感覚に皆、身動きが取れなくなる。暗澹たる旋律に脳味噌が塗りつぶされ、思考もままならない。
それは明らかに「異常」だった。
「う……っ」
「百瀬先生っ」
百瀬が耳を押さえてうずくまる。
松野が心配そうな視線を寄越すが、彼女もそれ以上何もできなかった。
百瀬はこの場にいる誰よりもこの音色に冒されていた。彼の鋭い耳は表面的な音の連なりだけでなく、その背後にある何もかもを受け容れてしまう。感情も、理性も、背景も、歴史も、感覚も、思考も、衝動も、全て、全て、全て……!流し込まれる情報量に頭がパンクしそうになる。
だからこそ正気を保てたのかもしれない。一つのメロディーに支配されることなく、脳内に散らばる無数の選択肢の中から己の本能を選んでしがみつく。
原因はわかっている。あの、音楽室のピアノだ。
百瀬は無理矢理膝を立てて、立ち上がった。
「……俺、音楽室に行ってきます…………っ」




