chapter 4
「とにかく。話しを聞く限りでは急ぐ必要はないと思う。現時点では別に人的被害は出てないんだろ?」
「そうだけど」
永辻の言葉に百瀬は渋々頷く。
確かに現状起こっているのはピアノが鳴っているということだけで、特に誰かが怪我をしたということもない。だが恐いものは恐い。よくわからない現象が起こっている状況に気がつきながら、同じ校舎内で普段通り授業を行うのはなかなか精神力が要る。
永辻が百瀬の内心を読み取ったのか、
「仕方ない。ビビりなかわいいモモのためにお守りをやろう」
と言って立ち上がる。どことなく悦に入った表情だ。
「おい、一言余計だ」
百瀬の反発を聞き流しながら、何やら食器棚の奥をごそごそとやっている。そうして取り出したのは、手のひらに納まるくらいのガラスの小瓶だった。中で透明な液体が揺れている。
「これは……?」
百瀬が受け取った小瓶をまじまじと見る。
「聖水だ。これをピアノの周りに撒いておけ。本当に悪魔が取り憑いていたとしても、しばらくは抑えられるだろう」
永辻が説明する。
聖水とは司祭によって祝別された水のことだ。今差し出された聖水は永辻本人が祝別したものだという。
永辻は百瀬が悪魔らしきものに怯える様子を心底楽しんでいる。が、こういうものを手渡してくるあたり、百瀬のことを心配してくれているのも確かなのである。
だから百瀬はこの性格に難のある男と、なんだかんだそれなりに長く一緒にいるのだった。
「俺は明日から福井の方に呼ばれているから。また数日はかかるかな。帰ったら問題のピアノを見に行くよ」
永辻が食べ終わった食器を洗うため、キッチンへと持っていく。
その背中に、
「わかった。助かる」
と百瀬は素直に礼を言った。
永辻が微笑む。
「お土産は何がいい?」
「じゃあ……、焼き鯖寿司で」
* * *
永辻が福井へ発ってから3日後。
百瀬は昼休みの時間を利用して音楽室の様子を見に来ていた。
永辻から受け取った聖水は、翌日の朝にはピアノの周囲に円を描くように撒いた。
以来、百瀬はあの時のようなピアノの音を聴いていない。
とはいえ永辻は「しばらくは抑えられる」という物言いだった。いずれ奇妙な現象が復活してもおかしくはないということだ。
永辻はまだ戻らないし、はっきりとした状況がわかるまで百瀬は毎日ピアノの様子を見ることにしていた。
スチール製ドアのノブに手をかけたとき、中からぽろん、ぽろんと音が聞こえてきた。誰かが「普通に」ピアノを弾いている音だ。
中にいる人物を驚かせないように「失礼します」と声をかけながら扉を開く。
ピアノを弾いていたのは、頭の高いところでポニーテールをつくった少女だった。
「式見」
式見小夜。ピアノの怪談を聞いたとき、教室から怒って出ていった少女だ。
彼女は百瀬の姿を見るとぎょっとした顔をして、演奏する手を止めた。
「昼休みまで練習しているなんて熱心だな」
素直に思ったことを口にした百瀬に対し、
「何しに来たの?」
と小夜は剣呑に返す。
これに百瀬は「えっ……」と詰まった。まさかピアノに悪魔が潜んでいると疑って撒いた聖水の様子を見に来たなんて言えるはずもない。言ったら子を通じて親から「オカルトにハマった教師なんて子供の教育に不適切」などとクレームの電話が入ること請け合いである。
「いや……まぁ、食後の散歩をだな……」
何とも歯切れの悪い言い訳をする百瀬に対し、小夜は先程までの態度が嘘のようにくすっと笑った。同時に止めていた指を再び鍵盤の上に滑らせる。弾き始めたのは軽快なワルツだった。
「何それ。散歩って外を歩くことじゃない?百瀬先生ってわりと挙動不審だよね」
「ど、どこが!?」
「よく何も無い空間をじっと見つめていたり、どこかから電波を受信したりしてるって、クラスのみんなが」
「嘘だろ、うちの生徒がみんな俺のことをそんなふうに言っているのか……」
百瀬がショックを受ける。生徒からあまり大人として見られていないのは自覚していたが、まさか変人扱いされるくらいだったとは。
「今日だって図工の時間、説明の途中に図工準備室のドア見ながら固まってたじゃん。あれって何?」
「あー、あれは忘れてくれ……」
図工室の黒板の横には普段鍵が掛かった図工準備室へとつながる扉がある。授業中、その扉を内側からずっとドンドンと叩く音がしていたのだ。もちろん準備室は無人である。
それなのに扉を叩く音だけではなく、獣の唸り声だったり「コロス、コロシテヤル……」という呪詛めいた声が聞こえてくる。
版画の版木を彫らせている生徒らは誰もこれを聴いていない。聞こえているのは、耳が良すぎてこの世ならぬものの音まで聞こえてしまう百瀬だけだ。
間違いなくあそこには何かいる。永辻がピアノを見に来たときに、ついでに必ず図工準備室の方も見てもらおうと、百瀬は固く心に決める。
これもまた話せることではないので、百瀬は「図工といえば」と話題を変えた。
「式見。彫刻刀で怪我をしてなかったか?ピアノを弾いて大丈夫なのか?」
言われて小夜は「ああ……」と自分の左手に目を落とした。そこには絆創膏が巻かれている。
彼女は彫刻刀を持つ手に力が入りすぎて、勢い余って板を支える左手を刺してしまったのだった。彫刻刀によってできた特徴的なくの字の傷口から血がこぼれ、慌てて付き添いを付けて保健室に行かせたのだ。
「付け根の方だったから、別に大丈夫」
と言いながら、百瀬から見れば難しそうな楽曲を当たり前のように弾いている。会話の片手間だからといって、特に乱れる気配もない。
百瀬はその様子にほっとしながら、前から気にしていた問題について尋ねてみることにした。




