chapter 2
「なんか……ピアノの音が聞こえません?」
「え、そう?私には聞こえないけど……」
百瀬の言葉に松野が首を傾げる。
「音楽の……三原先生は帰られてますよね?」
「ええ、とっくに。私にはまだ聞こえないけど、百瀬先生が言うなら本当に誰かがピアノを弾いているのかも。百瀬先生、耳が良いから」
「生徒だったりするとまずいな」
「そういえば先生、知ってる?夜中に音楽室のピアノが鳴っているって噂」
松野がいたずらっぽい顔をして尋ねてくる。
百瀬は「松野先生も聞いてるんですか?」と驚いた。
「うちのクラスも女子達が騒いでいたわ。本当なのかしら。でも恐いわね……百瀬先生」
「はい?」
「先生、男でしょ?ちょっと見に行ってくれない?」
にっこり微笑みかけられて、百瀬はげんなりとした顔をした。
「……俺はあまり気にしませんけど、最近は「男だから」とか言わない方が良いですよ」
「うふふ。確かに言葉が良くなかったわね。じゃあ、行ってくれるかしら?先生、頼りになるから」
「とってつけたように……。まあ、最初から行く気でしたけど」
そう言って百瀬が立ち上がる。
松野は「頑張ってね」と手を振った。
ピアノの音色は未だ続いている。大きくなったり、小さくなったり。速くなったり、遅くなったり。
百瀬も初めは誰かがいたずらで録音を流しているのではないかとも疑った。だがこんな気まぐれな演奏の仕方、CDの類いとは思えなかった。何より彼の「人より良い耳」が、これが今まさに直に演奏されているものだと教えていた。
百瀬は懐中電灯を片手に、消灯した廊下を歩く。普段は気にならない自分の足音がやけに大きく響いた。
音色に導かれて着いた先は音楽室だった。やはり音源はここらしい。
百瀬の脳裏に、先程生徒らが話していた内容が蘇ってくる。
――その3年生の子は宿題に必要な教科書を机に入れっぱなしにしてたことに夜になってから気がついて、慌てて学校に戻ってきたの。先生に気づかれないようにこっそり校内に忍び込んで、教室で自分の教科書を机から引っ張り出したところで、ピアノの音が聞こえてくるのに気がついた。
百瀬は懐中電灯をぎゅっと握りしめる。音楽室の分厚い扉をじっと見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
――目的を果たしたからほっとしたのね。それで「こんな時間にピアノを弾いているのは誰だろう」って好奇心が湧いてきて、見に行くことにしたんだって。もし弾いているのが先生だったりしたら学校に忍び込んだことがバレちゃうから、うすーく音楽室の扉を開けて中を覗いたの。
ピアノの音はまだ続いている。
百瀬は引き手に手をかけた。
――音楽室には誰もいない。でもピアノは鳴っている。誰も触っていないのに、鍵盤がひとりでに上がり下がりしてる。その子はびっくりして固まっちゃった。その場で動けなくなって、視線もピアノに固定されて見回すこともできなくて。声も出なくなった。金縛りに遭ったみたいになったのね。
ばんっと勢いを付けて百瀬が扉を開く。
確かに誰もいない。
ピアノの音色も扉が開いたと同時に止んだ。
百瀬はどこかに隠れてはいないかと注意深く懐中電灯をあちこちに向けながらピアノの方へと歩いて行った。
――ピアノの音が止んだ。完全に無音の中で、後ろから「ミ、タ、ナ」って。その声が聞こえた途端、どんって上から押し潰されるような感覚がしたんだって。上から天井が落ちてきて、ぺしゃんこにされるような感じだったらしい。
ピアノの蓋が開かれている。白と黒の鍵盤がはっきりとその身を晒している。
いや、赤だ。
鍵盤の上に全面、べっとりと赤いものがこびりついている。
百瀬は息を呑み、懐中電灯を取り落とした。
「わ……っ」
がつんっという懐中電灯が床に落ちる音で、百瀬の止まり掛かっていた心臓が大きく跳ねた。慌てて拾い上げると、ありがたいことに壊れてもおらずちゃんと光を放っている。
まだドキドキする心臓を抑えて、あらためて鍵盤を照らした。
するとそれはいつも通りの鍵盤だった。汚れもなく磨き抜かれた白と黒だ。
「見間違いか……?」
そう言ってみるが、彼の本能は完全に否定していた。
念のため、ピアノを全方向から懐中電灯で照らしてみるが、特に変わったところはない。しばらく粘ったがとりたてて何も出てきそうにないので、ピアノの下を覗き込んでいた頭を上げ、髪をくしゃくしゃと掻いた。
「馬鹿馬鹿しい。良い歳した大人が何を一人でびびっているんだか」
気が抜けた百瀬は開いていた鍵盤の蓋を閉める。あらためて音楽室全体を見回すと、外に出た。
溜め息を吐いて、先程の怪談の結末を思い出す。
――気がついたら、先生に倒れているところを見つけられて、お母さんが呼ばれて家に連れて帰られたんだって。その後?わかんない。でもそれからずっと登校してないって。
ありがちな話だ。話していた彼女はその生徒の名前も知らないらしい。見つけた先生の名前も。又聞きの又聞き。何とも無責任な話だ。
そんな話に踊らされてびくびくしながら音楽室を見に来た自分を思うと、百瀬は恥ずかしかった。
(……でも)
恥ずかしかった、のだが、うっかり信じてしまった理由はわかっている。
(さっきのピアノの音、なんだか悲鳴みたいだったんだよな。まるで誰かが泣いているみたいで…………)
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