chapter 1
「ねぇ、知ってる?音楽室のピアノの噂」
「夜の音楽室で、誰もいないはずなのにピアノが鳴り出すっていうあれ?」
「なになに?七不思議?」
「七不思議とは違うよぉ。最近のことだもん。3年生の子が聞いたって。忘れ物を取りに学校に戻ったとき、暗い廊下を歩いていたらぽろん、ぽろんって音楽室の扉の向こうからピアノの音が……」
「おい、お前らいつまでいるんだ。もう17時過ぎてるぞ」
教室の引き戸ががらっと開け放たれる。
電気を落とした薄暗い教室で、顔を寄せ合っていた4人の女子生徒は一斉にびくっと肩を震わせた。
だが入ってきた人物の顔を見て、少女らはほっと胸をなで下ろした。
「なーんだ、百瀬先生かぁ」
「モモちゃんせんせーじゃん。驚かさないでよ」
入ってきたのはこの教室、5年1組担任の百瀬だった。もっさりとした癖の強い髪に、牛乳の瓶底のような眼鏡。有り体に言って野暮ったい。それでも20代ということで他の教師より歳が近いからか、生徒らにはやたらと親しみやすいキャラクターという扱いをされていた。
「先生は残業?かわいそーう」
「そう、残業だ。お前らを帰らせるという仕事が終わったら、俺も帰れる」
「えぇ?でもまだ話の途中じゃん?」
「その3年の子はどうなったの?」
百瀬の声かけを適当に躱しながら、少女らはいっそう顔を近づける。この勢いで最後まで突っ走るつもりだ。
「おーまーえーらー」
業を煮やした百瀬が、手近な所に座っている生徒の椅子を後ろから揺さぶってやる。
彼女は髪を振り乱しながら、きゃっきゃと笑った。
「ほら、式見も帰りな」
百瀬がついでとばかりに廊下側の席に一人で座っている生徒の方を振り返る。彼女は怪談話には加わらず、自分の席でぼんやりと頬杖をつき、天板を指で叩いていた。百瀬の言葉に軽く視線を寄越すも、動こうとしない。
「この時期、日が落ちるのも早くなっているんだから。親御さんも心配するぞ」
そう言いながら百瀬が式見という名前の少女の所へと歩み寄る。こうなれば一人ずつでも帰らせようという魂胆だ。
怪談話をしていた少女の一人が、百瀬の背中にからかうように声をかける。
「ほら、式見さんも続きが聞きたいって。怪談のオチだけ残して帰らせるなんて拷問みたいじゃ……」
言い終わらぬ内に、式見がばんっと天板に手のひらを叩き付けて立ち上がった。
「るっさいわね。ピアノが勝手に鳴るわけないでしょ。ばっかみたい」
「お、おい……」
すぐ傍まで来ていた百瀬は彼女の豹変にぎょっとして立ち止まる。
式見は彼をきっと睨み付けると、机の横に掛かっていたカバンを引っ掴む。乱暴に扉を開けるとさっさと教室を出ていってしまった。
後には呆然とした百瀬と、残り4人の少女らが残された。
数秒の沈黙の後、少女らはわっと話し始めた。
「何あれ。一人で勝手にキレて」
「あの子いつもあんな感じじゃん。ずっとイライラしてる」
「なんか式見ってピアニスト志望で毎日めちゃくちゃピアノの練習してるらしいよ。それでストレス溜まってんじゃない?」
「だからってうちらにぶつけなくてもいいじゃーん」
教師の目もおかまいなしに始まった悪口大会に、
「わかった。わかったから、お前ら。いい加減帰れ。どんどん時間が遅くなる」
と百瀬は今度こそ強引にストップをかける。この手の陰口を盛り上がらせると、碌なことにならない。
「モモちゃーん、せめてさっきのピアノの話だけでも最後まで聞きたいよ」
「あんな中途半端じゃ気になって帰れないじゃん!」
話し足りない少女らが百瀬に懇願する。普通にお喋りを楽しんでいる分にはかわいいのだから困ったものだ。
「仕方ないな……」
陰口よりは怪談の方がマシだろう。百瀬が溜め息を吐いて引き下がる様子を見せると、少女らは大喜びで再び夜のピアノの話しに戻ったのだった。
* * *
百瀬がようやく少女らを全員校舎から追い出したときには、18時近くになっていた。秋も終盤に差し掛かる頃で、外はとっくに暗くなっている。
「あら、百瀬先生。まだ帰らないんですか?」
職員室で声をかけてきたのは6年生の担任をしている松野だった。いつもきちんとしたスーツを着ている、40代後半の上品な女性だ。
「算数のテストの採点が残っていることにさっき気がつきました。それだけ終わらせてから帰ります」
自席についてさっさと仕事に取りかかろうとする百瀬に、松野は困ったような顔をした。
「別に急ぎってわけじゃないんでしょ?帰れるときにはさっさと帰らなきゃ」
「そんなに時間かからないんで大丈夫ですよ。それに今日は同居人もいないので急いで帰る必要もないし」
百瀬が淡々と応える。
「あら、彼女さん?良いわね~」
「いや、男です」
「それはそれで……」
「松野先生?」
うっすら喜色の混じる松野の声に、百瀬もつい赤ペンを止めて顔を上げた。
その時だった。
ぽろん……ぽろんぽろん…………
ピアノの音がする。
かすかに、だが継続的に鍵盤を叩く音がする。それは確かにメロディーをかたちづくっていた。音楽に疎い百瀬には曲名はわからないが、おそらくクラシックだろう。




