1度だけ、奇跡のように(3)
幾らか時間が過ぎただろうか、立てるか尋ねられ肩を支えられた頃には、それを断らなければ彼女が潰れると考える余裕があったが、膝を立ててどうにか立ち上がった己の目の前で、木造の家が数回の瞬きのうちに築かれていったのには目を疑わざるをえなかった。
何が起こったのか、目の前で起きたことだと言うのに、理解が追いつかない。
彼女は肩は諦めつつも俺の腕を引きずるように家へ誘導しながら説明する。
「これはね。先代の顔に泥を塗る失敗よ、魔女に借りを作るなんて。
でも森で死人を作るわけにもいかないから、蜜をあげる。ああ、蜜というのは私の魔法の形よ、魔女には確かに心臓は無いけれど私は元々薬師筋の魔女だから痛みを消す薬くらい作るのは造作もないの、だから私を侮るのはやめて頂戴。大体私は騎士殿の思うより年嵩なのだから、人間の娘にするように接されては据わりが悪いからそれもやめて頂戴。
さあ、早く入って。簡易拵えだけれど、此処なら呪い雪の影響もない」
どうやら体調を崩した己の為に家を魔法で用意してくれたようである。
中に入ると、まずは薄暗かった部屋に明かりが作られ火種もないのに灯り、次いで暖炉や寝台やらが虚空からじわじわと領域を明かしていく。
「騎士殿のそれは私を敬うものではなく甘やかすもので、私には不要のもので、そも私は人間の騎士に庇護される娘という図に嵌められるのを非常に不愉快に思っていて、人間同士ならいいのだろうけれど、此方は亡国の魔性とも呼ばれる存在であるからして人間に守られるなんて我慢がならないと言わざるを得ないわけで、あなただって、剣を佩いているのに何も持たない小娘に守られては納得がいかないでしょう、そういうわけで、見解の不一致を見てお互い適切な距離をとるべきで」
呆然としている俺を置いて魔女の吐露はまだ続いていた。どうやら俺の行動や言葉は悉く彼女の怒りに触れていたようである。
その傍から棚やら壺やらといったものが出来上がり、その中をせわしなく歩き回っている彼女の姿は小さい。
意外にすばしこいと眺めていると、なにをしている早く寝台に!と怒声を飛ばされた。
腰かけた寝台の掛布は冷えていたがたっぷりと綿が詰まっているようだ、暖を取るには申し分ないだろう。いつの間にか暖炉にも火が灯っている。ふと重みを感じて視線を戻すと、掛布が一枚増えていた。
上着を脱ぎ枕代わりにし、剣をどうしようか逡巡していると、奥の創造が終わったのか少しづつ声が戻ってくる。
「むしろ知恵と力を与えるのはこちらで、つまり優位は魔女にあるべきなの、人間が魔女をどうにかしようとなど驕りが過ぎるというものよ。恐れなく触れ畏れなく話し惧れなく信じる騎士殿は魔女に対する心構えが足りないのだわ。数多の人間の願いを叶えた私にはわかる、騎士殿はおかしい。私を娘のように扱ったりして。いや、確かに私は人の容をしていて、それを気に入る人間もいたけれど、魔法を見せれば皆同じになったものなのだわ、それなのに騎士殿ときたら、まあ、今は不調もあるだろうけれど、簡単についてきたりして、いや、入ってもらわないと困るのだからそれはいいのだけれど、やはり」
まだ言っていた。
「あ、ああ、すまない」
先ほどの会話があったにもかかわらず自分の過失が解らないまま謝ってしまった自分に驚いたが、その発言を取り消そうとは不思議と思わなかった。
己は魔女を宥めたいのだ。謝り、許しを得、ことなきを得たい。
怒りに煌めく黒の瞳より、蕩けた蜜のように優しい瞳を知りたいと、思っている、のだろうか。
それは彼女の言葉の端に、己を慮っている色があることが窺えたからだろうか。弱った意思が見せる都合の良い妄想かもしれない。
だが、腕に彼女を抱いていた時より彼女が近く感じるのは間違いではない筈だ。
今なら、目を見ることができるかもしれないとすら思う。
気が大きくなったのだろうか、剣は寝台の下へ横たえることにした。
「謝るだけなら簡単だわ。ちゃんと実践して証してもらいたいわね」
とうとう影が落ちる程ちかづいた魔女は己を詰ることにまだ足りないようだったが自分でも論点が外れていった自覚があったのだろう。剣をきちんと傍置けと言うに留めてその通りにすると以降追撃は飛んでこなかった。纏う空気は胡乱気であり、恐らくは目には不満の色がありありと浮かんでいるであろうことは察せられたが。
それら全てを重い溜息にして留飲を下げることにしたのか、「まだ、痛むかしら」と呟くような声は柔らかさを纏っていた。平気な気がする、という気遣いではなく痛みの有無の所在を聞かせてほしい、と連なった言葉は娘らしい弱弱しさと薬師のような真摯を携えている。
外にいた時とは雲泥の差だ。
それなのに、また目が見られず、俯く自分の弱気と言ったら、師に知られればどうなるものか。
「……いや。最初より大分和らいだ」
「他に変調は」
「頭痛と、動悸……胸やけ、と言うのか?靄がかかったように、落ち着かない」
「そう。いつから痛みが?」
「あなたを降ろして……その時に、香りが」
「……ここに来てから?元々ではなく」
「あ、ああ」
「……香り。この森には風もないのに」
「檸檬のような、……柑橘系というのか。
それが香ったと思ったら、心臓が痺れたような気がして、それから」
とうとう沈黙が下りた。今更顔を上げることもできない自分の耳朶を小さなつぶやきが降りていく。
「ここに来てから……?香り、檸檬、……心臓の、不調」
何かを確かめるような反芻と、視線を感じる。顔色を確かめでもしているのだろうか。
「此方を見て」
「……どうしてもか」
「呪いなど掛けないわ。目を確認するだけ。早くなさい」
「・・・・・」
居た堪れないままに言葉の通り視線を移す。魔女の首筋を凝視するのが精々だった。
だから、その時の彼女がどんな表情をしていたのかは解らない。
「…………。今はその痛みは?」
魔女は飽きれたのか、納得がいったのか、ややあって、もういい、と呟いた。
「雪に触れていた頃よりずっとましだ」
「……ならば、いい。ここは…あの雪の呪いの具現だから、うん、それの影響だわ、きっと」
まるで言い聞かせるように早口で言うと、此方の言を待たずに立ち上がり奥に消え、程なくして茶器を手に戻ってくる。
「茶が出来たわ。心臓周りの血の管を広げ循環を促す作用がある。
眠気が出るが、抗わずに横になりなさい」
「いや、そこまでは」
「今さら警戒?
それは今はいらない。
騎士殿は少々私を軽んじているようだから、此処でしっかりと私の薬師筋の魔女としての手腕をその身に知っていただかなくてはいけないわ。
おそれを取り戻すことは人間にとって長生きするのに必要なことのひとつだから」
「軽んじているつもりは無いんだが……」
「いいから、早く飲む!人間はね、心臓に支障をきたすとすぐに内の器官がやられてしまうのよ。
どこも脆いけれど、見えない体の中は一層気を遣わなくてはいけないの。
心臓が痛いだなんてね、放っておいてはいけないわ」
「……だが、儀式があまり長引いては、要らぬ誤解を招くだろう」
「先ほど説明したでしょう?この森に張った結界は内にある全ての時間を止める。
此処にどれだけいても、外との差異は生じない。
逆に言えば助けも来ないけれど。私は騎士殿を害さないのだから、何も問題はない。
そうでしょう?」
その言葉に何かが引っかかる気がしたが、それを咎めるように一層、圧を増す魔女により形を掴むことは叶わなかった。容色の整った娘の無表情とは、かくも迫力のあるものなのか。
「わ、わかった。飲」
首肯を確かめるや否やぐいぐいと杯を押し付けられては従う他にない。
やや甘い味が喉を通るのを見ても彼女は半目を崩さなかった。
茶器の底に滴も残っていないことを確認しても、目元は和らぐことは無いところを見るに、自分はすでに彼女の信頼をかなり失っているようだ。
「飲んで、寝る」
「……眠れない」
「何?」
一応、敷布に体を横たえて見せると、すかさず掛布を被せられる。
すぐにでも寝ろということらしいが、自在に眠ることができる器用な性質ではない。
「元々、あまり眠らないんだ」
言外に、催眠促進効果とやらも鈍るかもしれないと伝えたつもりだった。
だが、先ほどの茶がわずかな甘みを口内に残しつつ体を巡っていくのは解る。
体が熱を持っているのか、やけに清涼で胸の靄を流すように感じられた。
これがもしも毒だとしても薬としても、これではひとたまりもない、と詮無いことを考える。
「……」
知らんと一蹴されるか、そのまま立ち去るかと思われた娘はしかし、逡巡したように空白を作った。
困らせてしまっただろうか。目だけでも瞑っておくべきかと瞼を下ろそうとしたとき、己を呼ぶ声があった。
「騎士殿」
その声がやけに所在なさげに聞こえ、思わず顔を見そうになって、彼女の髪を飾る即席の髪紐が暖炉に光るのに焦点を合わせるに留めた。
ここまで介抱されておきながら未だに視線も合わせないなど、己はここまで餓鬼だったろうか。
「……すまない、目を瞑っていれば茶の効果で眠くなるんだよな?
眠るまでそうして……」
ふと、髪紐が揺れた。と思うと魔女の手のひらがくるりと翻る。
すると寝台の隣に小机が現れ、空の茶器を置く音が薪の燃える音に混じった。
次いで指先が丸を描いたかと思った時には柔らかそうな背もたれのついた椅子に彼女が腰かけた。膝にいつの間にか題のない本を載せており、広げた手のひらに羽筆が乗るまでの全ては、魔法というより奇術を見せられた気分になった。
つぶさに見ていたのが解ったのだろう。魔女は口角を持ち上げて嘲るような表情をしていることを視界の端で察した。
「魔法を見た感想を聞こうかしら?」
「……魔法というより、奇術みたいだ」
思わずそのままの感想が口を衝いた。あ、と息が漏れた時には既に遅く、薄桃色だった三日月は今や稜線のように尖っている。ようだ。
「……ほう。魔女を前にペテン扱いとは随分と不遜。
そこまで余裕があるのなら、少し話をしてもいいわ」
己の立て続けの不明に思わず顔を背け、窓の外を見る。
酒に酔ってもここまで無様は晒さないのに、これも不調の影響なのか?
雪は先ほどより勢いを増しているように見えた。
「ジャンはどうしたの。もう代替わり?
随分若いようだけれど、年は幾つ?
王子……否、今はもう王か。あれはどうしている?
魔女を滅する兵器は完成したの?」
本だと思っていたものはどうやら帳面の類だったようだ。
インクを必要としないのか休みなしに綴られていくのは恐らく口に上らせた疑問の数々だろう。空白を大きく開いている。
「まだ眠くはないのでしょう?さあ、騎士殿が寝るまで付き合ってあげる。
存分に答えるといいわ」
好奇心が旺盛なのか、心なしか声が弾んでいるように思う。
表情を盗み見たいような気もしたが、思い直して暖炉を眺めることにした。
これ以上軽率を晒してくれるなよと願いながら、眠気が早く訪れるように瞼を閉じる。
……止まない呪いの雪を目に焼くよりは、胸に落ちる滴のような声に答える方が幾分かましであるはずだ。