虫とか幽霊とか
ソファのひじ掛けに片足を放りだし、仰向けに近い体勢で眠っていた紫苑は、肩を揺り起こされてぽっかりと目を開けた。
ベランダ沿いの窓から朝日が差し込む中、夢の中で見たはずの美貌が、紫苑の顔をのぞき込むようにして微笑を降らせる。
自分の胸に手をついて立ち上がる彼女を、紫苑はぼんやりと見上げた。
まぼろしのはずなのに、なぜ重みがあるのだろう。
彼女のくちびるが動くと、紫苑の耳には起きて、という囁きとなってたしかに届いた。
覚醒したはずの自分の目の前にどうして夢の中の女性がいるのか、紫苑はまぶしさに目を細めつつ考えたが、よくわからない。
紫苑が上体を起こすと、紫苑の体の上に掛けてあったバスタオルをふわりと彼女は拾いあげた。
そして、もうひとつほほえみかけてから、音もなくリビングを出ていってしまう。
戸の開閉も目には見えたが、実際に開いたのかどうかは判然としない。
「まだ寝ぼけてんのか、俺……」
前髪を掻き上げながらつぶやいた紫苑がふと目をやると、ローテーブルやそのまわりに、昨夜杏が出て行ったときのように原稿が散らばっていた。
ということは、女性が原稿をかき集め、渡してくれたというのも現実ではなかったということだろうか。
しかし、紫苑の脳裏には、読んだはずのマンガのストーリーがおぼろげながらも浮かぶ。
試しに、ローテーブルの上の一枚を拾いあげて見たが、58とページ数がふられたその原稿がストーリーの中のどのあたりか、紫苑には見当がついた。
──けれど、それも錯覚でないとは言い切れない。
はた、と気づいてパソコン机を見たが、そこに真名のすがたはなかった。
いったい、どこまでが現実で、どこからが夢なのか。
紫苑が昨夜の記憶をもういちど振り返ろうとしたとき、リビングの戸がバタンと開いた。
今度は、よく見知った顔が現れ、紫苑の方を向くなり、天真爛漫な笑みを咲かせる。
「おっはよー、しーちゃん!」
「ああ、おはよ。なあ、チー、真名、おまえんとこで寝てたか?」
「うん、居たよ。今、起きて着替えてる。お腹空いたの? パンでも焼いてかじってる?」
まったく見当はずれの千夜のことばに、紫苑はおもわず笑みをこぼした。
「いや、それはいいとして──なあ、この部屋って、おまえたち四人以外に誰か居るのか? おまえらより、だいぶ年上で…………」
千夜の表情を見ていただけで、返る答えが紫苑には十分すぎるほどわかってしまう。
「いーやぁああ! しーちゃん、朝っぱらからこわいこと言わないでよぉ。何、なんなの? この部屋、ユーレイでも居るの、ねえ!」
ねえねえ、と、すっ飛んできた千夜に服をつかまれ、紫苑はがくがくと揺さぶられた。
「おまえさ、意外に怖がりだよな? 虫とか幽霊とか、ダメなのか」
「だめに決まってるでしょお。パパいないんだよ。しーちゃんも居ないときにそんなの出たら、里沙とふたりっきりでどうすんのっ!」
「心配すんな、虫も幽霊もおまえらを取って食やしねーから。危ないのは、いつだって生きてる人間、一択なんだからよ」
やがて起きてきた真名に訊いてみると、夜中に目を覚まして、自分でパソコン机から千夜の部屋へと移動したらしい。
ソファで眠っている紫苑を見たおぼえはあるようだが、他に人影はなかったという。
といっても、自分にタオルケットが掛けられていたかどうかさえ定かじゃないくらいなので、寝ぼけていた真名が女性に気づかなかっただけ、という可能性もなくはないが……




