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女神のごとき微笑

ひたひたと裸足で紫苑の前を横切った女性は、手にしていたタオルケットを、真名の体をくるむようにしてそっと掛けてくれる。

紫苑がその足元に目をやったのは、もしかして幽霊だろうかとおもったからだが、そもそも幽霊に足がないという知識があてになるのかもわからない。

いつの間にか紫苑は夢の中にいるのかもしれないが、紫苑が知らないあいだに少女の誰かが知り合いの女性を連れ込んでいたという可能性も、まったくないわけではないようにおもう。

里沙の姉、と言われたら納得するほど美しい面差しをしているが、そのやわらかな表情はどちらかというと真名に近いような気もする。

彼女たちも、もう七、八年すれば、こんなふうな声をかけるのさえためらわれる玲瓏の淑女となるのだろうか。


ぽかん、と口を開けて見とれてしまっていた自分に気づいて、紫苑はあわてて咳払いをした。

ぎくしゃくと足を交互に動かして、ローテーブルの向こうのソファに座りに行く。

自己紹介くらいしても罰は当たらないだろうとおもうのに、なぜか声がのどに張りついて、かけらさえ出てきてくれない。

ソファに座って一息ついても、紫苑は彼女から目を離すことができなかった。

紫苑がひと言も発していないというのに、その女性は膝下まであるゆるやかなワンピースのすそを揺らしながら、ダイニングテーブルとローテーブルの間を行き来して、腕に一枚、また一枚と原稿を重ねていく。

紫苑が手描きで振られたページ数を見ながら、これでもない、あれでもない、と懸命に探しあてていた原稿を、彼女は絵を一目しただけで迷わずその手に取り上げた。

動きにしても、次のページがどこに置いてあるのかを知っているかのように、無駄がない。


紫苑がその静かな表情を見つめていると、やがて、こちらを振り向いて、にっこりと彼女は笑いかけた。

どきん、と胸が鳴ったのは、ときめいたからではない。

その笑顔が、紫苑の中で、おもいがけず千夜のものと重なったからだ。

紫苑の従妹はこんなに美人ではないし、美人になるともおもえないのだが、それでもこんなふうになってくれたら…………そう、いっしゅんでもおもってしまった自分に、紫苑は心の底から動揺した。

しーちゃん、だいすき──そういって抱きつく千夜は、未だ少女未満でしかない。

妹のような従妹の好意に、男として動揺させられることもなかった。

けれど、いずれは、抱きついてくる千夜を突き放さずにはいられなくなるかもしれないという予感は、紫苑も持っている。

その前に、抱きつくことをためらうくらいに千夜の中身が成長してくれたらいいとも、紫苑はおもっていた。

なのに────


彼女は夢だ、紫苑はそう自分に言い聞かせた。

こんなのは、どう考えても、自分に都合のいい妄想でしかない。

前髪を掻き回し、瞑目しても、それでも彼女は紫苑の視界から消え去りはしなかった。

そばまでやってきて、紫苑の手にページ順に並べた原稿を渡してくれる。

ひとコマ読んでは、紫苑はさらにもう一冊分の原稿をあつめてまわる彼女の顔をちらりと盗み見た。

いくどか、視線に気づかれ、そのたびに夢のような美貌が紫苑に向かってほほえみかけてくれる。

いったい、なんの願望なのかと、紫苑は自分にあきれずにはいられなかった。

例えば、里沙はたしかに美少女だし、真名も文句なくかわいいが、どちらも子どもとしかおもえない従妹と同い年で、とても紫苑が恋をするような対象ではない。

その点、このくらい大人の女性であれば、紫苑が恋慕を寄せようと、仮に劣情を抱いたとしても、秘めてさえいれば批難されることはないだろう。

手を、触れさえしなければ、その美しいすがたをどれだけ見つめ、布地に覆われた肢体のかたちを脳裏に思い描いたとしても──


順序どおりに並べられて手の中におさまった原稿は、探し回りながらに比べるとよっぽど読むのが楽ではあるのだが、彼女に気を取られている紫苑にとって、内容が頭に入ってこないという意味ではあまり大差なかった。

それでも紫苑は時を忘れて、彼女の踏み出す足を、原稿を拾いあげる肩の動きを見つめていた。

ときおり、自分に向けられる恋人よりも親しげなまなざしと、その女神のごとき微笑も。

読み終えた原稿をローテーブルに置いた紫苑は、睡魔がこちらをうかがっている気配を感じながらも、傍らに立つ女性が手渡してくれたもう一冊分の原稿に目を落とす。

いよいよ睡魔に頬を撫でられるようになったとき、紫苑はふとおもいだした。

背景の下書きをしながらダイニングテーブルで眠ってしまったあの日、自分の肩に掛けられていたバスタオルのことを。

翌朝訊ねてみても、みな一様に知らないと口をそろえたが。

あれは彼女の仕業だったのだ──

そんな確信を抱きながら、紫苑はやがて、心地よい睡魔の懐へと落ちていった。



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