欲求不満
千夜から『ユーレイ』のはなしを聞かされた里沙は、紫苑をびっし、と指さして断言した。
「あんたの妄想に決まってんでしょ!」
里沙も、千夜と同様に虫はニガテなようだが、幽霊に関してはその存在さえはなから信じていないようだ。
「私だって、原稿のせいで寝られないとき、すてきなひとが現れて、さらさらーって描いていってくれたらいいのにっておもうけどね」
「ほうほう。紫苑くんみたいなうまーいひとが現れて、ね?」
「杏! 男なんてひとっ言も言ってなーい!」
「さいですか。でも、紫苑くんのすてきなひとは、年上の美人さんなんだねー。ちぇ」
紫苑の顔をのぞき込んで意味ありげな微笑を浮かべた杏を、里沙が押し退ける。
「願望よ、紫苑の、が、ん、ぼ、う! 欲求不満ってやつでしょ。だいたいねー」
「ね、里沙ちゃん。この上にある入れ物、取ってくれない?」
朝食を作っている真名の声がキッチンから聞こえた。
四人の中でもっとも長身なのは里沙だが、もちろん紫苑の方がそれより五センチくらいは背が高い。
代わりに手伝うべきかと目をやった紫苑は、カウンター越しに懸命に背伸びをしている小柄な真名の、ふだんは見えない腿裏と、まっしろな腕のつけ根を目撃してしまう。
瞬間、ふつ、と紫苑は自分の中で押さえ難い衝動が沸き立つのを感じた。
「しーちゃん、お箸配ってー。しーちゃん?」
固まっている紫苑の腕を、千夜がぐいと引っぱる。
たったそれだけで、ふらりとよろけた紫苑に、千夜がぎょっと目を丸くした。
「どーしたの、しーちゃん。お腹痛いの? それとも、お腹の空きすぎ?」
紫苑は片手で顔面を覆う。
目を閉じれば、自分を見上げてくる千夜の瞳までが宝石のようなかがやきをまとってまぶたに浮かぶ。
これは重傷だ、と痛感した。
「たしかに……欲求不満ってやつなのかもしれねーわ。ちょっと、ひとりでかかせてくれ」
「へ? かくってなにを?」
「チー、おまえの部屋借りていいか?」
「いいよー。──いや待って! だめ、ダメ! タンスの中とか勝手に見ちゃう?」
「見ねーよ。じゃあ……トイレはこもっちゃまずいだろうし、バスルームでいいや。しばらくひとりにしてくれ」
「しーちゃんてば、目が据わってるよぉ。杏ちゃーん、どうすんの?」
「ふむ。べつになにも漁らないとおもうよ。部屋、貸してあげたら? どうしても不安なら、ドアを開けてもらってたらいいんじゃない」
杏のことばに、千夜がうーんとうなり返す。
紫苑は返答を待たずに、足を踏み出した。
パソコン机まで歩み寄ると、F6サイズのスケッチブックと、2Bのえんぴつを四本ばかり手に取る。
「えっ。かくって、絵を描くってこと?」
「決まってんだろ。俺は文章書いたりできねーよ。チー、部屋借りる。いいか?」
「あ、うん、うん、どうぞー。……ね、ほんとに絵を描くだけ? のぞきに行っても平気?」
「いいけど、声かけるなよ」
紫苑は、言い置いてリビングダイニングを出た。




