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白織夜叉の冒険譚  作者: 蹴 鞠
第2章
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20話 バグの事


夜が深くなっても、夜叉はなかなか眠れなかった。


鞠凪の部屋から戻ってきて、もうずいぶん時間が経っている。


窓の外では、昼間から降り続いていた雨が、まだ静かに屋根を叩いていた。


ぽつ、ぽつ、と。


一定の間隔で響く雨音。


本来なら、眠気を誘ってくれる音だった。


けれど今夜の夜叉には、その音さえ遠く感じられた。


「…………」


夜叉はベッドの中で、天井を見つめていた。


目を閉じると、思い出してしまう。


雪。


冷たい空気。


小さな身体。


誰かに抱きしめられている感覚。


そして――。


『この子だけは……お願い……』


断片的な声。


顔も。


姿も。


はっきりとは思い出せない。


それでも、その声だけは妙に鮮明だった。


「……私を、守ってくれたんだよねぇ」


ぽつりと呟く。


鞠凪から聞いた話。


自分の両親は、最後まで夜叉を守っていた。


その事実だけは、もう疑いようがなかった。


胸の奥が、少しだけ痛む。


けれど、それと同時に。


どこか温かいものもあった。


「……ありがとう」


誰に向けた言葉なのか。


自分でも分からなかった。


ただ。


そう言いたかった。


そして。


夜叉の視線が、机の上へ向かう。


そこには、昼間にリリィが残していった黒いリボンが置かれていた。


刺繍された文字。


――リリィ。


あの少女は、自分の名前を覚えていた。


ただ、それだけのこと。


それなのに。


今では、とても怖い。


以前なら、すれ違っただけの存在だった。


向こうにとって、自分たちは大勢いる人間の一人に過ぎなかった。


けれど。


『お姉ちゃんも、あなたと遊びたいって』


あの言葉。


夜叉は布団を少しだけ握った。


「……遊ぶ、かぁ」


人間にとっての「遊ぶ」。


そして、あの少女たちにとっての「遊ぶ」。


同じ言葉でも。


きっと意味が違う。


そう思えてならなかった。


「……興味持たれちゃったんだよねぇ」


小さく呟く。


しばらく、黒いリボンを見つめる。


やがて夜叉は、ゆっくりと目を閉じた。


「……お母さん」


返事はない。


当然だ。


ここに鞠凪はいない。


それでも夜叉は、静かに言葉を続けた。


「私……生きてて、よかったんだよねぇ」


少しだけ間が空く。


そして、自分自身に言い聞かせるように。


「……うん」


夜叉は目を開けた。


「生きてて、よかったぁ」


そう呟いて。


今度こそ、ゆっくりと目を閉じた。


───


翌朝。


雨は上がっていた。


濡れた石畳には薄い水たまりが残り、朝の光がそこへ淡く反射している。


白猫の足跡の四人は、宿の食堂で朝食を取っていた。


「いやぁ……昨日の雨、すごかったなぁ」


カイルがパンをかじりながら言う。


「今日は依頼、どうなるんだろうな」


「昨日の時点で、いくつか延期になってたよ」


リゼットが答える。


「地面もまだ濡れてるし、危険な場所の依頼は今日も延期になるかもしれないわね」


「そっかぁ」


夜叉は温かいスープを飲みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


昨夜のことが、頭から離れない。


その様子を、リゼットがちらりと見る。


「……夜叉」


「ん〜?」


「昨日、鞠凪さんのところに行ってたけど……大丈夫?」


「うん〜」


夜叉は小さく笑った。


「大丈夫だよぉ。ちょっと、いろいろ聞いただけだから」


「……そう」


リゼットは、それ以上聞かなかった。


カイルは聞きたそうにしていたが。


「夜叉、昨日何の話――」


「カイル」


リゼットが静かに遮る。


「……はい」


カイルは素直に口を閉じた。


レオンが苦笑する。


「察しろよ」


「いや、気になるだろ……」


「気になるのは分かる。でも、夜叉が話したくなったら話すだろ」


「……そうだな」


カイルは少しだけ肩を落とした。


そのときだった。


「おはようございます」


聞き慣れた声がした。


夜叉が顔を上げる。


「フィルティーナ」


入口に立っていたのは、フィルティーナだった。


いつもの騎士服。


いつもの落ち着いた姿。


けれど――。


夜叉には分かった。


少しだけ、表情が硬い。


「おはようございます、夜叉」


フィルティーナは微笑んだ。


「皆さんも。朝からごめんなさいね」


「いや、どうした?」


レオンが尋ねる。


フィルティーナは少しだけ迷うように視線を落とした。


「……少し、皆さんにお話ししておきたいことがあります」


そして、夜叉を見る。


「夜叉だけじゃなくて、皆さんにも関係することなので」


「私たちにも?」


リゼットが眉を寄せる。


「はい」


フィルティーナは静かに頷いた。


「昨日、師匠……鞠凪さんから連絡がありました」


その言葉に。


夜叉の手が止まった。


「……バグについてです」


食堂の空気が変わった。


───


四人は宿の少し広い部屋へ移動した。


フィルティーナは椅子に腰掛けることなく、窓のそばに立っていた。


朝の光が、その横顔を照らしている。


「最初に、ひとつだけ伝えておきたいことがあります」


フィルティーナは穏やかな声で言った。


「これからお話しするのは、今のところ私たちが確認できていることです」


四人が静かに耳を傾ける。


「まだ分からないことも、たくさんあります。ですから……全部を知っているわけではないんです」


そう言って、フィルティーナは少し困ったように笑った。


「そこだけ、先に分かっておいてくださいね」


「うん」


夜叉が頷く。


フィルティーナも小さく頷き返した。


「では、最初からお話ししますね」


彼女は一枚の紙を机の上に置いた。


「バグウイルスというものは、普通の病気とは少し違います」


「病気じゃないの?」


カイルが尋ねる。


「はい。少なくとも、普通の病気として考えないほうがいいと思います」


フィルティーナは言葉を選びながら続けた。


「バグは、生き物の身体そのものを書き換えてしまうんです」


「……身体を?」


「ええ」


フィルティーナは頷く。


「細胞や器官だけではありません。身体の形そのものや、生き物としての性質まで変わってしまうことがあります」


レオンの表情が険しくなる。


「つまり……感染した生き物が、別のものに変わる?」


「そうですね」


フィルティーナは静かに答えた。


「その理解で大丈夫です」


そして、紙の上に書かれた数字を指で追っていく。


「まず、Lv1」


小さな文字。


「この段階では、比較的小さな動物の死体などに、バグが発生することがあります」


「死体に……?」


「はい。小動物の死骸などに寄生することが確認されています」


夜叉がじっと紙を見る。


「ただ、この段階のものは、それほど脅威ではありません」


フィルティーナは優しく続けた。


「しばらくすると、自然に消えてしまうこともあります」


「じゃあ、Lv1ならそこまで怖くないのか」


カイルが言う。


「そうですね。危険がないわけではありませんけど……少なくとも、次の段階ほどではありません」


フィルティーナはそう答えた。


「そして、Lv2になると少し変わってきます」


指が次の数字へ移る。


「バグに感染した小動物などを、中型以上の動物が食べることで……感染が広がることがあります」


「食べることで?」


「ええ」


フィルティーナは頷く。


「だから、森や山などでは少し厄介なんです。食物連鎖を通して、別の生き物へ移ってしまう可能性がありますから」


「なるほど……」


リゼットが小さく呟いた。


「でも、Lv2も消えることがあるんですよね?」


「はい。まだ自然に消えてしまう例があります」


フィルティーナは微笑んだ。


「ですから、Lv1やLv2だけなら、必ず大きな被害につながるとは限りません」


そこまで言って。


フィルティーナの声が、ほんの少しだけ低くなった。


「問題は……Lv3からです」


部屋の空気が、静かになった。


「Lv3になると、大きな生き物に対して大量のウイルス摂取によって、感染が起きることがあります」


フィルティーナは慎重に言葉を続ける。


「身体の変化も、これまでとは比べものにならなくなります」


「それに……」


少しだけ間を置いて。


「知性が生まれることがあります」


カイルが目を丸くする。


「知性?」


「はい」


フィルティーナは頷いた。


「ただ暴れるだけではなくなります。周囲を見て、考えて、行動するようになるんです」


「……それは厄介だな」


レオンが呟く。


「それだけじゃありません」


フィルティーナは続けた。


「生き物として当たり前だった性質も、崩れていくことがあります」


「たとえば?」


リゼットが尋ねる。


「繁殖行動などです」


フィルティーナは少しだけ視線を伏せた。


「本来なら、生き物が子孫を残すために必要な行動ですよね。でも、バグに大きく侵されると……そういうものが正常に機能しなくなることがあります」


部屋に重い沈黙が落ちた。


「……じゃあ」


夜叉が小さく口を開く。


「生き物じゃなくなっていく、ってこと?」


フィルティーナは夜叉を見る。


その目は、とても穏やかだった。


「……そうですね」


少しだけ考えてから。


「少なくとも、私たちが知っている普通の生き物からは、遠ざかっていくんだと思います」


夜叉は黙って頷いた。


フィルティーナは、さらに先へ進む。


「そして、Lv4」


夜叉の胸が、わずかにざわついた。


森で出会った存在。


顔の中央に、大きな穴が空いていた。


『来ないで』


『やめて』


『嫌だ』


あの声。


フィルティーナは静かに説明する。


「Lv4になると、さらに人間に近い姿になることがあります」


「……あの森のやつも?」


レオンが尋ねる。


「はい。おそらく、皆さんが会ったのもLv4だったんだと思います」


夜叉は黙って聞いている。


「言葉を話すものもいます」


フィルティーナは続けた。


「感情があるように見えることもあります」


「じゃあ、人間と同じなのか?」


カイルが尋ねる。


「……そこは、まだ分かっていません」


フィルティーナは首を横に振った。


「人のように見えるからといって、本当に人と同じだとは限らないんです」


言葉は柔らかい。


けれど、その内容は重かった。


「だから……もし、また出会うことがあったら。姿や言葉だけで判断しないでくださいね」


命令ではなかった。


お願いするような声だった。


「皆さんが危ない目に遭わないためにも」


レオンたちは静かに頷いた。


フィルティーナも、ほっとしたように微笑んだ。


そして。


最後の数字に指が触れる。


「Lv5」


フィルティーナの声が、少しだけ慎重になる。


「今のところ、私たちはこの段階を……バグの、ひとつの完成した形として考えています」


カイルが息を呑む。


「完成した形?」


「はい」


フィルティーナは頷いた。


「人間とほとんど変わらない姿をしていて、高い知性を持ち、非常に高い戦闘能力を有している存在が確認されています」


そして。


「私たちは、そういう存在を――『魔人』と呼んでいます」


その言葉に。


夜叉の身体が、ほんの少しだけ固まった。


魔人。


その言葉を聞いた瞬間。


昨夜の記憶が蘇る。


黒いリボン。


リリィ。


そして――。


『お姉ちゃんも、あなたと遊びたいって』


フィルティーナは気づかず、話を続ける。


「今のところ、確認されているLv5……魔人は、四体です」


紙の上に、四つの印が書かれていく。


「ひとりは、若い男性の姿をしています」


「もう二人は……双子のような少女たちです」


夜叉の指が、膝の上で僅かに動いた。


そして。


最後の一つ。


フィルティーナの指が、そこで止まった。


「もうひとりが……」


一瞬。


言葉を選ぶように間が空く。


「年老いた執事のような姿をした魔人です」


――どくん。


心臓が、大きく鳴った。


夜叉の目が見開かれる。


「……その」


声が、少し震えた。


フィルティーナが夜叉を見る。


「夜叉?」


「その……老執事みたいな魔人って」


胸の奥が苦しい。


けれど、聞かずにはいられない。


「……どんな魔人なの?」


フィルティーナは、しばらく黙っていた。


やがて、申し訳なさそうに微笑む。


「それについては……まだ、分かっていないことが多いの」


「……そっかぁ」


「ごめんなさい」


フィルティーナの声は、とても静かだった。


「今の私には、これ以上のことは言えません」


夜叉は俯いた。


分からない。


けれど。


胸の奥だけは、もう分かっている気がした。


あの存在。


自分の過去にいる何か。


そして――。


今、自分の名前を覚えている者たち。


フィルティーナはそんな夜叉を見つめながら、そっと言った。


「……夜叉」


「ん……?」


「怖いことを思い出させてしまったなら、ごめんなさい」


夜叉は顔を上げる。


フィルティーナは、いつものように穏やかに微笑んでいた。


「でも……一人で抱えなくて大丈夫だからね」


「……フィルティーナ」


「私たちも一緒に考えます」


その言葉に。


夜叉の胸にあった重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった。


「……うん」


夜叉は小さく笑う。


「ありがとう」


フィルティーナも、優しく笑い返した。


窓の外。


雨上がりの王都には、朝の光が差し込んでいる。


けれど。


その光の届かない場所で。


誰かが、夜叉の名前を覚えている。


それだけは――。


まだ、変わらなかった。な

読んでくれてありがとう〜

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