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白織夜叉の冒険譚  作者: 蹴 鞠
第2章
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19話 過去のお話


「あなたがまだ、赤ん坊だった頃――」


鞠凪の声が、静かな部屋に落ちた。


夜叉は黙って聞いていた。


膝の上に置いた両手を、ほんの少しだけ握る。


「精霊の麓で、あなたはご両親と暮らしていた」


「……うん」


「そこは今よりずっと静かな場所だった」


鞠凪の声は淡々としている。


けれど、その言葉の一つ一つを選ぶように、ゆっくりだった。


「雪が多くてねぇ。冬になると、村の外まで白くなる」


「……なんとなく、覚えてる気がする」


「そう?」


「うん……」


夜叉は目を閉じた。


すると。


頭の奥に、また何かが浮かぶ。


白。


どこまでも白い。


冷たい空気。


頬に触れる雪。


そして――


誰かの腕。


「……抱っこされてる」


「……」


「誰かに、抱っこされてる気がする」


鞠凪は黙って聞いていた。


「でも……誰かは分からない」


「それでいいよ」


「うん……」


夜叉は目を開けた。


「続けて」


「分かった」


鞠凪は一度だけ、静かに息を吐いた。


「ある日、あなたの故郷に……魔人が現れた」


「……」


空気が変わった。


夜叉の耳が、僅かに伏せられる。


「魔人……」


「うん」


その言葉だけで。


胸の奥が、ざわついた。


知らないはずなのに。


知っている。


そんな奇妙な感覚だった。


「あなたのご両親は、あなたを守った」


「……」


「最後まで」


夜叉は何も言わなかった。


ただ、鞠凪の言葉を待つ。


「二人とも、あなたを置いて逃げなかった」


「……そうなんだ」


「うん」


その返事だけが、妙に優しかった。


「魔人は強かった」


鞠凪の声が、少しだけ低くなる。


「ご両親は必死に抵抗した。でも……勝てなかった」


夜叉の指が震えた。


その瞬間。


記憶の奥から、また一つ。


声が浮かび上がる。


『――やめて……』


夜叉の呼吸が止まった。


「……」


『お願い……』


幼い自分には、意味の分からない言葉。


ただ、声だけが残っている。


震えている。


泣いている。


必死に何かを訴えている。


『この子だけは……』


「……っ」


夜叉は胸元を押さえた。


「夜叉?」


「……大丈夫」


そう答えたものの、声は少しだけ掠れていた。


「今……声が聞こえた」


「どんな声?」


「分からない……」


夜叉は眉を寄せる。


「女の人の声……だったと思う」


鞠凪は何も言わない。


「泣いてた」


夜叉は目を伏せた。


「何かをお願いしてた」


そこで、記憶が途切れた。


まるで、そこだけ黒く塗り潰されたように。


「……それ以上は、思い出せない」


「思い出さなくていいよ」


「うん」


夜叉は頷いた。


けれど、その表情には小さな苦しさが残っていた。


「……お母さん」


「なぁに?」


「私の両親は……」


そこで、一度言葉を止める。


「……殺されたの?」


「……うん」


鞠凪は、はっきりと答えた。


夜叉は目を閉じる。


悲鳴もない。


涙も、まだ流れなかった。


ただ。


その事実を受け止めるように、静かに座っている。


「……誰に?」


鞠凪は、少しだけ沈黙した。


「Lv5の魔人」


「……」


「あなたたちが今、追われているかもしれない存在と同じ種類のもの」


夜叉の青い瞳が開く。


「……同じ?」


「そう」


鞠凪は頷いた。


「あなたの両親を殺したのは、四体いるLv5のうちの一体」


部屋の空気が、また重くなった。


「……どんな魔人?」


「人の姿をしていた」


「……」


「老人のような姿だった」


夜叉は黙っている。


「そして――」


鞠凪の声が、僅かに低くなる。


「執事のような格好をしていた」


夜叉の瞳が、わずかに揺れた。


頭の奥で。


何かが動いた。


雪。


赤。


白い何か。


そして――


黒い影。


顔までは見えない。


ただ、立っている。


こちらを見ている。


幼い自分には、それが何なのか分からない。


けれど。


怖かった。


理由も分からないほど。


ただ、本能だけが叫んでいた。


――近づいてはいけない。


「……」


夜叉は自分の腕を抱いた。


「……怖い」


小さな声だった。


「うん」


「顔は……思い出せない」


「無理に思い出さなくていい」


「でも……黒い服」


鞠凪の指が、僅かに止まった。


「……そう」


「立ってた」


夜叉は遠い記憶を手繰り寄せる。


「お父さんと……お母さんが……」


そこで、言葉が途切れた。


自分でも、何を言おうとしたのか分からない。


ただ、胸の奥に残っている。


恐怖。


そして。


自分を抱きしめる誰かの腕。


「……その魔人は」


鞠凪が口を開く。


「あなたのご両親を殺した」


夜叉は黙って聞いている。


「でも、それだけだった」


「……え?」


夜叉が顔を上げる。


鞠凪は続けた。


「世界を滅ぼしたいわけでもない」


「……」


「誰かに命令されたわけでもない」


「……」


「あなたのご両親に恨みがあったわけでもない」


夜叉は、理解できないという顔をした。


「じゃあ……なんで?」


鞠凪は答えなかった。


少しの間。


雨音だけが聞こえる。


やがて。


「……珍しかったから」


「……?」


「雪猫族は、その魔人にとって珍しい存在だった」


夜叉の耳が、僅かに動く。


「だから――」


鞠凪は静かに言った。


「どんな味がするのか、気になった」


「……」


夜叉の表情から、ほんの少しだけ血の気が引いた。


理解できなかった。


いや。


理解したくなかった。


「……それだけ?」


「うん」


「……」


「それと」


鞠凪は目を閉じたまま続ける。


「暇だったから」


雨の音が、一瞬だけ大きく聞こえた。


「……暇……?」


「そう」


夜叉は言葉を失った。


もっと何か理由があると思っていた。


憎しみ。


復讐。


命令。


目的。


何か、自分にも理解できるものがあると思っていた。


けれど。


違った。


ただ珍しかった。


味が気になった。


そして、暇だった。


それだけ。


「……そんな理由で……?」


夜叉の声が震える。


「……うん」


「お父さんとお母さんを……?」


「うん」


「……」


夜叉は俯いた。


膝の上で、白い髪がさらりと落ちる。


しばらくして。


「……私を、どうしたの?」


その問いに、鞠凪は少しだけ黙った。


「あなたは、その場に残された」


「……」


「まだ赤ん坊だったから」


「……」


「そして私は、その後に精霊の麓へ行った」


夜叉が顔を上げる。


「……お母さんが?」


「うん」


「どうして?」


「依頼があったから」


それは、とても鞠凪らしい答えだった。


特別な理由を飾らない。


「そこで私は、雪の中にいたあなたを見つけた」


夜叉の瞳が揺れる。


「……雪の中?」


「うん」


「私は……」


「泣いていたよ」


鞠凪が、ほんの少しだけ笑った。


「ものすごく小さくてねぇ」


「……」


「こんな雪の中で、よく生きていたと思う」


夜叉は何も言わなかった。


ただ、自分の小さな手を見つめる。


もちろん、そこには今の自分の手しかない。


それでも。


胸の奥に。


雪の冷たさだけが蘇ってくる。


「……私」


夜叉は小さく呟いた。


「一人だったの?」


「……うん」


鞠凪は静かに答えた。


「でも、その時からは一人じゃないよ」


「……」


「私がいたから」


夜叉は顔を上げる。


鞠凪は、いつものように目を閉じている。


けれど、その声だけはとても優しかった。


「あなたを抱き上げた時、泣き止んだんだよ」


「……ほんと?」


「うん」


「私、覚えてないよぉ」


「赤ちゃんだからねぇ」


鞠凪が小さく笑う。


「それで私は、あなたを連れて帰った」


夜叉は、しばらく何も言わなかった。


やがて。


「……だから」


「うん?」


「私にとって、お母さんはお母さんなんだねぇ」


鞠凪は、少しだけ目を開いた。


淡い青色の瞳が、静かに夜叉を映す。


「……そうだよ」


その言葉を聞いて。


夜叉は、ようやく少しだけ笑った。


「そっかぁ……」


けれど。


その笑顔は長く続かなかった。


机の上に置かれた黒いリボン。


刺繍された、小さな名前。


――リリィ。


夜叉の視線が、そこへ戻る。


「……お母さん」


「うん」


「どうして……そんなことまで知ってるの?」


夜叉が尋ねる。


鞠凪は、すぐには答えなかった。


ほんの少しだけ。


視線を落とす。


「……あの魔人と、会ったからだよぉ」


「……え?」


夜叉の耳が動く。


「私があなたを見つけた時ねぇ」


鞠凪は静かに続ける。


「まだ、近くにいたんだよぉ」


「……その魔人が?」


「うん」


夜叉は息を呑んだ。


「じゃあ……お母さんは、その時に聞いたの?」


「そう」


「どうして、お父さんとお母さんを殺したのか……」


「うん」


鞠凪は目を閉じたまま頷く。


「本人に聞いたよぉ」


「……なんて?」


鞠凪は少しだけ黙った。


「珍しかったからって」


「……」


「どんな味がするのか、気になったって」


夜叉の表情が固まる。


「それと……」


鞠凪の声が、ほんの少しだけ低くなる。


「暇だったからって」


「……」


雨音だけが部屋に響く。


「……お母さん」


「うん?」


「その魔人は……?」


「逃げたよぉ」


「……逃げた?」


「うん」


鞠凪は静かに答えた。


「私が追ったけどねぇ」


「……捕まえられなかったの?」


「うん」


それ以上は、語らなかった。


ただ。


鞠凪の指が、膝の上でほんの少しだけ動いた。


あの時。


魔人は、鞠凪の顔を見た。


そして。


ほんの一瞬だけ。


動きを止めた。


「……まさか」


小さな声だった。


鞠凪は何も言わなかった。


魔人はもう一度、鞠凪を見る。


そして。


何かを確かめるように、その目を細めた。


「……お前が……」


そこまで言って。


魔人は口を閉じた。


次の瞬間。


魔人は背を向けた。


そして、雪の向こうへ消えていった。


鞠凪は追った。


けれど――


届かなかった。


「……どうして逃げたの?」


夜叉の問いに。


鞠凪は少しだけ黙った。


「……さあ」


それだけだった。


「その魔人は……」


夜叉はもう一度、顔を上げる。


「今も生きてるの?」


鞠凪は答えるまでに、ほんの少し時間を置いた。


「……分からない」


「……」


「でも」


鞠凪の声が、静かに響く。


「もし生きているのなら」


淡い青の瞳が、僅かに細くなる。


「あなたのことを、覚えている可能性はある」


夜叉の身体が、ほんの少し固まった。


雨音が聞こえる。


窓の向こう。


暗い王都。


そして、そのさらに向こう。


どこかで。


誰かが。


自分の名前を呼んでいるような気がした。


「……夜叉」


鞠凪の声で、我に返る。


「うん?」


「今日はここまでにしよう」


「……うん」


夜叉は立ち上がった。


けれど、扉へ向かう前に振り返る。


「お母さん」


「なぁに?」


「話してくれて……ありがとう」


鞠凪は、静かに微笑んだ。


「うん」


夜叉は扉を開ける。


廊下へ出る。


扉が閉じる。


その直前。


鞠凪の声が、もう一度だけ聞こえた。


「夜叉」


「……?」


夜叉が振り返る。


「あなたは、生きていてよかったんだよ」


夜叉は、しばらく黙っていた。


そして。


「……うん」


今度は、迷わず頷いた。


扉が静かに閉じる。


廊下に一人残った夜叉は、胸元に手を当てた。


まだ、怖い。


まだ、分からない。


でも。


自分がなぜここにいるのか。


ほんの少しだけ、分かった気がした。


雪の中で。


泣いていた自分を。


誰かが拾ってくれた。


その記憶だけは。


今度こそ、忘れたくなかった。

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