18話 過去
雨の音が、少しだけ遠くなっていた。
つい先ほどまで王都全体を叩きつけるように降っていた雨は、夜が深まるにつれて勢いを弱めている。
それでも、屋根から落ちる雫は、規則正しく石畳を打っていた。
夜叉は宿の廊下を、一人で歩いていた。
白い長髪が、歩くたびに背中で小さく揺れる。
窓の外では、濡れた街灯がぼんやりと滲んでいた。
「……お母さん、何のお話なのかなぁ」
独り言のように呟く。
昼間までは、何も変わらない休日だった。
雨が酷いから依頼は休み。
カイルは昼過ぎには床に寝転がっていたし、レオンは黙々と剣の手入れをしていた。
リゼットは本を読んでいた。
夜叉もベッドの上で、のんびり過ごしていた。
そんな、何でもない一日だった。
なのに。
夜になって届いた一言だけが、妙に胸に残っている。
『今夜、時間があれば自分の部屋まで来てほしい』
それだけ。
それだけなのに。
なぜか、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
夜叉は歩みを止め、窓の外を眺めた。
雨雲の向こうに月は見えない。
静かな夜だった。
「……まあ、行ってみれば分かるよねぇ」
そう言って、また歩き出す。
やがて、見慣れた扉の前に辿り着いた。
鞠凪の部屋。
夜叉にとっては、成長するまで過ごした場所だった。
小さな頃から。
嬉しいことがあった日も。
悲しいことがあった日も。
何もすることがない日だって、ここにいた。
夜叉は扉の前に立ち、軽く二度、ノックした。
コン、コン。
「……お母さん?」
「入っておいで」
すぐに返事があった。
夜叉は扉を開ける。
「お邪魔するねぇ」
「うん」
部屋の中には、柔らかな明かりが灯っていた。
いつもの部屋だった。
黒い着物。
黒い髪。
棚に並んだ道具。
壁際に置かれた武器。
そして、簡素ながら落ち着いた空間。
鞠凪は机の前に座っていた。
いつものように、目は閉じている。
夜叉を見ると、ほんの少しだけ微笑んだ。
「来てくれてありがとぉ」
「ううん。呼ばれたから来ただけだよぉ」
夜叉は部屋の中へ入る。
しかし。
鞠凪の向かい側に椅子が一つ用意されているのを見て、足を止めた。
「……?」
「座って」
「うん」
夜叉は椅子に腰掛けた。
鞠凪は、すぐには何も言わなかった。
ただ、静かに湯飲みを一つ、夜叉の前へ置く。
「熱いから、気をつけてねぇ」
「ありがとう」
湯気が、二人の間でゆっくりと揺れる。
夜叉は湯飲みに手を添えた。
温かい。
それなのに。
なぜか、部屋の空気は少し冷たく感じた。
「……お母さん?」
「うん」
「何か、お話したいことがあるんだよねぇ?」
「……そうだねぇ」
鞠凪の返事は短かった。
夜叉は少しだけ首を傾げる。
「バグのこと?」
その瞬間だった。
鞠凪の閉じていた瞼が、ほんの少しだけ開いた。
青い瞳が、灯りを受けて静かに夜叉を見つめる。
夜叉は何も言わなかった。
鞠凪も、すぐには口を開かなかった。
ただ、その目だけが静かに夜叉を見ている。
「……そう」
やがて、鞠凪は静かに答えた。
「バグのことでもある」
「……でも?」
「それだけじゃないよぉ」
雨音が、遠くで響いた。
ぽつ。
ぽつ。
屋根から落ちた雫が、一定の間隔で地面を叩いている。
夜叉は湯飲みから手を離した。
「……私のこと?」
「うん」
鞠凪は、再び目を閉じた。
「夜叉」
「なぁに?」
「少し、昔の話をしよう」
その言葉を聞いた瞬間。
夜叉の尻尾が、ほんのわずかに揺れた。
「昔……?」
「そう」
鞠凪は机の上に手を置いた。
長い沈黙があった。
長く生きた者が、何かを話す前の沈黙。
その重さを、夜叉は知っていた。
鞠凪は普段、過去をほとんど語らない。
昔の話をしても、笑って誤魔化したり。
「昔のことだから」と言って、話を終わらせたり。
それが、今日は違った。
「夜叉」
「うん」
「夜叉は、自分がどこで生まれたのか……覚えてる?」
「……」
夜叉は少し考えた。
「精霊の麓……だよねぇ?」
「そう」
「雪猫族の故郷」
「うん」
「でも……あんまり覚えてないかなぁ」
夜叉は小さく苦笑した。
「小さい頃のことだからねぇ」
「そうだねぇ」
鞠凪は否定しなかった。
ただ、静かに言った。
「あなたが赤ん坊だった頃の話を、私は今まであまりしなかった」
「……うん」
「聞かれなかったから、というだけじゃない」
夜叉の青い瞳が、鞠凪を見つめる。
「話さなかったんだぁ」
「……どうして?」
鞠凪は答えない。
夜叉も急かさなかった。
ただ、静かに待つ。
やがて。
「……怖かった」
その言葉に、夜叉は目を瞬いた。
「お母さんが?」
「うん」
鞠凪は小さく頷いた。
「私が、あなたに話すのが怖かった」
「……」
「聞いたら、あなたが傷つくと思った」
夜叉の指先が、膝の上で僅かに動いた。
「……私が?」
「うん」
鞠凪はゆっくり息を吐く。
「でも、もう話すべきだと思って」
「……」
「最近、あなたたちはバグと接触した」
夜叉の表情が、少しだけ固まる。
「そして――」
鞠凪は言葉を止めた。
その視線が、机の上へ落ちる。
そこに置かれていた、黒いリボン。
白い糸で刺繍された、小さな名前。
――リリィ。
「……あの子たちは、あなたに興味を持ち始めた」
夜叉は黙ってリボンを見る。
「名前を覚えられた」
「……うん」
「それが、今回の話をする理由の一つ」
鞠凪は、ゆっくりと顔を上げた。
「夜叉」
「うん」
「だから話すね」
ほんの少しだけ、間があった。
「あなたの両親について」
――その瞬間。
夜叉の中で。
何かが、かすかに揺れた。
雪。
白い景色。
冷たい空気。
小さな身体。
誰かに抱きかかえられている感覚。
「……」
夜叉は眉を寄せた。
頭の奥に、何かが浮かびかける。
けれど、掴めない。
霧の向こうにある景色のようだった。
「……両親……」
その言葉を口にした瞬間。
どこか遠い場所から、声が聞こえた気がした。
『――やめて……』
夜叉は目を見開いた。
けれど、そこから先は何も思い出せない。
ただ。
白い雪だけが。
ぼんやりと記憶の底に残っていた。
「……なんだろう」
夜叉は胸元へ手を当てる。
「今、何か……」
「無理に思い出さなくていいよぉ」
鞠凪の声は、静かだった。
夜叉は顔を上げる。
鞠凪は、いつものように目を閉じていた。
けれど。
その表情だけは、いつもよりずっと悲しそうだった。
「ゆっくりでいい」
「……うん」
夜叉は小さく頷いた。
そして、鞠凪はようやく。
長い間、胸の奥にしまっていた話を始めた。
「あなたがまだ、赤ん坊だった頃――」
雨音が、再び少しだけ強くなった。
その音に重なるように。
夜叉の遠い記憶の中で。
何かが、静かに軋んだ。
読んでくれてありがとうございます。




