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白織夜叉の冒険譚  作者: 蹴 鞠
第2章
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15話 名前


村へ戻る途中。


異変は。


さらに増えていた。


道端に。


一匹の野犬が倒れている。


「……またか」


レオンが足を止める。


剣へ手を伸ばす。


けれど。


夜叉が手を上げた。


「待って」


「?」


夜叉は野犬を見る。


動かない。


呼吸もない。


もう死んでいる。


それなのに。


黒い斑点だけが――


ゆっくり。


ゆっくりと。


首から頭へ向かって広がっていた。


「……まだ変わってる」


リゼットが呟く。


「死んでからも?」


「そうみたい」


カイルが顔をしかめる。


「これ……放っておいたらどうなるんだ?」


「分からない」


リゼットは杖を構えた。


「だからこそ……」


炎が。


掌の上に生まれる。


「ここで終わらせる」


炎が野犬を包んだ。


黒い斑点が。


一瞬だけ大きく膨らむ。


そして――


ぬるり。


犬の口から。


黒いものが飛び出した。


「――!」


夜叉が弓を引く。


弦が鳴る。


放たれた矢が。


黒いものを地面へ縫い止めた。


「リゼット!」


「分かってる!」


炎が走る。


黒いものが。


地面の上で小さく痙攣する。


まるで。


逃げようとしているように。


しかし。


炎に包まれ――


消えた。


「…………」


四人は。


しばらく焼け焦げた地面を見つめていた。


「……これで全部?」


カイルが尋ねる。


「分からない」


リゼットは炎の跡を見る。


「でも……これ以上広がる前に、原因を調べないと」


夜叉は。


何も言わなかった。


ただ。


焼けた地面を見ていた。


胸の奥が。


またざわついている。


あの少女。


リリィ。


そして――


――お姉ちゃん。


「……お母さんに、聞きに行こう」


夜叉が言った。


「そうね」


リゼットが頷く。


「私も、その方が良いと思う」


レオンも。


カイルも。


異論はなかった。


          ⸻


王都。


夜。


鞠凪の部屋。


「…………」


鞠凪は。


いつものように目を閉じていた。


黒い着物。


長い黒髪。


静かな表情。


机の上には。


湯気の立つ茶。


四人はその前に座っている。


そして。


机の中央には――


黒いリボン。


「……これを?」


鞠凪が尋ねた。


「うん」


夜叉が答える。


「森で会った女の子が、落としていったのぉ」


鞠凪の指が。


ゆっくりとリボンへ伸びる。


触れる。


その瞬間。


ほんの僅かに。


指が止まった。


「…………」


夜叉は。


それを見ていた。


鞠凪は。


何も言わない。


ただ。


リボンの感触を確かめるように。


指先で布を撫でる。


「名前は?」


「分かりませんでした」


リゼットが答える。


「でも」


夜叉が言った。


「ここに」


鞠凪の指先が。


裏側へ回る。


白い糸の刺繍。


四文字。


「……リリィ」


その瞬間。


鞠凪の瞼が。


ほんの少しだけ開いた。


黒い睫毛の隙間から。


淡い青の瞳が覗く。


夜叉は。


それを見逃さなかった。


冷たい光。


ほんの一瞬。


けれど。


確かに。


「……お母さん?」


鞠凪は答えない。


目を閉じる。


そして。


リボンを机へ置いた。


「その子は」


静かな声だった。


「どんな子だった?」


「普通の女の子に見えました」


レオンが答える。


「でも……」


言葉を選ぶ。


「人間とは思えませんでした」


「……そう」


「瞬きをしなかった」


リゼットが続ける。


「魔力も、ほとんど感じませんでした」


カイルも口を開く。


「あと……俺たちを食べてもいい?って言ってた」


「…………」


鞠凪の指が。


止まった。


ほんの一瞬だけ。


それだけだった。


けれど。


夜叉には。


その小さな変化が分かった。


「それから」


夜叉が続ける。


「お姉ちゃんがいるって」


「…………」


鞠凪は。


しばらく何も言わなかった。


やがて。


「……そう」


声は穏やかだった。


いつもの鞠凪と。


何も変わらない。


けれど。


夜叉には分かった。


何かを考えている。


それも。


かなり深いところで。


「お母さん」


「なに?」


「……リリィって」


言葉が止まる。


鞠凪は。


夜叉を見た。


「…………」


しばらく。


誰も喋らなかった。


部屋には。


湯気の消えていく音さえ聞こえそうだった。


やがて。


鞠凪は目を閉じる。


「……今は」


「…………」


「まだ、何も聞かない方がいいねぇ」


「どうして?」


夜叉が尋ねる。


鞠凪は。


黒いリボンをそっと持ち上げた。


そして。


何かを確かめるように。


もう一度だけ。


刺繍を撫でる。


「その名前を知ったということは」


一拍。


「向こうも」


鞠凪の顔が。


夜叉へ向く。


「あなたたちの名前を知ったということだから」


部屋の空気が。


静かに冷えた。


カイルが眉をひそめる。


「……名前を知られると、何かあるのか?」


「そういう意味じゃないよぉ」


鞠凪は穏やかに答えた。


いつもの。


優しい声。


けれど。


次の言葉だけは。


少し低かった。


「ただ……」


リボンを見る。


「向こうから見つけられた」


「…………」


夜叉の耳が。


ぴくりと動いた。


「……私が?」


「うん」


鞠凪は頷く。


「あなたが」


ほんの少しだけ。


瞼が開く。


淡い青い瞳が。


夜叉を捉える。


「見つけられたんだよぉ」


夜叉は。


その目から逸らさなかった。


いつもの母親の目ではない。


怒っているわけでもない。


怯えているわけでもない。


ただ。


何百年もの間。


何かを知り続けてきた者の目だった。


「……じゃあ」


夜叉が小さく尋ねる。


「また来るの?」


鞠凪は。


答えなかった。


黒いリボンを。


静かに畳む。


一度。


二度。


そして。


机の上へ戻す。


「…………」


その沈黙が。


答えのようだった。


――来る。


きっと。


また。


「お母さん」


「うん」


「次に会ったら」


夜叉は。


小さく拳を握った。


「私は、逃げないよ」


鞠凪の目が。


ほんの少しだけ細くなる。


「……そう」


それだけ。


けれど。


その声には。


ほんの僅かな心配が混じっていた。


「……でもねぇ」


「?」


鞠凪は。


いつものように柔らかく笑う。


「逃げないことと、無茶をすることは……別だからねぇ」


夜叉は。


少しだけ目を丸くする。


「……うん」


「約束だよぉ」


「うん」


夜叉は頷いた。


けれど。


鞠凪は笑顔のまま。


黒いリボンを見ていた。


その指先は。


ほんの少しだけ。


強く布を握っていた。


          ⸻


王都から遠く離れた森。


月明かりの下。


一人の少女が。


木の枝に腰掛けていた。


黒いゴシック服。


白い肌。


長い髪。


リリィ。


少女は。


月を見上げていた。


そして。


小さな手をひらひらと振る。


誰もいない森へ向かって。


「……名前」


楽しそうに呟く。


「夜叉」


その名前を。


覚えるように。


もう一度。


「夜叉」


そして。


また。


「夜叉」


口の中で。


何度も。


何度も。


転がす。


「……夜叉」


やがて。


リリィは嬉しそうに笑った。


「覚えた」


その隣。


誰もいないはずの場所。


月明かりの中に。


小さな影が伸びている。


リリィのものとは。


少しだけ違う。


細く。


長く。


まるで。


誰かが立っているように。


リリィは。


その影を見る。


嬉しそうに首を傾げた。


「ねぇ」


影は。


動かない。


「今度は」


リリィは笑う。


「いつ遊ぶ?」


返事はない。


それでも。


リリィは満足そうだった。


まるで。


ちゃんと返事を聞いているように。


そして。


森の奥から。


小さな声がした。


――まだ。


リリィは。


にっこり笑った。


「うん」


月明かりの下。


少女の影が。


二つ。


静かに並んでいた。

読んでくれてありがとうございます。

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