9話 食事
――森から、遠く離れた場所。
夜だった。
月明かりすら届かない、深い森。
一本の倒木の陰で。
あの怪物は、息を殺していた。
「……」
身体を小さく縮める。
枝葉の隙間から。
何度も。
何度も。
周囲を確認する。
何もいない。
あの黒い人影も。
白い髪の女たちも。
追ってくる気配はない。
「……いない」
掠れた声。
「……いナい……」
震える身体を押さえる。
逃げ切った。
そう思った。
森を抜け。
川を渡り。
何度も道を変えた。
自分でも。
どこへ向かっているのか分からない。
ただ。
遠くへ。
遠くへ。
逃げたかった。
あれから。
離れたかった。
「……もウ、来ない」
そう呟いた。
ほんの少しだけ。
身体の力が抜けた。
――ぽたり。
何かが。
頭の上に落ちた。
「……?」
触れる。
指先を見る。
黒い。
粘ついている。
「……何、コれ」
怪物が。
ゆっくりと上を向いた。
木の枝。
その上。
何かがいる。
人の形。
けれど。
人ではない。
細い腕。
長い指。
身体の輪郭が。
暗闇に溶けている。
顔が。
見えない。
いや。
顔があるのかすら。
分からない。
「……」
怪物の身体が。
硬直した。
その何かは。
怪物を見下ろしていた。
ただ。
見下ろしている。
それだけだった。
敵意もない。
殺意もない。
興味すら。
感じられない。
なのに。
怪物の身体だけが。
勝手に震え始めた。
「……いや」
何故か。
分かってしまった。
あれは。
自分を見ている。
見ている。
けれど。
――認識しているわけではない。
そんな。
奇妙な感覚だった。
まるで。
こちらを「物」として見ている。
生きているか。
死んでいるか。
そんなことさえ。
関係ない。
「……っ」
逃げなければ。
そう思った。
身体を動かそうとする。
けれど。
その瞬間。
枝の上にいた何かが。
首を傾げた。
――ぐに。
人間なら。
絶対に曲がらない角度へ。
ゆっくりと。
首が傾く。
「……?」
そして。
何かが。
小さく呟いた。
「……動いた」
声は。
不思議なほど穏やかだった。
まるで。
初めて動物を見た子供のような。
けれど。
その言葉に。
感情はなかった。
「……動いた」
もう一度。
同じ言葉。
今度は。
怪物の背後から聞こえた。
「――ッ!」
振り返る。
誰もいない。
再び前を見る。
枝の上にも。
いない。
「……?」
怪物が。
混乱する。
そして。
耳元で。
「動いたね」
「――ッ!」
飛び退く。
走る。
考えることなどできなかった。
木々の間を。
必死に。
足を取られながら。
転びながら。
それでも。
走る。
「いやダ……!」
背後を見る。
いない。
「……!」
前を見る。
――いた。
木の間。
いつからそこにいたのか。
分からない。
人の形をした何かが。
立っている。
怪物は急停止した。
「……どウシて」
後ろを見る。
誰もいない。
前を見る。
いる。
「……なンで……」
震える。
「なんで……!」
右へ。
左へ。
森を抜ける。
開けた場所へ飛び出す。
月明かり。
久しぶりの光。
「……っ!」
助かった。
そう思った。
――その瞬間。
「見〜つけた」
声がした。
背後ではない。
前でもない。
上でもない。
――どこから聞こえたのか。
分からない。
怪物が。
ゆっくり振り返る。
そこに。
別の個体がいた。
今まで追ってきた黒い人影とは。
違う。
別の姿。
別の存在。
その個体は。
人の形をしていた。
だが。
立っているのではなかった。
地面に。
足が触れていない。
ほんの少し。
浮いている。
それなのに。
影だけが。
地面に落ちている。
影は。
本人とは違う方向を向いていた。
「……」
怪物は。
後ずさる。
「……来るナ」
その存在は。
瞬きをしなかった。
「来るな……!」
「……?」
首を傾げる。
「来る?」
その言葉を。
確かめるように。
「来る……」
呟く。
そして。
突然。
怪物のすぐ隣を指差した。
「そこにいるよ」
「……え?」
怪物が。
指された場所を見る。
何もいない。
「……誰が」
「あなた」
「……?」
「あなたが、そこにいる」
意味が。
分からない。
「私は……ここにイル」
「うん」
「だから……」
「そうだね」
その存在は。
嬉しそうでもなく。
悲しそうでもなく。
ただ。
納得したように頷いた。
「じゃあ」
一歩。
踏み出す。
浮いていた足が。
初めて地面に触れた。
「ここにいるあなたを」
さらに。
一歩。
「食べるね」
「――ッ!」
怪物が走った。
今度は。
振り返らない。
ただ。
走る。
森へ。
月明かりから。
暗闇へ。
逃げる。
けれど。
足音がしない。
追ってくる音が。
ない。
「……?」
怪物が。
恐る恐る振り返る。
誰もいない。
「……いなイ……?」
少しだけ。
速度を落とす。
その瞬間。
目の前に。
いた。
「――!」
止まる。
そこに。
立っている。
さっきまで。
ずっと後ろにいたはずの存在が。
いつの間にか。
前にいる。
その顔が。
ゆっくり。
こちらを向く。
そして。
笑った。
――笑ったように見えた。
「逃げたね」
「……」
「どうして?」
「……来ルな」
「どうして?」
「来るな……!」
「怖い?」
「嫌ダ……!」
「そう」
その存在は。
少し考えるように。
首を傾げた。
「嫌なんだ」
「……」
「じゃあ」
指を一本。
立てる。
「嫌じゃなくなれば」
もう一本。
「いいのかな」
怪物の顔から。
血の気が引く。
「……何を」
「分からない」
「……エ?」
「私も」
笑う。
「分からない」
その言葉だけが。
妙に。
自然だった。
「でも」
手を伸ばす。
「食べることは分かる」
怪物の身体が。
動かなくなった。
逃げようとしているのに。
足が。
動かない。
目の前の存在が。
近づいてくる。
一歩。
一歩。
それなのに。
距離が。
縮まっているのか。
遠ざかっているのか。
分からない。
「ねえ」
耳元で。
声がした。
「あなたは」
怪物が。
震える。
「どこまで逃げたら」
――声が。
背後から聞こえる。
「逃げたことになるの?」
「――ッ!」
振り返る。
誰もいない。
前を見る。
いる。
目の前に。
笑っている。
「分からないよね」
その存在が。
手を伸ばした。
「私も分からない」
指先が。
触れる。
「だから」
――暗闇が。
怪物を覆った。
「食べるね」
声だけが。
残った。
───
しばらくして。
その場に。
小さな音が響いた。
――ぽたり。
地面に。
黒い液体が落ちる。
それだけ。
怪物の姿は。
どこにもない。
足跡も。
争った跡も。
逃げた痕跡すら。
残っていない。
ただ。
そこにいたという事実だけが。
綺麗に。
抜け落ちていた。
そして。
別の個体は。
何事もなかったかのように。
森の闇へ消えていった。
歩いているのか。
浮いているのか。
そもそも。
移動しているのか。
最後まで。
誰にも分からない。
――この世界では。
逃げることさえ。
生き残る理由にはならない。
読んでくれてありがとう。




