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白織夜叉の冒険譚  作者: 蹴 鞠
第2章
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35/56

9話 食事


――森から、遠く離れた場所。


夜だった。


月明かりすら届かない、深い森。


一本の倒木の陰で。


あの怪物は、息を殺していた。


「……」


身体を小さく縮める。


枝葉の隙間から。


何度も。


何度も。


周囲を確認する。


何もいない。


あの黒い人影も。


白い髪の女たちも。


追ってくる気配はない。


「……いない」


掠れた声。


「……いナい……」


震える身体を押さえる。


逃げ切った。


そう思った。


森を抜け。


川を渡り。


何度も道を変えた。


自分でも。


どこへ向かっているのか分からない。


ただ。


遠くへ。


遠くへ。


逃げたかった。


あれから。


離れたかった。


「……もウ、来ない」


そう呟いた。


ほんの少しだけ。


身体の力が抜けた。


――ぽたり。


何かが。


頭の上に落ちた。


「……?」


触れる。


指先を見る。


黒い。


粘ついている。


「……何、コれ」


怪物が。


ゆっくりと上を向いた。


木の枝。


その上。


何かがいる。


人の形。


けれど。


人ではない。


細い腕。


長い指。


身体の輪郭が。


暗闇に溶けている。


顔が。


見えない。


いや。


顔があるのかすら。


分からない。


「……」


怪物の身体が。


硬直した。


その何かは。


怪物を見下ろしていた。


ただ。


見下ろしている。


それだけだった。


敵意もない。


殺意もない。


興味すら。


感じられない。


なのに。


怪物の身体だけが。


勝手に震え始めた。


「……いや」


何故か。


分かってしまった。


あれは。


自分を見ている。


見ている。


けれど。


――認識しているわけではない。


そんな。


奇妙な感覚だった。


まるで。


こちらを「物」として見ている。


生きているか。


死んでいるか。


そんなことさえ。


関係ない。


「……っ」


逃げなければ。


そう思った。


身体を動かそうとする。


けれど。


その瞬間。


枝の上にいた何かが。


首を傾げた。


――ぐに。


人間なら。


絶対に曲がらない角度へ。


ゆっくりと。


首が傾く。


「……?」


そして。


何かが。


小さく呟いた。


「……動いた」


声は。


不思議なほど穏やかだった。


まるで。


初めて動物を見た子供のような。


けれど。


その言葉に。


感情はなかった。


「……動いた」


もう一度。


同じ言葉。


今度は。


怪物の背後から聞こえた。


「――ッ!」


振り返る。


誰もいない。


再び前を見る。


枝の上にも。


いない。


「……?」


怪物が。


混乱する。


そして。


耳元で。


「動いたね」


「――ッ!」


飛び退く。


走る。


考えることなどできなかった。


木々の間を。


必死に。


足を取られながら。


転びながら。


それでも。


走る。


「いやダ……!」


背後を見る。


いない。


「……!」


前を見る。


――いた。


木の間。


いつからそこにいたのか。


分からない。


人の形をした何かが。


立っている。


怪物は急停止した。


「……どウシて」


後ろを見る。


誰もいない。


前を見る。


いる。


「……なンで……」


震える。


「なんで……!」


右へ。


左へ。


森を抜ける。


開けた場所へ飛び出す。


月明かり。


久しぶりの光。


「……っ!」


助かった。


そう思った。


――その瞬間。


「見〜つけた」


声がした。


背後ではない。


前でもない。


上でもない。


――どこから聞こえたのか。


分からない。


怪物が。


ゆっくり振り返る。


そこに。


別の個体がいた。


今まで追ってきた黒い人影とは。


違う。


別の姿。


別の存在。


その個体は。


人の形をしていた。


だが。


立っているのではなかった。


地面に。


足が触れていない。


ほんの少し。


浮いている。


それなのに。


影だけが。


地面に落ちている。


影は。


本人とは違う方向を向いていた。


「……」


怪物は。


後ずさる。


「……来るナ」


その存在は。


瞬きをしなかった。


「来るな……!」


「……?」


首を傾げる。


「来る?」


その言葉を。


確かめるように。


「来る……」


呟く。


そして。


突然。


怪物のすぐ隣を指差した。


「そこにいるよ」


「……え?」


怪物が。


指された場所を見る。


何もいない。


「……誰が」


「あなた」


「……?」


「あなたが、そこにいる」


意味が。


分からない。


「私は……ここにイル」


「うん」


「だから……」


「そうだね」


その存在は。


嬉しそうでもなく。


悲しそうでもなく。


ただ。


納得したように頷いた。


「じゃあ」


一歩。


踏み出す。


浮いていた足が。


初めて地面に触れた。


「ここにいるあなたを」


さらに。


一歩。


「食べるね」


「――ッ!」


怪物が走った。


今度は。


振り返らない。


ただ。


走る。


森へ。


月明かりから。


暗闇へ。


逃げる。


けれど。


足音がしない。


追ってくる音が。


ない。


「……?」


怪物が。


恐る恐る振り返る。


誰もいない。


「……いなイ……?」


少しだけ。


速度を落とす。


その瞬間。


目の前に。


いた。


「――!」


止まる。


そこに。


立っている。


さっきまで。


ずっと後ろにいたはずの存在が。


いつの間にか。


前にいる。


その顔が。


ゆっくり。


こちらを向く。


そして。


笑った。


――笑ったように見えた。


「逃げたね」


「……」


「どうして?」


「……来ルな」


「どうして?」


「来るな……!」


「怖い?」


「嫌ダ……!」


「そう」


その存在は。


少し考えるように。


首を傾げた。


「嫌なんだ」


「……」


「じゃあ」


指を一本。


立てる。


「嫌じゃなくなれば」


もう一本。


「いいのかな」


怪物の顔から。


血の気が引く。


「……何を」


「分からない」


「……エ?」


「私も」


笑う。


「分からない」


その言葉だけが。


妙に。


自然だった。


「でも」


手を伸ばす。


「食べることは分かる」


怪物の身体が。


動かなくなった。


逃げようとしているのに。


足が。


動かない。


目の前の存在が。


近づいてくる。


一歩。


一歩。


それなのに。


距離が。


縮まっているのか。


遠ざかっているのか。


分からない。


「ねえ」


耳元で。


声がした。


「あなたは」


怪物が。


震える。


「どこまで逃げたら」


――声が。


背後から聞こえる。


「逃げたことになるの?」


「――ッ!」


振り返る。


誰もいない。


前を見る。


いる。


目の前に。


笑っている。


「分からないよね」


その存在が。


手を伸ばした。


「私も分からない」


指先が。


触れる。


「だから」


――暗闇が。


怪物を覆った。


「食べるね」


声だけが。


残った。


───


しばらくして。


その場に。


小さな音が響いた。


――ぽたり。


地面に。


黒い液体が落ちる。


それだけ。


怪物の姿は。


どこにもない。


足跡も。


争った跡も。


逃げた痕跡すら。


残っていない。


ただ。


そこにいたという事実だけが。


綺麗に。


抜け落ちていた。


そして。


別の個体は。


何事もなかったかのように。


森の闇へ消えていった。


歩いているのか。


浮いているのか。


そもそも。


移動しているのか。


最後まで。


誰にも分からない。


――この世界では。


逃げることさえ。


生き残る理由にはならない。

読んでくれてありがとう。

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