8話 黒い影
沈黙が続いた。
誰も。
すぐには口を開かなかった。
鞠凪が「バグ」と呼んだもの。
その言葉だけが。
妙に部屋の中へ残っている。
カイルが腕を組み直した。
「……なあ、鞠凪さん」
「ん?」
「じゃあ、俺たちが今日見たのって」
一度、言葉を選ぶ。
「あのバグの中でも、かなり珍しいやつってことか?」
「そうなるねぇ」
「どのくらい?」
鞠凪は少し考える。
「……簡単には言えないよぉ」
「またそれかよ」
カイルが苦笑する。
「鞠凪さん、今日そればっかりじゃん」
「ふふ」
鞠凪は笑った。
「知らないほうがいいこともあるからねぇ」
「でも」
リゼットが口を挟む。
「私たちは実際に遭遇したのよ」
「そうだねぇ」
「次に遭遇した時、何も知らないままでは困るわ」
「……確かに」
鞠凪は頷いた。
そして。
少しだけ姿勢を正した。
「じゃあ、一つだけ覚えておいて」
四人が鞠凪を見る。
「バグは」
静かな声。
「普通の魔物とは違う」
「……」
「だから」
鞠凪の指が、湯飲みの縁をなぞる。
「普通の魔物を相手にするつもりで近づかないこと」
「強いのか?」
レオンが尋ねる。
「それも個体による」
「じゃあ、弱いものも?」
「いる」
「強いものも?」
「いるよぉ」
そこで。
鞠凪は一度だけ言葉を切った。
「……そして」
ほんの僅かに。
瞼が開く。
青い瞳が。
夜叉たちの間を静かに見渡した。
「人の理解が追いつかないほど、変わってしまうものもいる」
その瞳の奥に。
一瞬だけ。
冷たい光が宿った。
夜叉は息を呑んだ。
「……お母さん」
「ん?」
「さっきから」
夜叉は鞠凪を見る。
「何か知ってるよね?」
「……」
鞠凪は答えなかった。
「今日見たもののこと」
「……」
「あの黒いもののこと」
鞠凪の瞳が。
ゆっくり閉じる。
「……知っているよぉ」
「じゃあ――」
「でも」
鞠凪が遮った。
「確信はない」
「……え?」
「姿を見たわけじゃないからねぇ」
「じゃあ、どうして分かるの?」
「長く生きていると」
鞠凪は少し笑う。
「似たようなものを、何度か見ることがあるんだよ」
その言葉に。
四人は黙った。
「……何度か?」
リゼットが呟く。
「うん」
鞠凪は頷いた。
「ただし」
その声が少しだけ低くなる。
「今回のものと同じとは限らない」
「でも」
レオンが言った。
「似たものは存在する」
「そうだねぇ」
鞠凪は肯定した。
「そして、その中でも」
一瞬。
鞠凪の目が。
ほんの少しだけ開いた。
青い瞳が。
今度は先ほどよりもはっきりと光った。
「人の姿に近づいたものには、注意したほうがいいよぉ」
「……人の姿?」
夜叉が聞き返す。
「うん」
「今日の黒いものみたいな?」
「……そう」
鞠凪は答えた。
「それより先の話は」
目を閉じる。
「今は知らない方がいいよぉ」
「どうして?」
「夜叉」
「うん」
「知らないほうが、今はいい」
そして小さく。
「見つかっちゃうからねぇ」
「……」
夜叉は黙った。
鞠凪の声は優しい。
いつもと変わらない。
けれど。
何かを隠している。
それだけは。
夜叉にも分かった。
───
その日の夜。
四人は鞠凪の部屋で夕食を食べていた。
いつもなら。
「おいしい」
「これ何?」
「食べ過ぎ」
そんな会話が飛び交う。
けれど今日は。
妙に静かだった。
カイルが箸を止める。
「……なあ」
「何?」
リゼットが答える。
「あの怪物」
「うん」
「俺たち、助けたんだよな」
「たぶんね」
「じゃあ、あいつは今どこにいるんだ?」
誰も答えない。
森は広い。
どこへ逃げたのかも分からない。
鞠凪は料理を取り分けながら。
「生きていれば」
静かに言った。
「どこかで逃げ続けているだろうね」
「……逃げ続ける?」
レオンが聞く。
「バグに変わったものは」
鞠凪は箸を置いた。
「必ずしも、他の生き物を襲いたいわけじゃない」
「え?」
「中には」
少し間を置く。
「自分が何なのかも分からないまま、怯えているものもいる」
夜叉の手が止まった。
あの怪物の声が。
頭の中に蘇る。
『来るな』
『嫌だ』
『喰われる』
夜叉は箸を置いた。
「……かわいそう」
小さな声。
鞠凪は夜叉を見る。
「そうだねぇ」
「でも」
夜叉は続けた。
「……あの子は、私たちを攻撃した」
「そうだねぇ」
「私たちが邪魔だったから」
「うん」
「それでも」
夜叉は俯いた。
「怖かっただけなのかな」
「……そうかもしれない」
鞠凪は否定しなかった。
その言葉を聞いて。
夜叉は少しだけ安心した。
けれど。
鞠凪は。
誰にも見えないように。
膝の上で手を握った。
――あの子が。
まだ逃げているのなら。
――あれも。
まだ近くにいるかもしれない。
そんな考えが。
鞠凪の脳裏をよぎる。
そして。
ほんの一瞬。
閉じた瞼の奥で。
青い瞳が鋭く光った。
「……お母さん?」
夜叉の声。
「ん?」
「どうしたの?」
「……何でもないよ」
鞠凪は笑った。
「ほら」
料理を夜叉の皿へ乗せる。
「冷める前に食べなきゃねぇ」
「うん〜」
夜叉は素直に頷いた。
その横で。
レオン、カイル、リゼットも食事を再開する。
いつもの夜に戻っていく。
けれど。
誰も知らない。
今日、森で見たものが。
王都からそれほど遠くない場所で。
すでに一度だけ。
記録されていたことを。
そして。
その記録には。
たった一行だけ。
こう書かれていた。
『人型の個体を確認』
それ以上の記録は。
なかった。
読んでくれてありがとうございます〜




