7話 バグ
「……その話」
鞠凪は、静かに夜叉を見つめた。
「もう少し詳しく聞かせてくれる?」
「うん」
夜叉は頷いた。
四人は鞠凪の部屋に座っている。
いつもなら。
鞠凪の作った料理を囲んで、他愛のない話をする時間だった。
けれど今日は。
誰も笑っていない。
「まず……」
夜叉が口を開く。
「森の中に、変な足跡があったのぉ」
「足跡?」
「うん。大きかった。でも、匂いもなかったし……普通の動物や魔物の足跡とは違った」
「それから?」
鞠凪は聞く。
「動物たちが、何かから逃げてるみたいだった」
リゼットが続けた。
「狼型の魔物も様子がおかしかった。まるで、何か恐ろしいものから逃げてきたみたいに」
「……なるほどねぇ」
「それで」
レオンが言った。
「森の奥で、何体かの異形を見た」
鞠凪の指が。
机の上で止まった。
「最初は獣か人か分からないような黒い怪物」
「もう一つは、顔の中央に大きな穴がある怪物」
「……」
「最後に、黒い人影のようなもの」
その瞬間。
鞠凪の瞼が。
ほんの少しだけ開いた。
夜叉は気づかなかった。
けれど。
レオンは気づいた。
リゼットも。
カイルも。
そして。
わずかに開いた瞳の奥。
青い光が。
一瞬だけ。
夜の湖面のように揺らめいた。
「……黒い、人影」
鞠凪が繰り返す。
「はい」
レオンが頷く。
「あれは、あの魔物を追っていた」
「戦ったの?」
「ええ」
リゼットが答えた。
「でも……変だった」
「何が?」
「あの黒いものは、私たちにほとんど興味を示さなかった」
カイルが腕を組む。
「俺たちが攻撃しても、目的を変えなかった」
「ずっと?」
「ずっと」
「何をしていたの?」
「逃げる魔物を追ってた」
鞠凪は黙った。
「……そして」
夜叉が言う。
「その魔物が逃げ切ったら」
「どうなった?」
「急に、興味をなくしたみたいに……帰っていった」
「……」
鞠凪の瞳から。
青い光が消える。
再び。
瞼が閉じられた。
「そうだろうねぇ」
小さな声だった。
「……やっぱり」
「やっぱり?」
夜叉が聞き返す。
鞠凪は答えない。
代わりに。
「夜叉」
「うん?」
「その黒いものは」
少しだけ間を置いて。
「人の形をしていたんだねぇ」
「……うん」
夜叉は頷く。
「でも、人じゃない」
「そう」
「身体も……普通じゃなかった」
夜叉は森で見た姿を思い出す。
「腕が……変な形になったのぉ」
「変な形?」
カイルが付け加えた。
「俺の目の前で、腕そのものが変わった。あれは……人間にはできない」
「なるほどねぇ」
鞠凪は小さく息を吐いた。
そして。
「それはねぇ」
静かに。
「バグ」
部屋の空気が。
止まった。
「……バグ?」
夜叉が聞き返す。
「うん」
鞠凪は目を閉じたまま答える。
「そう呼ばれてるんだぁ」
「魔物の名前?」
「ううん」
「じゃあ……何?」
「病気でもない」
「……」
「呪いでもない」
鞠凪の声が。
少しだけ低くなる。
「生き物の身体を変えてしまう、異常なもの」
リゼットが息を呑む。
「それじゃあ……あの魔物も?」
「そうだろうねぇ」
「黒いものも?」
「……そうだろうねぇ」
鞠凪は答えた。
「ただし」
その声に。
わずかな重みが混じる。
「同じものでも、状態によって姿が違う」
「状態?」
「感染したばかりのものもいれば」
一拍。
「長く変化したものもいる」
四人は顔を見合わせる。
「……じゃあ」
カイルが口を開く。
「あの黒い奴は、かなり進んでたってことか?」
「分からない」
鞠凪は即答した。
「私にも、見てみないと判断できないねぇ」
珍しい。
四人はそう思った。
鞠凪が。
「分からない」と言った。
「でも……」
夜叉が呟く。
「お母さんは、知ってるんだよね?」
鞠凪は。
少し黙った。
「……知っているよぉ」
「どれくらい?」
「それなりにねぇ」
「騎士団も?」
「知っているよぉ」
「えっ?」
カイルが身を乗り出す。
「騎士団も知ってんの?」
鞠凪は答える前に。
ゆっくりと湯飲みを持ち上げた。
「知らなくていい人まで知れば……」
湯気の向こうで。
表情が見えなくなる。
「余計な混乱が起きるからねぇ」
「……隠してる?」
リゼットが尋ねる。
「そういうことだねぇ」
鞠凪は否定しなかった。
「被害が確認されれば対処する」
「でも、公にはしない」
「そう」
レオンが眉を寄せる。
「それほど危険なのか?」
鞠凪は。
しばらく黙っていた。
「……種類による」
「種類?」
「バグには段階があるからねぇ」
その言葉に。
夜叉が顔を上げた。
「段階……?」
「そう」
鞠凪は頷く。
「最初は、ただの異常に見える」
「……」
「でも」
声が少しだけ低くなる。
「時間が経つほど、変わっていく」
カイルが腕を組む。
「じゃあ、今日のあいつは?」
「分からない」
また。
その答え。
そして。
「ただ」
鞠凪が静かに続ける。
「もし、君たちが見た黒いものが」
ほんの僅かに。
閉じた瞼が動いた。
「私の想像しているものなら」
鞠凪の声が。
今までになく冷たくなる。
「……かなり珍しいよぉ」
「珍しい?」
「姿を確認した記録そのものが少ない」
夜叉が黙る。
「騎士団にも?」
「ほとんどないよぉ」
「じゃあ……」
リゼットが尋ねる。
「あれが何なのか、分かってないの?」
「分からない部分が多い」
鞠凪は答えた。
「目撃例も少ないからねぇ」
部屋の中に。
再び沈黙が落ちる。
夜叉は俯いた。
頭の中に。
あの怪物の声が蘇る。
『嫌だ』
『来るな』
『俺は……喰われる』
そして。
自分の記憶。
『やめて……』
『お願い……』
『この子だけは……』
夜叉は胸元を押さえた。
「……お母さん」
「ん?」
「あの黒いものに追われてた怪物も……」
言葉を選ぶ。
「バグなの?」
鞠凪は。
すぐには答えなかった。
そして。
「……そうだよぉ」
静かに。
そう答えた。
「ただし」
鞠凪は四人を見た。
瞳は閉じたまま。
「まだ、君たちが知らないことは多い」
「……」
「だから」
優しい声に戻って。
「今日見たことは、できるだけ他では話さないほうがいいよぉ」
「どうして?」
「見つけられるからねぇ」
「でも……」
夜叉は言いかけて。
口を閉じた。
鞠凪はそんな夜叉を見て。
ほんの少しだけ笑った。
「心配しなくていいよぉ」
「……うん」
「何か分かったら」
鞠凪は湯飲みを置く。
「教えてあげるからねぇ」
その言葉に。
四人は頷いた。
けれど。
夜叉だけは。
まだ納得していなかった。
なぜ。
自分はあの怪物を見て。
あんな記憶を思い出したのか。
なぜ。
あの「喰われる」という言葉に。
胸が痛んだのか。
そして。
なぜ。
鞠凪は。
あの黒い人影の話を聞いた瞬間。
ほんの一瞬だけ。
あんな目をしたのか。
夜叉は知らない。
鞠凪の閉じた瞼の奥で。
青い瞳が。
まだ静かに光っていた。
読んでくれてありがとうございます〜




