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白織夜叉の冒険譚  作者: 蹴 鞠
一章から二章までのお話。
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29/56

3話 不気味ななにか。


――来ないで……。


その声が森に落ちた。


低い声だった。


怒鳴っているわけではない。


脅しているようにも聞こえない。


ただ、そこにいるものに。


恐怖している。


それだけだった。


逃げるように。


黒い影は消えた。


「……」


四人は動かなかった。


風が止まっている。


木々も揺れていない。


さっきまで鳴いていた鳥たちも、もういない。


森全体が。


何かを待っているようだった。


「……今の奴」


カイルが小さく呟く。


「喋ってたよな?」


「ああ」


レオンは盾を構えたまま答える。


「確かに聞こえた」


リゼットが杖を握り直す。


「人の声……に聞こえたけど」


「うん」


夜叉が答えた。


その白い耳が、ぴくりと動く。


「でも……人の声じゃない」


「何が違う?」


レオンが聞く。


「分からない」


夜叉は森の奥を見る。


「ただ……」


一瞬、言葉を止めた。


「嫌な感じがする」


その瞬間だった。


――ズル。


何かを引きずる音。


「……!」


四人が身構える。


木々の隙間から。


何かが出てきた。


最初に見えたのは腕だった。


黒い。


人間の腕に近い。


だが、どこかがおかしい。


さっきの怪物と同じ。


輪郭が定まっていない。


皮膚なのか。


影なのか。


濡れた泥なのか。


見ているうちに形が変わっている。


やがて。


それがゆっくりと全身を現した。


「……なんだ、あれ」


カイルの声から、冗談の色が消えた。


人のような身体。


獣のような姿勢。


身体のあちこちが黒く染まっている。


まるで、生き物の形を無理やり真似しているようだった。


そして。


顔。


目も。


鼻も。


口も。


ある。


――なのに。


見ているだけで、人間ではないと分かる。


夜叉の背筋を冷たいものが走った。


「……っ」


頭の奥が。


突然、痛んだ。


知らない。


知らないはずなのに。


この感じを。


知っている。


――雪。


白い。


何もない白い世界。


冷たい。


寒い。


誰かに抱かれている。


自分の身体が、小さい。


もっと小さい。


自分では何もできない。


ただ泣いている。


そして。


耳元で。


『やめて……』


女の声。


震えている。


『お願い……』


何かが、近づいてくる。


雪を踏む音。


『この子だけは……』


――ザッ。


「……っ!」


夜叉が現実へ戻った。


「夜叉!?」


リゼットが振り返る。


「どうしたの?」


「……今」


夜叉は額に手を当てた。


「何か……見えた」


「何が?」


「分からない……」


呼吸が少し乱れている。


「小さい頃の……」


そこで言葉が止まった。


自分が何を見たのか。


思い出せない。


いや。


思い出したくない。


そんな感覚だけが残っている。


目の前の黒い異形が。


ゆっくり顔を上げた。


夜叉を見る。


じっと。


ただ見ている。


夜叉は弓を構えた。


「……来るよ」


レオンが盾を前へ。


「全員、構えろ!」


しかし。


異形は動かなかった。


四人を見ている。


それなのに。


敵意がない。


いや。


正確には。


興味がない。


「……?」


カイルが眉をひそめる。


「なんだ?」


異形の視線が。


夜叉たちの横を通り過ぎる。


そして。


森のさらに奥を見る。


「タスケテ」


「イヤダ」


何かを恐れている。


森をかき分けるように。


異形はどこかへ去っていく。


「……なんだったんだ、あれ?」


その瞬間。


――ガサッ。


背後の茂みが揺れた。


「!」


全員が振り返る。


そこから飛び出してきたものを見て。


リゼットが息を呑んだ。


「……さっきと同じ?」


違った。


それは。


先ほどの異形とは少し違った。


身体は先ほどの異形より、人型に近い。


けれど。


全身が歪んでいる。


腕は長く。


脚は細い。


身体のあちこちに、人間と獣の中間のような特徴がある。


そして。


顔の中央。


そこには。


大きな穴が空いていた。


「……」


誰も声を出せなかった。


その異形は。


四人を見るなり。


「……いや」


小さく呟いた。


先ほどの怪物よりも。


あの異形よりも、はっきりと。


「……来ないで」


その声は。


怯えていた。


明らかに。


怯えている。


「……やめて」


異形が後ずさる。


「嫌だ……」


その身体が震えている。


夜叉は弓を下げた。


「……あなた」


異形が夜叉を見る。


その瞬間。


また。


頭の奥に。


何かが浮かんだ。


白い。


雪。


小さな手。


誰かの腕。


そして。


『やめて……』


母親の声。


『お願い……』


涙の混じった声。


『この子だけは……』


「……っ」


夜叉が息を呑む。


「夜叉!」


レオンが叫ぶ。


異形が動いた。


四人の横を抜けようとする。


「待て!」


レオンが盾を構えて道を塞ぐ。


「近づくな!」


「どいて!」


異形が叫んだ。


「そこを……どいて!」


「おい、落ち着け!」


カイルが横から回り込む。


しかし。


異形が腕を振るった。


「ぐっ!」


カイルが咄嗟に短剣で受ける。


ガキィン!


「こいつ……!」


カイルの身体が後ろへ吹き飛ぶ。


「カイル!」


夜叉が矢を放つ。


矢は異形の足元へ突き刺さった。


「止まって!」


異形が振り返る。


その顔。


中央に空いた穴が。


夜叉を見ている。


「……邪魔」


低い声。


「邪魔をスルナ……」


リゼットが杖を構える。


「この個体……私たちを敵と認識している」


「逃げたいだけじゃないのか?」


レオンが盾を構える。


「なら、どうして――」


そのとき。


森の奥から。


音がした。


――ズル。


――ズル。


何かを引きずる音。


異形の身体が硬直した。


「……あ」


震える。


「……来た」


カイルが振り返る。


「何が?」


異形が答える。


「……あいつが」


そして。


森の奥から。


黒い人影が現れた。


「……!」


異形が後ずさる。


「来ないで……」


黒い人影は。


四人には目もくれなかった。


ただ。


異形だけを見る。


「……え?」


カイルが呟く。


黒い人影が一歩進む。


異形が一歩下がる。


また一歩。


また一歩。


その距離が縮まっていく。


「おい……」


レオンが声をかける。


黒い人影は反応しない。


「聞こえてるのか?」


反応しない。


夜叉が矢を放った。


ヒュッ。


矢は黒い人影の肩を掠める。


それでも。


黒い人影は。


夜叉を見なかった。


「……え?」


夜叉の手が止まる。


興味がない。


自分たちに。


まったく。


「どういうこと……?」


リゼットが呟いた。


黒い人影が。


異形へ向かって手を伸ばす。


「いやあああああっ!」


異形が叫んだ。


「来ないで!」


その声に。


夜叉の胸が締めつけられた。


また。


あの声。


あの記憶。


――白い雪。


――小さな自分。


――母親。


『やめて……』


『お願い……』


『この子だけは……』


「……!」


夜叉は頭を押さえた。


「……何、これ」


涙が一粒だけ。


頬を伝った。


理由が分からない。


何を思い出しているのかも分からない。


ただ。


怖い。


目の前の光景が。


遠い昔の何かと。


重なっている。


「夜叉!」


レオンの声で我に返る。


黒い人影が。


異形のすぐ目の前まで迫っていた。


「止めるぞ!」


レオンが踏み込む。


盾を叩きつける。


――ドンッ!


黒い人影の身体が僅かに揺れる。


だが。


振り返らない。


「……俺たちを無視してる?」


カイルが呟いた。


「そうみたいね」


リゼットが答える。


「目的は、あの異形だけ」


その言葉を聞いた瞬間。


夜叉の目が見開かれた。


「……食べる」


「え?」


「……あの子を」


夜叉が呟く。


黒い人影が。


口を開いた。


人間の口。


けれど。


その口が。


ありえないほど大きく開いていく。


異形が悲鳴を上げる。


「いやだ!!」


「たべられる!!」


「やめて!!」


森に響く絶叫。


四人の身体が強張った。


黒い人影が。


ゆっくりと異形へ近づく。


その姿を見ながら。


夜叉は弓を握り直した。


「……させない」


今度は。


記憶に引きずられた言葉ではない。


目の前で怯えている存在を見て。


冒険者として。


仲間として。


ただ一人の人間として。


夜叉は静かに弓を構えた。


「みんな」


レオンが盾を上げる。


カイルが短剣を握る。


リゼットが魔力を集中させる。


夜叉は黒い人影を見据えた。


「あの子を、逃がそう」


その瞬間。


黒い人影が。


初めて。


四人の存在を邪魔なものとして認識した。


ゆっくり。


ゆっくりと。


顔がこちらへ向く。


そして。


森の静寂の中。


低い声が響いた。


「――邪魔ぁ…するなよなぁ……」


四人は武器を構えた。


目の前にいるのは。


自分たちを殺すために来た怪物ではない。


もっと恐ろしい。


自分たちなど眼中になかった怪物。


その怪物が。


初めて。


こちらを見た。

読んでくれてありがとうございます。


2章は少しホラーテイストで進みます。

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