3話 不気味ななにか。
――来ないで……。
その声が森に落ちた。
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。
脅しているようにも聞こえない。
ただ、そこにいるものに。
恐怖している。
それだけだった。
逃げるように。
黒い影は消えた。
「……」
四人は動かなかった。
風が止まっている。
木々も揺れていない。
さっきまで鳴いていた鳥たちも、もういない。
森全体が。
何かを待っているようだった。
「……今の奴」
カイルが小さく呟く。
「喋ってたよな?」
「ああ」
レオンは盾を構えたまま答える。
「確かに聞こえた」
リゼットが杖を握り直す。
「人の声……に聞こえたけど」
「うん」
夜叉が答えた。
その白い耳が、ぴくりと動く。
「でも……人の声じゃない」
「何が違う?」
レオンが聞く。
「分からない」
夜叉は森の奥を見る。
「ただ……」
一瞬、言葉を止めた。
「嫌な感じがする」
その瞬間だった。
――ズル。
何かを引きずる音。
「……!」
四人が身構える。
木々の隙間から。
何かが出てきた。
最初に見えたのは腕だった。
黒い。
人間の腕に近い。
だが、どこかがおかしい。
さっきの怪物と同じ。
輪郭が定まっていない。
皮膚なのか。
影なのか。
濡れた泥なのか。
見ているうちに形が変わっている。
やがて。
それがゆっくりと全身を現した。
「……なんだ、あれ」
カイルの声から、冗談の色が消えた。
人のような身体。
獣のような姿勢。
身体のあちこちが黒く染まっている。
まるで、生き物の形を無理やり真似しているようだった。
そして。
顔。
目も。
鼻も。
口も。
ある。
――なのに。
見ているだけで、人間ではないと分かる。
夜叉の背筋を冷たいものが走った。
「……っ」
頭の奥が。
突然、痛んだ。
知らない。
知らないはずなのに。
この感じを。
知っている。
――雪。
白い。
何もない白い世界。
冷たい。
寒い。
誰かに抱かれている。
自分の身体が、小さい。
もっと小さい。
自分では何もできない。
ただ泣いている。
そして。
耳元で。
『やめて……』
女の声。
震えている。
『お願い……』
何かが、近づいてくる。
雪を踏む音。
『この子だけは……』
――ザッ。
「……っ!」
夜叉が現実へ戻った。
「夜叉!?」
リゼットが振り返る。
「どうしたの?」
「……今」
夜叉は額に手を当てた。
「何か……見えた」
「何が?」
「分からない……」
呼吸が少し乱れている。
「小さい頃の……」
そこで言葉が止まった。
自分が何を見たのか。
思い出せない。
いや。
思い出したくない。
そんな感覚だけが残っている。
目の前の黒い異形が。
ゆっくり顔を上げた。
夜叉を見る。
じっと。
ただ見ている。
夜叉は弓を構えた。
「……来るよ」
レオンが盾を前へ。
「全員、構えろ!」
しかし。
異形は動かなかった。
四人を見ている。
それなのに。
敵意がない。
いや。
正確には。
興味がない。
「……?」
カイルが眉をひそめる。
「なんだ?」
異形の視線が。
夜叉たちの横を通り過ぎる。
そして。
森のさらに奥を見る。
「タスケテ」
「イヤダ」
何かを恐れている。
森をかき分けるように。
異形はどこかへ去っていく。
「……なんだったんだ、あれ?」
その瞬間。
――ガサッ。
背後の茂みが揺れた。
「!」
全員が振り返る。
そこから飛び出してきたものを見て。
リゼットが息を呑んだ。
「……さっきと同じ?」
違った。
それは。
先ほどの異形とは少し違った。
身体は先ほどの異形より、人型に近い。
けれど。
全身が歪んでいる。
腕は長く。
脚は細い。
身体のあちこちに、人間と獣の中間のような特徴がある。
そして。
顔の中央。
そこには。
大きな穴が空いていた。
「……」
誰も声を出せなかった。
その異形は。
四人を見るなり。
「……いや」
小さく呟いた。
先ほどの怪物よりも。
あの異形よりも、はっきりと。
「……来ないで」
その声は。
怯えていた。
明らかに。
怯えている。
「……やめて」
異形が後ずさる。
「嫌だ……」
その身体が震えている。
夜叉は弓を下げた。
「……あなた」
異形が夜叉を見る。
その瞬間。
また。
頭の奥に。
何かが浮かんだ。
白い。
雪。
小さな手。
誰かの腕。
そして。
『やめて……』
母親の声。
『お願い……』
涙の混じった声。
『この子だけは……』
「……っ」
夜叉が息を呑む。
「夜叉!」
レオンが叫ぶ。
異形が動いた。
四人の横を抜けようとする。
「待て!」
レオンが盾を構えて道を塞ぐ。
「近づくな!」
「どいて!」
異形が叫んだ。
「そこを……どいて!」
「おい、落ち着け!」
カイルが横から回り込む。
しかし。
異形が腕を振るった。
「ぐっ!」
カイルが咄嗟に短剣で受ける。
ガキィン!
「こいつ……!」
カイルの身体が後ろへ吹き飛ぶ。
「カイル!」
夜叉が矢を放つ。
矢は異形の足元へ突き刺さった。
「止まって!」
異形が振り返る。
その顔。
中央に空いた穴が。
夜叉を見ている。
「……邪魔」
低い声。
「邪魔をスルナ……」
リゼットが杖を構える。
「この個体……私たちを敵と認識している」
「逃げたいだけじゃないのか?」
レオンが盾を構える。
「なら、どうして――」
そのとき。
森の奥から。
音がした。
――ズル。
――ズル。
何かを引きずる音。
異形の身体が硬直した。
「……あ」
震える。
「……来た」
カイルが振り返る。
「何が?」
異形が答える。
「……あいつが」
そして。
森の奥から。
黒い人影が現れた。
「……!」
異形が後ずさる。
「来ないで……」
黒い人影は。
四人には目もくれなかった。
ただ。
異形だけを見る。
「……え?」
カイルが呟く。
黒い人影が一歩進む。
異形が一歩下がる。
また一歩。
また一歩。
その距離が縮まっていく。
「おい……」
レオンが声をかける。
黒い人影は反応しない。
「聞こえてるのか?」
反応しない。
夜叉が矢を放った。
ヒュッ。
矢は黒い人影の肩を掠める。
それでも。
黒い人影は。
夜叉を見なかった。
「……え?」
夜叉の手が止まる。
興味がない。
自分たちに。
まったく。
「どういうこと……?」
リゼットが呟いた。
黒い人影が。
異形へ向かって手を伸ばす。
「いやあああああっ!」
異形が叫んだ。
「来ないで!」
その声に。
夜叉の胸が締めつけられた。
また。
あの声。
あの記憶。
――白い雪。
――小さな自分。
――母親。
『やめて……』
『お願い……』
『この子だけは……』
「……!」
夜叉は頭を押さえた。
「……何、これ」
涙が一粒だけ。
頬を伝った。
理由が分からない。
何を思い出しているのかも分からない。
ただ。
怖い。
目の前の光景が。
遠い昔の何かと。
重なっている。
「夜叉!」
レオンの声で我に返る。
黒い人影が。
異形のすぐ目の前まで迫っていた。
「止めるぞ!」
レオンが踏み込む。
盾を叩きつける。
――ドンッ!
黒い人影の身体が僅かに揺れる。
だが。
振り返らない。
「……俺たちを無視してる?」
カイルが呟いた。
「そうみたいね」
リゼットが答える。
「目的は、あの異形だけ」
その言葉を聞いた瞬間。
夜叉の目が見開かれた。
「……食べる」
「え?」
「……あの子を」
夜叉が呟く。
黒い人影が。
口を開いた。
人間の口。
けれど。
その口が。
ありえないほど大きく開いていく。
異形が悲鳴を上げる。
「いやだ!!」
「たべられる!!」
「やめて!!」
森に響く絶叫。
四人の身体が強張った。
黒い人影が。
ゆっくりと異形へ近づく。
その姿を見ながら。
夜叉は弓を握り直した。
「……させない」
今度は。
記憶に引きずられた言葉ではない。
目の前で怯えている存在を見て。
冒険者として。
仲間として。
ただ一人の人間として。
夜叉は静かに弓を構えた。
「みんな」
レオンが盾を上げる。
カイルが短剣を握る。
リゼットが魔力を集中させる。
夜叉は黒い人影を見据えた。
「あの子を、逃がそう」
その瞬間。
黒い人影が。
初めて。
四人の存在を邪魔なものとして認識した。
ゆっくり。
ゆっくりと。
顔がこちらへ向く。
そして。
森の静寂の中。
低い声が響いた。
「――邪魔ぁ…するなよなぁ……」
四人は武器を構えた。
目の前にいるのは。
自分たちを殺すために来た怪物ではない。
もっと恐ろしい。
自分たちなど眼中になかった怪物。
その怪物が。
初めて。
こちらを見た。
読んでくれてありがとうございます。
2章は少しホラーテイストで進みます。




