2話 森の奥の足跡。
森の中は、妙に静かだった。
風は吹いている。
木々も揺れている。
けれど、鳥の声がほとんどない。
虫の羽音すら、遠い。
まるで森そのものが、息を潜めているようだった。
「……静かすぎるな」
レオンが盾を構えたまま呟く。
「そうね」
リゼットも周囲を見渡す。
「魔物がいないわけじゃない。でも……こちらに近づこうとしない」
「つまり?」
カイルが短剣を逆手に持つ。
「何かに怯えてるってことだろ」
「たぶんねぇ」
夜叉が答えた。
彼女は弓を構えたまま、森の奥を見ていた。
白い猫耳が、わずかに動く。
右。
左。
後ろ。
そして――前。
「……あっち」
夜叉が指差した。
「何がある?」
レオンが尋ねる。
「分からない」
「分からない?」
「うん〜」
夜叉は少し困ったように笑った。
「音はするんだけど……何の音なのか分からないんだぁ」
「夜叉にも分からない音?」
カイルが驚く。
「珍しいな」
「うん」
夜叉は頷いた。
「だから、ちょっと気になる……」
その言葉を聞いて、カイルが笑った。
「じゃあ行ってみるか」
「怖くないの?」
リゼットが聞く。
「怖いよ?」
「即答するんだ……」
「怖いから慎重に行くんだよ」
カイルは肩をすくめた。
「レオン、頼む」
「ああ」
レオンが前へ出る。
大きな盾を構え、慎重に歩く。
カイルがその斜め後ろ。
リゼットが中央。
夜叉が最後尾。
――いや。
夜叉だけは、時々後ろを振り返っていた。
「夜叉?」
リゼットが気づく。
「どうしたの?」
「……ううん」
夜叉は首を振る。
「何でもないよぉ」
そう言って前を向く。
しかし。
その青い瞳には、ほんの少しだけ不安が浮かんでいた。
───
しばらく進むと。
レオンが手を上げた。
全員が止まる。
「……見ろ」
地面。
泥の上に、足跡が残っていた。
「ゴブリン?」
カイルがしゃがみ込む。
「いや」
レオンが首を振った。
「違う」
足跡は大きかった。
狼よりも大きい。
しかし、人間の足跡にも似ている。
「何これ……」
リゼットが眉をひそめる。
夜叉が近づく。
しゃがみ込んで、足跡に指を近づけた。
触れない。
ただ、その周囲を見る。
「……一人」
「一人?」
夜叉は足跡の向きを確認する。
「うん」
ここから来て……。
指先が森の奥へ向く。
「向こうへ行ってる」
「魔物か?」
レオンが聞く。
「分からない」
「またそれか」
カイルが苦笑する。
「今日は『分からない』が多いな、夜叉」
「だって本当に分からないんだぁ」
夜叉は頬を少し膨らませる。
「おかしいなぁ」
「何が?」
「足跡は新しいのに……」
夜叉が地面を見る。
「匂いがない」
カイルの表情が変わった。
「……匂いが?」
「うん」
夜叉は頷いた。
「普通なら、土が掘り返された匂いとか、体の匂いとか、少しくらい残るんだけど」
彼女は足跡の周囲を見る。
「何もない」
「つまり?」
リゼットが聞く。
「この足跡を残したものが、ここにいた痕跡がない」
四人の間に沈黙が落ちる。
「……それって」
カイルが呟いた。
「どういうことだ?」
「分からない」
「またかよ」
「ごめんねぇ」
夜叉が苦笑する。
その時。
――ガサッ。
茂みが揺れた。
レオンが即座に盾を構える。
「来るぞ!」
カイルが右へ回る。
リゼットが手を上げる。
魔力が渦巻く。
「――風よ」
風が走った。
茂みが大きく揺れる。
そこから飛び出したのは――。
「魔狼!」
カイルが叫ぶ。
三体。
狼型の魔物が一斉に飛びかかってきた。
レオンが前へ出る。
ガンッ!
牙が盾に叩きつけられた。
「二体!」
「任せて!」
カイルが横から入り込む。
短剣が閃く。
一体の狼が方向を変えた。
「夜叉!」
「うん〜」
弓が引かれる。
弦が鳴る。
――ヒュッ。
矢が飛ぶ。
狼の足元へ突き刺さった。
グルァッ!
体勢を崩す。
そこへレオンが踏み込む。
「――っ!」
盾で押し倒す。
カイルが一気に距離を詰める。
そして。
一閃。
狼が倒れた。
「残り一体!」
リゼットが叫ぶ。
最後の狼が夜叉へ向かって飛ぶ。
しかし。
「遅いよぉ」
夜叉が一歩だけ横へ動いた。
狼の牙が空を噛む。
その瞬間。
弓が至近距離で引かれた。
「――ごめんねぇ」
矢が放たれる。
狼が倒れた。
静寂。
「……終わったな」
レオンが息を吐く。
「楽勝だったな」
カイルが短剣を拭う。
「俺たち、強くなったよなぁ」
「油断しない」
リゼットが言う。
「まだ森の中よ」
「はいはい」
カイルが笑う。
夜叉は倒れた狼を見ていた。
「……変だなぁ」
「まだ何かある?」
レオンが聞く。
「この子たち」
夜叉が狼を見る。
「怪我してる」
「戦闘で?」
「違う」
夜叉は首を振った。
狼たちの身体には、細かな傷がいくつもあった。
噛み傷。
引っ掻き傷。
それだけではない。
爪が欠けている。
牙にも傷がある。
「逃げてきたのかなぁ」
夜叉が言った。
「何から?」
カイルが聞く。
夜叉は答えなかった。
ただ。
森の奥を見る。
「……分からない」
また、その言葉。
しかし今度は。
誰も笑わなかった。
───
さらに森の奥へ。
しばらく歩いたところで。
「……止まって」
夜叉が言った。
全員が止まる。
目の前。
巨大な木が一本、立っている。
その幹に。
何かが刻まれていた。
「傷?」
カイルが近づく。
「爪跡? 傷? それと……何だ、この黒いの」
「魔物の血、かしら?」
リゼットがそれを見ながら答える。
木の幹に傷があった。
けれど。
黒い血のような液体が付着している。
しかし。
こんな黒い血は、見たことがなかった。
夜叉が近づいた。
「……これ」
青い瞳が見開かれる。
「知ってるの?」
レオンが聞く。
「ううん」
夜叉は首を振る。
「知らない」
それでも。
なぜか。
胸の奥がざわついた。
懐かしい。
そんな感覚。
けれど、知っているわけではない。
「……なんだろう」
夜叉が手を伸ばす。
指先が。
刻まれた傷に触れようとした。
その瞬間。
「触らないで!」
リゼットが叫んだ。
夜叉の手が止まる。
「……?」
「魔力が流れてる」
「え?」
「ほんの僅かだけど」
リゼットが目を細める。
「これ、ただの傷じゃないわ」
「魔法?」
「分からない」
リゼットが慎重に観察する。
「少なくとも、普通の傷ではない」
レオンが周囲を見る。
「誰がこんなものを?」
カイルも黙っている。
その時。
――森の奥から。
また。
あの音が聞こえた。
ず……。
ず……。
ず……。
夜叉の耳が立つ。
「……来る」
全員が武器を構えた。
音が近づく。
木々の間。
暗闇。
何かがいる。
レオンが盾を構える。
カイルが低く身を落とす。
リゼットが魔力を集中させる。
夜叉が弓を引く。
そして。
木々の向こうから。
巨大な影が――。
姿を現した。
「……!」
四人が息を呑む。
それは。
魔物ではなかった。
人間でもない。
獣でもない。
半分だけ形を持ったような、不気味な何か。
身体の一部が黒く。
その輪郭が、まるで煙のように揺らいでいる。
そして。
その胸元に。
木に刻まれていたものと同じ傷があった。
夜叉が呟く。
「……あれ」
それを見た瞬間。
目の前の怪物から。
低い声が響いた。
「――助けて」
四人が凍りつく。
夜叉の青い瞳が、大きく開かれた。
「……今、喋った?」
カイルが呟く。
怪物は答えない。
ただ。
ゆっくりと腕を上げる。
その瞬間。
森中から。
大量の鳥が一斉に飛び立った。
バサバサバサッ――!
空が黒くなるほどの群れ。
そして。
その中心で。
怪物が、もう一度呟いた。
「――やめて」
夜叉は弓を握り直した。
その表情から、いつもの穏やかな笑顔は消えていた。
「……みんな」
「分かってる」
レオンが前へ出る。
「戦うぞ」
カイルが笑う。
「やっと本番ってわけだ」
リゼットが魔力を集める。
「油断しないで」
そして。
夜叉が静かに弦を引く。
「うん」
白い耳が立つ。
「じゃあ――」
森の奥で。
何かが笑った。
――第二章の本当の冒険が。
今、始まった。
読んでくれてありがとう〜




