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白織夜叉の冒険譚  作者: 蹴 鞠
第1章
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18話 鬼神と鞠凪


森が、静まり返っていた。


先ほどまで響いていた戦闘音すら、今は途切れている。


折れた木々。


抉れた大地。


飛び散った土。


その中心に、二つの影が立っていた。


一人は鬼神。


巨大な身体。


鋭い角。


異様なほど発達した筋肉。


その肉体は、もはや生物というより戦うためだけに作られた塊に近い。


そしてもう一人。


長い黒髪。


黒の和服。


細身の身体。


腰には美しい二振りの刀。


その内の一振りは鞠凪の手に。


白織 鞠凪。


二人の間には、数十歩の距離がある。


鬼神は動かない。


鞠凪も動かない。


ただ、見ている。


鬼神が鞠凪を見る。


鞠凪も鬼神を見る。


やがて。


鬼神が一歩、踏み出した。


――ズン。


地面が沈む。


二歩。


――ズン。


三歩目。


消えた。


「……」


鞠凪の黒髪が揺れる。


次の瞬間。


眼前。


拳。


巨大な拳が、鞠凪の顔面へ迫っていた。


鞠凪は首を僅かに傾ける。


拳が頬の横を通り過ぎた。


風圧だけで黒髪が大きく舞う。


「おっと」


穏やかな声。


鬼神の目が動く。


拳を止めない。


二撃目。


鞠凪は半歩下がる。


三撃目。


身体を捻る。


四撃目。


刀の柄で受け流す。


――ドンッ!


衝撃が森を震わせる。


それでも鞠凪は崩れない。


「うん」


小さく頷く。


「さっきより速いねぇ」


鬼神の表情が変わった。


怒ったわけではない。


笑ったわけでもない。


ただ、


理解した。


自分の攻撃が通じない。


ならば。


通じるようにする。


鬼神がさらに踏み込んだ。


拳。


肘。


膝。


蹴り。


頭突き。


身体中のあらゆる場所を武器に変える。


鞠凪は避ける。


一歩。


半歩。


身体を傾ける。


刀で逸らす。


それだけ。


まるで鬼神の攻撃が、


最初からそこに来ることを知っているように。


「……」


フィルティーナは息を止めていた。


あの鬼神と戦っている。


しかも。


師匠は――


余裕を失っていない。


鬼神の拳が地面を砕く。


鞠凪はその横を歩く。


鬼神の蹴りが木をへし折る。


鞠凪はその下を潜る。


角が迫る。


刀の柄で僅かに軌道を逸らす。


それだけで避ける。


「……届かない」


リゼットが呟いた。


だが。


カイルは首を振った。


「違う」


「え?」


「届かないんじゃない」


カイルが鬼神を見る。


「届かせようとしてる」


その言葉通りだった。


鬼神は戦いながら変わっていた。


一度見た攻撃は二度と同じようには使わない。


鞠凪が避けた方向。


鞠凪が身体を捻った角度。


鞠凪が足を置いた場所。


すべてを覚えている。


そして。


三十手目。


鬼神の拳が変わった。


右。


鞠凪が避ける。


その先。


左。


鞠凪が身体を引く。


そのさらに先。


脚。


鞠凪の着地点を狙っていた。


「……!」


鞠凪が初めて、少しだけ目を開く。


淡い青い瞳が現れる。


跳ぶ。


足元を蹴りが通過する。


その瞬間。


鬼神が身体を回した。


肘。


鞠凪の袖を掠める。


布が裂けた。


「お〜」


鞠凪が自分の袖を見る。


「やるねぇ」


鬼神が止まらない。


さらに踏み込む。


今度は速い。


先ほどまでとは明らかに違う。


筋肉が膨れ上がる。


肩幅が広がる。


脚の筋肉が地面を踏み砕く。


骨が軋む。


全身が限界を越えていく。


一撃。


鞠凪が避ける。


二撃。


受け流す。


三撃。


下がる。


四撃。


五撃。


六撃。


鞠凪の足が、


僅かに後ろへ滑った。


「……!」


フィルティーナが目を見開く。


鬼神がさらに追う。


速い。


重い。


そして――


賢い。


自分の力だけではなく、


今までの戦いそのものを武器にしている。


鞠凪の逃げ道を潰す。


身体の向きを限定する。


次に避ける方向まで予測する。


鬼神の拳が迫る。


鞠凪は横へ避けた。


そこへ。


鬼神のもう一方の腕。


「――!」


受ける。


――ドンッ!!


鞠凪の身体が僅かに浮いた。


着地。


黒い和服の裾が揺れる。


鬼神が追う。


拳。


鞠凪が刀を振る。


――キィン。


一瞬。


刃と拳が触れた。


普通なら。


刀が折れる。


そう思うほどの衝撃だった。


だが。


鞠凪の刀は動かない。


「……」


鞠凪は静かに鬼神を見る。


そして。


刀を引いた。


鬼神の拳には。


何も起きていない。


斬れない異常な硬さの拳。


鬼神が。


何かを感じ。


一瞬だけ目を細めた。


次の瞬間。


鞠凪が踏み込む。


刀が走る。


――ブツン。


音は、


それだけだった。


斬撃音ではない。


肉が裂ける音でもない。


骨が折れる音でもない。


まるで、


そこにあった空間そのものが、


途中から切り離されたような音。


鬼神の肩。


そこから先が、


落ちた。


血が噴き出す。


鬼神が後ろへ飛ぶ。


初めて。


距離を取った。


フィルティーナの顔が強張る。


あれだけ発達した筋肉。


強靭な肉体。


それらを支える規格外の骨。


関係ない。


鞠凪の斬撃は、


「硬いものを斬る」のではない。


斬られた場所が、


そこから先の存在を拒絶する。


鬼神は自分の肩を見る。


そして。


残った腕の拳を握る。


痛み。


出血。


それでも。


戦意は消えていない。


むしろ。


強くなっていた。


鬼神が咆哮する。


――ゴォンッ!!


森の鳥が一斉に飛び立った。


地面が揺れる。


鬼神の身体がさらに膨れ上がる。


筋肉が限界まで収縮する。


血管が浮き出る。


骨格そのものが軋む。


そして。


鬼神が走った。


速い。


さっきよりも。


さらに。


「……まだ上があるんだぁ」


鞠凪が呟く。


鬼神の拳。


鞠凪が避ける。


拳が木を粉砕する。


鬼神は止まらない。


蹴り。


角。


肩。


残った腕。


脚。


身体そのもの。


すべてを武器にする。


鞠凪の黒髪が何度も舞う。


黒い和服の袖が裂ける。


頬を拳が掠める。


血が一筋。


「……!」


フィルティーナが息を呑む。


だが。


鞠凪は笑っていた。


「うん」


閉じた瞳が鬼神を捉える。


「だいぶ近づいてきたねぇ」


鬼神がさらに踏み込む。


拳。


鞠凪が避ける。


その瞬間。


鬼神の身体が沈んだ。


――囮。


拳は本命ではない。


本命は脚。


鞠凪が避ける方向を読んでいた。


巨大な脚が横薙ぎに振り抜かれる。


鞠凪の身体が浮く。


鬼神が追撃する。


角。


拳。


膝。


三つ。


同時。


逃げ場がない。


「師匠!」


フィルティーナが叫ぶ。


鞠凪は――


動かなかった。


いや。


動いた。


ほんの僅か。


半歩。


それだけ。


鬼神の攻撃が、


すべて空を切った。


「……!」


鬼神の目が見開かれる。


鞠凪は鬼神の懐にいた。


近い。


あまりにも近い。


「惜しかったねぇ」


鬼神が拳を振る。


それよりも速く。


鞠凪の刀が動く。


―― ブツン


今度は、


鬼神の脚。


その一部が、


消えた。


膝から下が、


そこに存在しなくなる。


残雪・暮月


鬼神の身体が傾く。


それでも倒れない。


残った脚だけで踏み込む。


異常だった。


普通なら戦えない。


普通なら逃げる。


普通なら恐怖に屈する。


だが。


鬼神は違った。


身体を失っても。


なお。


戦う。


鬼神が吠える。


そして。


残されたすべてを、


鞠凪へ叩き込む。


拳。


頭。


角。


肩。


体重。


殺意。


本能。


知性。


経験。


そのすべて。


鞠凪は受け止める。


避ける。


流す。


そして。


一つずつ、


鬼神の「武器」を奪っていく。


拳。


――ブツン。


肩。


――ブツン。


脚。


――ブツン。


肉体。


骨。


筋肉。


そのどれも、


鞠凪の前では絶対的な防御にならない。


鬼神は理解する。


自分の身体が強いから勝てる。


違う。


自分が速いから勝てる。


違う。


勘が鋭いから勝てる。


違う。


学習できるから勝てる。


違う。


何を破っても。


何を極めても。


何を捨てても。


目の前の女には――


届かない。


鞠凪は静かに刀を構えた。


黒髪が風に揺れる。


黒の和服にはいくつか傷がついている。


頬には一筋の血。


それでも。


呼吸ひとつ乱れていない。


鬼神が立っている。


満身創痍。


それでも目は死んでいない。


むしろ。


その目だけは、


初めて明確なものを映していた。


恐怖。


自分より強い存在。


ではない。


そんな単純なものではない。


理解できない。


どれだけ近づいても。


どれだけ強くなっても。


どれだけ戦い方を変えても。


決して越えられない。


──壁。


その壁そのものが、


目の前に立っている。


鞠凪が刀を下ろす。


「……もう十分かなぁ」


鬼神が構える。


まだ戦う。


鞠凪は少しだけ困ったように笑った。


「まだやるのぉ?」


鬼神は答えない。


ただ。


残された力を振り絞って、


一歩。


踏み込んだ。


鞠凪も一歩、


前へ出る。


二人の距離が消える。


そして。


黒い刃が、


静かに走った。


――ブツン


森に、


その音だけが響いた。


斬撃音ではない。


何かが裂けた音でもない。


ただ。


そこにあったものが、


その瞬間だけ、


世界から切り離されたような音。


鬼神の動きが止まった。


そして。


初めて。


その巨大な身体が、


ゆっくりと膝をついた。


読んでくれてありがとうございます。

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