???話 森が知っていた者
森には、音がある。
朝には鳥が鳴く。
昼には風が葉を揺らす。
夜には虫が鳴き、獣が土を踏む。
木々はそれらを聞きながら、何百年もの間、そこに立っていた。
森は、いつも通りだった。
――その日までは。
最初に気づいたのは、一羽の鳥だった。
いつものように枝へ止まり、森の奥を見ていた。
何もない。
木々がある。
草がある。
遠くで小さな獣が走っている。
いつもと同じ景色。
なのに。
鳥は、突然飛び立った。
理由はなかった。
何かが見えたわけでもない。
音がしたわけでもない。
ただ。
飛ばなければならない。
そう感じた。
一羽が飛ぶ。
それにつられるように、もう一羽。
さらに一羽。
森の上空から、鳥たちが一斉に消えていった。
森は、それを見ていた。
まだ何も知らなかった。
⸻
昼。
森の浅い場所。
小さな獣が草を食んでいる。
その獣も、何かを感じた。
耳を立てる。
鼻を動かす。
何もない。
風もない。
だが。
森の奥から――
何かが近づいている。
獣は走った。
いつもなら逃げない場所まで。
さらに走る。
木々の間を抜ける。
そして、森の外へ飛び出した。
人間たちは驚いた。
普段なら姿を見せない獣だったからだ。
けれど獣には、人間たちのことなどどうでもよかった。
ただ逃げたかった。
何から?
それは分からない。
ただ。
森の奥にいる何かから。
⸻
夕方。
狼の群れが動いた。
群れの長が立ち止まる。
鼻を鳴らす。
耳を動かす。
そして、森の奥を見る。
そこには何もない。
それでも。
狼は群れを引き連れ、いつもの縄張りを捨てた。
餌場も。
巣も。
子どもたちも。
すべてを連れて。
森の外へ向かう。
狼だけではなかった。
猪も。
鹿も。
大型の鳥も。
小さな魔物も。
大型の魔物も。
本来なら互いに争うはずのものたちが、同じ方向へ動き始めた。
森の外へ。
王都から離れる方向へ。
まるで――
何かから逃げるために。
⸻
夜。
森は静かだった。
静かすぎた。
虫の声がない。
獣の声がない。
鳥の声もない。
葉だけが、風もないのに揺れていた。
ざわ。
ざわざわ。
木々が震える。
根が震える。
土の中を、何かが伝わってくる。
遠い。
まだ遠い。
だが。
確実に近づいている。
森は知っていた。
自分の中にあるものを。
獣も。
魔物も。
毒草も。
古い木々も。
長い年月をかけて積み重なった命も。
森は、それらを包んできた。
守ってきた。
だが。
それらとは違うものがいる。
この森に属していない。
この森の理から外れたもの。
それが――
歩いている。
一歩。
また一歩。
ズン。
地面が揺れる。
鳥が飛び立つ。
獣が逃げる。
魔物が吠える。
木々がざわめく。
その足音が近づくたび。
森の奥から、命が消えていく。
逃げるもの。
隠れるもの。
戦うもの。
そして――
食われるもの。
それでも。
それは止まらない。
森を歩く。
ただ歩く。
まるで何かを探すように。
⸻
翌朝。
森の浅い場所に、一匹の魔物が現れた。
本来なら、森の奥深くにしか生息しない魔物だった。
その魔物は傷ついていた。
身体には無数の擦り傷。
息は荒い。
そして。
振り返る。
誰もいない。
それでも走る。
人間たちの住む場所へ。
森から出る。
その姿を見た人間たちは驚いた。
「……あれは?」
「こんなところに出る魔物じゃないぞ」
誰かが言った。
誰かが警戒した。
だが。
魔物は人間を襲わなかった。
ただ。
王都とは反対方向へ走っていった。
その後ろから。
また一匹。
さらに一匹。
やがて。
数え切れないほどの魔物が森から溢れ出した。
森の外へ。
森から離れるように。
逃げるように。
まるで――
森そのものが、何かを吐き出しているかのように。
⸻
さらに数日。
森の中にあった小さな村から、煙が上がった。
火事ではない。
村人たちが焚いた朝の火だ。
いつも通りの朝だった。
誰も知らなかった。
その夜。
その村が。
消えることを。
森は見ていた。
夜が来る。
人々が眠る。
家畜も眠る。
風が止まる。
虫の声が消える。
そして。
森の奥から。
また。
ズン。
足音がした。
村の犬が吠えた。
一度だけ。
二度目はなかった。
森は震えた。
木々が揺れた。
獣たちは逃げた。
そして――
夜が明けた。
村は。
そこになかった。
家も。
人も。
家畜も。
畑も。
すべてが。
まるで最初から存在しなかったかのように。
ただ。
村の入り口だった場所に。
巨大な足跡が一つ。
残っていた。
森はそれを見ていた。
何も言わない。
言葉を持たないから。
ただ。
知っていた。
まだ。
終わっていない。
むしろ――
始まったばかりだ。
遠く。
森のさらに奥。
誰も知らない場所。
そこに。
何かが立っていた。
それは森を見ていた。
森もまた。
それを見ていた。
そして。
ゆっくりと。
その「何か」は歩き出した。
ズン。
森が震えた。
ズン。
魔物たちが逃げた。
ズン。
木々がざわめいた。
そして。
四度目の足音が響いたとき。
森の外へ向かって。
無数の命が走り出した。
まだ。
人間たちは知らない。
騎士団も。
冒険者たちも。
王都の誰も。
その森の奥に――
「鬼神」と呼ばれるものがいることを。
読んでくれてありがとうございます。




