第41話:EX 氷の副官のナイトルーティン ~残業時間削減の甘美な味~
コトッ……。
私は自室のローテーブルに、湯気を立てるコーンポタージュの入ったマグカップを置いた。
壁のアンティーク時計が指し示す時刻は午後8時。
「あぁ……温かい……」
一口すするとコーンの甘みと温かさが、冷え切っていた胃の粘膜にじんわりと染み渡っていく。
お風呂にゆっくりと浸かり、髪を丁寧に乾かし、肌触りの良いシルクのパジャマに身を包む。
……ほんの一ヶ月前まで。
私のこの時間は、まだ『第12回・予算編成会議』の真っ最中だった。
夕食は深夜の執務室で冷めきった携帯食料、干し肉をかじり、睡眠時間は毎晩ほんの数時間程度。
常に胃薬を手放せず、翌朝は鏡の前で「私は完璧な氷……」と自己暗示をかけなければ、正気を保てない日々だった。
だが、今は違う。
すべては、我が真なる主君、プリーズ(リズ)殿下が『広域エリア統括本部長』という名の巨大な生贄……もとい、偉大なる役職に就いてくださったおかげだ。
私の睡眠時間はかつての2〜3倍に増え、こうして人間らしい夜を過ごせるようになったのである。
「さて……」
私はマグカップを置き、自室の扉に『三重の防音・防犯結界』を張った。
絶対に、誰にも邪魔されない、覗かれない完璧なプライベート空間。
私はベッドに入り、枕元の隠し箱から、その『神聖なる存在』を恭しく取り出した。
「ふふっ……スイウサちゃぁ〜〜ん」
私が抱きしめたのは、不格好な手縫いの、ピンク色のウサギのぬいぐるみだった。
「きょうも、スイちゃん、おちごとがんばったでちゅよ〜。よしよししてくだちゃい〜」
頬擦りをしながら、私は今日一日の出来事を、スイウサちゃんに報告する。
日中、帝都の執務室で張り詰めていた『氷の副官』の威厳は、今や見る影もない。
完全にでろでろに溶け切っていた。
「きょうね〜、リピート殿下が、『リズの陣営なら、南の河川工事の予算管理もいけるだろう』って、また分厚い書類の山を持ってきたんでちゅよ〜」
私はぬいぐるみの短い手足をフリフリと動かしながら、クスクスと笑った。
「スイちゃん、すかさず転送魔法で、リズ様の別荘に全部ぶち込んでやったでちゅ! リズ様、通信機の向こうで『いやあああっ!』ってすごい悲鳴上げてたでちゅけど、スイちゃんの定時のためなら、仕方ないでちゅよね〜!」
「ウサウサ!(その通りでちゅ!)」と、私は一人二役でスイウサちゃんのセリフを代弁し、ギュッと抱きしめる。
「あぁ〜、スイウサちゃんの匂い、落ち着くでちゅ……。リズ様には本当に感謝してるんでちゅよ? 殿下の優秀な『検索能力』と『マクロ草』のおかげで、スイちゃんはこうして温かいお布団で眠れるんでちゅから」
ギュッとぬいぐるみを抱きしめたまま、私はふと、部屋の窓から帝都の夜空を見上げた。
この同じ空の下で、かつての主君である第2皇女、ネネード殿下は今頃、書類の重圧から完全に解放され、満面の笑みで魔境を駆け回っておられることだろう。
帝都の貴族たちは噂している。「あの氷の副官は、激務に耐えかねて冷酷にも主君を見捨て、有能な第6皇女の陣営へ寝返ったのだ」と。
――その噂は、半分正解で、半分は間違っている。
私が現在の主君であるリズ様に心からの忠誠を誓い、この身と剣を捧げたのは紛れもない事実だ。
だが……決して、かつての主君であるネネード殿下を『裏切って見捨てた』わけではないのだ。
かつて、終わらない書類の山に押し潰され、執務室の机で一度命を落とした(過労死した)私の主君。
彼女が私を過労死させないために、あえて狂皇女のフリをして前線へ私を引き抜いてくれたことなど、ずっと前から気づいていた。
だからこそ私は誓ったのだ。「私がすべての書類を処理して、殿下には二度とペンを握らせない。殿下のあのバカみたいに明るい笑顔を、私が守るのだ」と。
私が第1・3派閥、シスタネ殿下側ではなく、あえてワルモンドの派閥に殿下と共に属していたのも、それが理由だ。
監査の鬼であるシスタネ殿下の元につけば、殿下は間違いなく膨大な報告書で精神をすり潰される。
汚職まみれのワルモンドの陣営のほうが、まだ規律(ミド殿曰く『こんぷらいあんす』とやら)が緩く、殿下が「ただの便利な脳筋」として書類から逃げられると計算したからだ。
だが……人間の私には、限界があった。
どれだけ徹夜をしても、殿下が暴れた事後処理の書類は私の胃と精神を削り続け、私自身が過労死する一歩手前まで追い詰められていた。
そんな絶望の淵で、森の小屋に潜んでいたリズ様と対峙したのだ。
最初は、ただの「ハズレ能力」の皇女だと思っていた。
だが、彼女の底知れぬ『情報力』は、私の隠し事を完璧に暴き出し……さらには、遠く離れた帝都で魔境から戻り「服がない、書類仕事が残ってる!」と泣き喚くネネード殿下の惨状すら、正確に言い当ててみせたのだ。
その圧倒的な情報把握力と、彼女が提示した「週休二日と『有給休暇』の保証。そして、徹夜の書類整理からの解放」という悪魔の甘い囁き。
あの言葉を聞いた瞬間、私は直感した。
この御方になら、私の全てを懸けられる。
この底なしの書類の山を消し飛ばし、ネネード殿下も、私も、両方を完全に救ってくれる【真の救世主】になり得ると。
そう。私はリズ様に心から感謝し、絶対の忠誠を誓っているのだ。
そして今、ネネード殿下もリズ様の陣営で、書類のプレッシャーから完全に解放され、水を得た魚のように魔境を飛び回っておられる。
――飛び回っておられるのだ!!
ネネード殿下!!いくら私を書類から遠ざけるための『脳筋の偽装』とはいえ、最近は明らかに、ただ暴れること自体をエンジョイしすぎていませんか!!
先日も「リズがいなくて退屈だから」という理由だけで、隣国の砦を物理的に半壊させて帰ってきた時は、さすがの私も胃壁が完全に崩壊するかと思いました!
殿下の事情と優しさは痛いほど分かってます! 分かってますけど、もう少しだけ自重していただけませんか!? あなたが暴れるせいで、結果的に私の寿命がゴリゴリ削れてるんですぅぅッ!!事後処理で何度泣き叫びそうになったことか!
そして、リズ様!!
あの夜、森の小屋で私に優しく囁いてくださった『週休二日は必ず休ませる』というお約束!
そして『有給休暇』……休んでいるのに給料が発生するなどという、あの夢のような魔法の権利は一体どこへいったのですか!?
同盟を結んでからというもの、結局、私はリピート殿下からの無茶振りやネネード殿下の暴走の事後処理で、徹夜どころかストレスで局地的な氷河期を引き起こしかける寸前まで追い詰められましたよ!!
これでは、ミド殿が仰っていた『ほわいと(※汚れなき清らかな労働環境)』などとは程遠いじゃないですか!!
……ですが。今の私には、必殺の転送魔法、仕事の完全パスという最強のカードがあります。
そもそも、リズ様が私を副官に迎える際、「情報整理とスケジュール管理は、有能なあなたにバッチリ補佐してもらう」と仰ったのが始まりです。
ならば! 帝都から押し寄せる理不尽な書類の山を素早く『情報整理』し、リズ様のチート能力で処理するための『スケジュールを組んで別荘へパスする』ことこそが、副官としての立派な補佐業務のはず!
どんなに理不尽な書類の山が来ても、右から左へリズ様に横流しさえすれば、私はこうしてスイウサちゃんと一緒に定時退社できるのです!!
……だからこそ、私はこの完璧な『わーくらいふばらんす』(※ミド殿曰く、仕事と私生活を両立させる至高の魔法)を、絶対に手放すわけにはいかないのだ。
「……明日も、リピート殿下の思いつき(むちゃぶり)やネネード殿下の事後処理は、全部リズ様に横流し(パス)して、この『スイウサちゃんとの時間』を死守しまちゅからね……! 待っててくだちゃいね、スイウサちゃん!」
私は決意を新たに、ピンク色のぬいぐるみにチュッとキスをした。
遠く離れた長閑村で、主君であるリズ様が深夜までマクロ草と共に書類の山と格闘している姿が脳裏をよぎったが、私はそっと目を閉じた。
この陣営の平穏と胃の健康は、リズ様の尊い犠牲、処理能力の上に成り立っているのだ。
リズ様なら、なんだかんだ文句を言いながらも、あのチート能力で全部朝までに終わらせてくれるだろう。
「おやしゅみなさい……むにゃむにゃ」
――かくして、『氷の副官』の完璧な氷は、毎夜こうして極めて身勝手で、しかし真っ直ぐな愛と癒やしによって充電され、明日も冷徹に、主君に仕事をぶん投げるための準備を整えるのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
更新の大きな励みになりますので、もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけると大変嬉しいです。
【ブックマークに追加】も、ぜひよろしくお願いいたします。




