第42話:EX 完璧な兄の秘密の引き出し ~絶望のループと、全15巻の狂気~
「……ふぅ」
帝都の執務室。
私は今日の分の決裁書類、愛しい妹が午後3時に定時退社した後に残された膨大な残務を片付け終え、深く息を吐き出した。
誰もいなくなった夜の執務室。
私は静かに立ち上がり、自分の机の『右から三番目の隠し引き出し』に手をかけた。
厳重な三重の魔法ロックを解除し、中から一冊の革張りのノートを取り出す。
表紙には美しく金箔押しされた文字でこう書かれている。
『プリーズ観察日記・第15巻 ~過酷な辺境で微笑む可憐な小鳥~』
先日彼女のギフト『インフォメーション』によってこのノートの存在が暴かれ、あろうことか【定時退社を勝ち取るための脅迫材料】として使われてしまったのは記憶に新しい。
『お兄様の威厳が完全に崩壊しますわよ?』と彼女は笑っていたが……。
私からすれば、この全15巻に及ぶノートは単なる趣味や性癖などではない。
私の【命と魂を繋ぎ止めた、血と涙の結晶】なのだ。
――時間を遡ろう。
まだ私が彼女と直接言葉を交わす前。
天才と持て囃され、誰にも本音を明かせず孤独だった私が、気晴らしに極秘の隠密魔法で帝都の隅を散策していた時のことだ。
私は、カビ臭い辺境の離宮で硬いパンをかじりながらも、窓辺にやってきた小鳥にパン屑を分け与え、優しく微笑む第6皇女、プリーズの姿を目撃した。
ドクンッ。
その瞬間、凍りついていた私の心に、一筋の温かい光が差し込んだのだ。
「……おお。なんて尊いのだ。無能と蔑まれ、あんな逆境にあっても、慈愛の心を忘れないなんて……」
私は震える手でペンを取り、その日の彼女の姿をノートにスケッチした。
『〇月×日。今日のプリーズも可憐だ。小鳥にパンを分け与える姿は、まさに帝国の天使……』
それから数年間。
私は日々の激務の合間を縫って、彼女の行動を密かに記録し続けた。
彼女が好んで淹れている安物の茶葉の香り。
裏庭でこっそり摘んでいた野イチゴで作った手作りジャム。
ふとした時に見せる、少し意地悪で悪戯っぽい笑顔。
その微細な変化を記録し、愛を綴ることが、私にとって唯一の『精神安定剤』となった。
そうして書き溜めた記録が、第1巻から第14巻である。
――そして、あの絶望の1日が始まった。
ワルモンドの『絶対契約』という詰みの盤面。
『ぐはっ……!』
『リピート殿下ァァッ!』
何度目かのループ。
またしても私はワルモンドの凶刃に倒れ、死の激痛と共に時間を「今日の午前0時」へと巻き戻した。
自室のベッドで跳ね起きる。
滝のような冷や汗と仲間が死んでいく記憶が脳を焼き切るように痛む。
「……ッ、ハァ、ハァ……! ああ、また……また、ダメだった……!」
最初の頃のループでは、私はただ闇雲にワルモンドを止めようと奔走し、彼女と接触することすらせずに死に戻りを繰り返していた。
誰も私の言葉を信じない。
誰にも頼れない、たった一人の死に覚えのループ。
絶望が幾重にも降り積もり、自我が崩壊する寸前だった。
その狂気の淵で、私を救ったのは引き出しの中の『観察日記』だった。
「ああ……リズ。君の健気な姿を思い出せば、兄はまだ戦える……!」
私は終わらない1日のプレッシャーに耐えながら、一つの確信に至った。
この詰みの盤面を打開するには、彼女の底知れぬ『情報力』に頼るしかない。
そのためには、彼女が私を訪ねてきた際に、こちらから完璧な同盟を持ちかける『両陣営合同の昼食会』というイベントを発生させる必要があったのだ。
私は新しいノート(第15巻)を開き、「どうすれば彼女を最高にもてなし、私の陣営に引き入れることができるか」という妄想を書き殴った。
その妄想こそが、のちに現実となったあの完璧な昼食会である。
彼女はあの時、私が彼女の好みの茶葉や野イチゴのジャムを用意し、落とす前のナプキンをキャッチしたのを見て、「心を読めるのか、未来予知か」と戦慄していた。
……違うのだ、リズ。
私は君の心を読んだわけでも、神のような未来予知をしたわけでもない。
全14巻に及ぶ長年の観察記録から君の好みを完璧に把握し、さらに数十回のループを繰り返す中で、「ここで彼女は警戒してナプキンを落とす」という行動パターンを完全に暗記するまでリトライ(死に覚え)した賜物だったのだ。
数十回とループが重なるにつれ、私の狂気……いや、愛はさらに加速していった。
「……フフッ。プリーズを陰ながら応援する組織が必要だな。よし、私が立ち上げよう」
私はループの深夜、金ピカに輝く『プリーズ殿下公式ファンクラブ・永久名誉会員証(会員番号001)』を錬金術で自作し、胸ポケットに忍ばせた。
これさえあれば、何度ワルモンドの剣が胸を貫こうとも、私はファンクラブ第一号としての誇りを胸に、笑顔で死を受け入れることができたのだ。
――そして現在。
全15巻に及ぶその血と涙の記録は、今、私の手元にある。
「……本当に、よく頑張ったな、私」
私は観察日記を胸に抱きしめ、妹の無事と、彼女がもたらしてくれた今の平穏(膨大な丸投げ書類は除く)に深く感謝した。
たとえ、彼女から「重度のシスコン」という冷たい目で見られようとも、彼女が定時で帰って美味しいご飯を食べているのなら、兄としてこれ以上の喜びはない。
「……リピート殿下」
ふと、背後から氷のように冷たい声がした。
振り返ると、いつの間にか執務室に入ってきていたスイが、まるで汚物を見るような、限界まで冷え切った目で私を見下ろしていた。
「あ、いや、スイ。これは違うのだ。過去のトラウマのケアというか、精神統一のための儀式であって……」
「何も言わなくて結構です。……ただ、殿下。一つだけ言わせてください」
スイは、自身の胸ポケットから、ピンク色の不格好なウサギのぬいぐるみ、スイウサちゃんをスッと取り出し、私の目の前で見せつけた。
「プリーズ殿下が圧倒的な処理速度で我々の業務を激減させてくださったおかげで、我々は過労死を免れ、こうして夜に『自分の大切なもの(癒やし)』と触れ合う時間が持てるようになりました。……私はこの平和な夜を、不毛な暴露合戦でぶち壊す気はありません。ですので、殿下のその底抜けに怪しいノートのことは、私の胸の内にしまっておいて差し上げます」
「怪しいとはなんだ! これは歴史的資料だぞ! だいたい、あの昼食会が成功したのもこのデータが……」
「私がこの『スイウサちゃん』に、毎晩赤ちゃん言葉で話しかけて現実逃避しているのと同じですね、偉大な第1皇子殿下」
「うっ……。そ、それなら君だって十分怪し……いや、独特の趣味じゃないか! 私を一方的に変態扱いするのは……!」
私が僅かな反撃を試みると、スイは冷徹な表情を一切崩さぬまま、ぬいぐるみの耳を軽く撫でた。
「ええ、仰る通り泥仕合です。……ですが殿下、冷静に考えてみてください。激務に疲れた副官が『またぬいぐるみに赤ちゃん言葉で癒やされている』のと、実の兄が『また妹の観察日記全15巻・ポエム付きで癒やされている』のと……明日、プリーズ殿下に両方の事実が報告された場合、社会的に完全に息の根が止まるのはどちらでしょうか?」
「…………私だな」
「ご理解いただけて何よりです。ですので、明日の朝一番の通信でプリーズ殿下に『お兄様は第16巻の執筆に意欲的でした』とご報告を入れる前に……互いの秘密は完全な不可侵条約ということでよろしいですね?」
「すまない、私が悪かった。頼むから黙っていてくれ」
帝国の未来を担う第1皇子と、その右腕である氷の副官。
私たちは、お互いの絶対に他人に言えない重度の秘密を胸に抱いたまま、深く、静かに頷き合うのだった。
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