第6章 : 変な奴
淡い朝日の下、私はゆっくりと息を吸い込んだ。
肺に届く空気が薄く感じられる。まるで、目の前にひしめき合う何百人もの人々に、この場所の酸素を奪い合われているかのようだった。
「やっと……合格したんだ」
その言葉は、周囲の低いざわめきに消え入りそうなほど、小さな囁きとなって漏れた。
安堵感が全身に広がり、それまで冷え切っていた指先をわずかに温める。ズキズキとする頭痛に耐えた長い夜も、痛みも、母と向き合う息の詰まるような恐怖も。捧げてきた全ての犠牲は、無駄ではなかった。
私は静かに座っていた。人混みの端にあるベンチから、一歩も動かなかった。掲示板にある自分の名前を確認するだけで、全てのエネルギーを使い果たしてしまったような気分だった。その名前の横には、小さな星のマークが太字で印字されている。特待生リストに入ったという、公式の証だ。
私の瞳、正確には、まだまともに機能している方の右目が、遠くに見える壮麗な建物を走査した。
「花弁学園」
試験の最中は余裕がなくて気に留めていなかったが、今、その「要塞」ははっきりと私の前にそびえ立っている。
一学年わずか250名しか受け入れないエリート校。そのシステムは「一般枠(外部)」と「特別枠(内部・推薦)」という、全く異なる二つの道に分かれている。
一般枠は、私が必死に戦って勝ち取った場所だ。純粋な学力試験を突破した120名の枠。
残りは? 約130の席は特別枠のために予約されている。小説の中では、附属中学の出身者や「特別な支援」——つまり金とコネの隠語を持つ者たちのための枠として描かれている。
風早海斗とその仲間たちは、その後者の道から入学してきた。高額な独自費用を支払える家族に支えられ、新品の制服と明るい笑顔を浮かべて。
風早が馬鹿だとか、試験を受けられないというわけじゃない。彼は優秀だ。けれど、この小説の世界では、主人公は私のようにたった一つの席のために死に物狂いで足掻く必要はないのだ。
私といえば?
私はエリートの中に混じった侵入者だ。一般枠からの全額特待生という地位を維持し続けなければならない。もし成績が少しでも落ちて、高額な学費の負担を強いられることになったら……母が私に何をするか、想像すらしたくなかった。
中学の頃は、「中二病の変な女子」を演じることで生き延びることができた。先生たちは私を無視し、クラスメイトは遠ざかっていく。私の傷になんて、誰も関心を持たなかった。
けれど、ここからが本編だ。この小説の主要キャラクターたちは、私が奇妙な振る舞いをしたからといって離れてはくれないだろう。このキャラ設定だけでは足りない。もし彼らが近づいてくるなら、最初から隙がないように体を完全に覆い隠さなければならない。少なくとも、自分の世界に帰る方法を見つけるまでは。
「ほら、これ飲めよ」
思考の海が、一瞬で引き裂かれた。
私の左側、死角になっている方から不意に誰かが現れた。私は驚き、ぎこちなく首を回した。
そこには、まだ露が結んだ二本のミネラルウォーターを差し出している少年が立っていた。髪は深い紺色で、朝の風に少し乱れている。
反射的に、私の手が素早く動いた。ボトルを受け取るためではなく、膝の上のバッグを強く掴むために。
指が、バッグのサイドポケットから突き出たペットボトルの首を掴む。それは自分の問題に気づいて以来、毎朝家で汲み直している、傷だらけでくすんだ使い古しのボトルだ。
「持ってるから」
私は自分のボトルを軽く持ち上げ、鋭く答えた。中の水は、外気ですでにぬるくなっている。
少年は瞬きをした。彼の視線が落ち、私の手にあるボトルを見つめ、それから私の顔に戻った。彼は明らかに、拒絶の意を汲み取っていた。
「もう冷たくないだろ、それ」
「いらない、別に——」
言葉を最後まで紡ぐ前に、彼が手を伸ばした。さりげなく、けれど拒絶を許さない動きで、彼は新しい冷えたボトルを私の膝の上に置いた。
ボトルから伝わる冷気がスカートを通り抜け、私の手の中のぬるいボトルと鮮やかな対照をなす。
「持っておけよ。足りなくなるかもしれないだろ」
彼はそう言うと、許可も求めずに私の隣に腰を下ろした。自分のボトルのキャップを開ける。プラスチックのシールが剥がれるパキッという音が、騒音の中で鮮明に響いた。彼は一口飲むと、晴れ渡った青空を見上げながら深く吐息をついた。
私はただ、膝の上に転がった冷たいボトルを奇妙なものを見るような目で見つめ、座り続けていた。
断ったのに、どうして彼はこれをくれたんだろう。
私たちは二人で、掲示板の前に集まる群衆を眺めていた。
「気分、大丈夫か?」
彼は私を見ずに尋ねた。
「……大丈夫」
古いボトルを握りしめたまま、私は短く答えた。
「……」
沈黙。私はただ俯き、自分の靴の先をぼんやりと見つめた。
「……発表、見に来たのか?」
また彼が聞いた。
「うん」
「受かってたか?」
「……うん」
「……」
「……」
彼は、私が全く手を触れていない膝の上の新しいボトルに目をやった。結露が私のスカートを濡らし始めている。
「本当に飲まないのか?」
私はゆっくりと首を振った。「自分のあるから」
「まあ、好きにしろよ」
彼は小さく首を振り、低く呟いた。
少しの間、彼は私を見た。その視線には非難の色はなく、ただ観察するような……まるで、新しく見つけた奇妙な生き物を理解しようとしているかのようだった。
「……」
「……」
「大丈夫か?」
また、その丁寧な質問だ。
「大丈夫」
私は自動的に答えた。意図したよりも少し鋭い口調になってしまった。なぜか、彼の執拗な問いかけに苛立ちを感じ始めていた。
「本当に?」
彼はもう一度尋ねた。その声は柔らかいが、どこか確信を求めているようだった。
私は沈黙した。指が、無意識に制服のスカートの裾を強く握りしめた。
本当に大丈夫だって? 私の片目は一生治らない。体は傷だらけだ。毎日、自分の母親の恐怖に支配されて生きている。外の水を受け付けないから、自分のボトルを持ち歩いている。そして何より、こんな馬鹿げた逆ハーレム小説の世界に閉じ込められている。
これで、大丈夫に見える?
私は顔を背け、彼との視線を切って学校の正門を真っ直ぐに見据えた。
「……大丈夫よ」
ようやく答えた声は、ひどく平坦だった。
少年はそれ以上追及しなかった。彼は私の嘘を、まるで真実であるかのように受け入れて、ゆっくりと頷いた。
私たちは再び沈黙に陥り、目の前を通り過ぎる群衆を見守った。
「俺、湊アキラ(みなと あきら)」
突然、彼はそう言った。
彼は完全にこちらを向き、私の眼帯、それから右目を真っ直ぐに見つめた。
「お前は?」
突然の問いに一瞬躊躇したが、結局、私は答えた。
「……夏目」
私は静かに言った。「夏目 小春」
彼の顔に、微かな笑みが浮かんだ。
「よろしく、夏目さん」
「……ん」
再び私たちの間に沈黙が降りた。風が吹き、私の顔の左側を覆う髪を数本散らした。
「……」
「……」
「一つ聞きたいんだけど、嫌だったら答えなくていい」
そう言う彼の顔には迷いがあった。私を追い詰めないよう、視線を外して余白を作ってくれているようだった。
「……なに?」
私は困惑しながら彼の方を向いた。
「その目……左目、怪我してるのか?」
その質問は、唐突だった。
一瞬で体が強張る。ようやく落ち着きかけていた心臓が、再び激しく打ち鳴らされ始めた。
怪我?
記憶が奔流となって押し寄せる。
蹴撃。床への衝撃。母の冷徹な顔。
膝の上の手が小さく震えた。真実を話すわけにはいかない。
ゆっくりと、私の手は眼帯のざらついた表面に触れた。深く息を吸い込み、恐怖を「キャラ設定」という仮面で塗りつぶしていく。
唇の端を吊り上げ、無理やり歪んだ笑みを作った。
「怪我? フフフ……」
謎めいた響きを持たせた、低い笑い声を出す。
「人間の軟弱な肉体損傷と、一緒にしないでほしいわね。湊くん」
私は自信たっぷりに言った。
座り直し、足を組んで顎をわずかに上げる。鋭い右目だけで彼を真っ直ぐに見据えた。
「これは傷ではない。究極の封印——『厄災の紋章』よ」
私はゆっくりと、右手を胸の高さまで上げた。指を半分ほど曲げ、内側の荒れ狂う何かを抑え込むように。そして左手の人差し指で、目の上の眼帯を指し示した。できる限りの演出を込めて。
「私の右腕には、破壊を渇望する『黒龍の炎』の力が宿っている……」
私は神秘的に語りかけた。
「その力はあまりにも強大で、荒々しく、私のような脆弱な器では抱えきれない。炎は常に反逆し、全てを焼き尽くそうとしているの」
右手を膝の上に戻すと、彼の瞳の奥を覗き込んだ。声を潜め、囁くように落とす。
「ゆえに、私の左目の光を代償として捧げなければならなかった。この瞳は、右腕から漏れ出す熱を抑え込むための『絶対封印』へと変貌したわ。もし、この抑止の布が取り払われ、封印が解かれれば……」
一呼吸おき、沈黙を支配させる。
「……右手の力は完全に暴走し、この世界は瞬く間に灰の海へと変わるでしょうね」
静寂。私は笑みの裏で息を止めた。膝の上の手には少し汗が滲んでいる。いつものような軽蔑の視線、呆れた溜息、あるいは嘲笑を待った。
けれど、湊は笑わなかった。
彼はじっと私を見つめていた。瞬きを一回、二回。彼の視線は一瞬、私の右手に落ち、それから左目の眼帯に戻った。
そして、彼は……真剣な顔で、ゆっくりと頷いた。
「なるほどな」
彼は顎に手を当て、まるで軍事戦略でも考えているかのような顔で低く呟いた。
「通りで、オーラが不安定なわけだ」
私の作った歪な笑みが、わずかに引き攣った。「え……?」
彼は私に向き直った。表情は穏やかなままだが、瞳には純粋な興味の光が宿っている。
「これだけ人が多い場所で、黒龍のような強力な存在を一人で抑え込み続けるのは、相当な精神集中が必要なんだろうな。右手の制御と左目の封印の維持、神経を二分しなきゃいけないんだから」
嘲笑っているようには、全く聞こえなかった。彼は平坦で、分析的なトーンで話していた。
「かなり疲れてるだろ、お前」
彼は無視されていた膝の上の冷たいボトルを拾い上げた。カチッと小さな音を立ててキャップを開けると、それを私に差し出した。
「これを使え。炎の龍の封印を安定させるには、物理的な冷却も重要なんだろ?」
唇の端がわずかに上がり、読み取れないような小さな笑みを浮かべた。
「顔の封印が熱くなりすぎて、龍を暴れさせるなよ、夏目さん」
私は絶句した。口をわずかに開けたまま、ボトルを受け取った。
彼は本当に受け入れた。それどころか、自分の理論で私の設定を拡張しやがった。
顔が熱くなる。いつものとは全く違う、気恥ずかしさが首筋までゆっくりと這い上がってきた。バカにされているからではなく、私のデタラメに、彼がひどく礼儀正しく、筋の通った反応を返したからだ。
ぎこちない動きで、ボトルの冷たい面を左の頬、眼帯のすぐ横に押し当てた。冷気がすぐに広がり、顔の熱を鎮めてくれる。
「……あ、ありがとう」
私は冷たいボトルの陰に顔の一部を隠すように、小さく呟いた。
また、風が吹いた。
「さてと」
湊は突然、膝を叩いて立ち上がった。軽く体を伸ばし、腕時計に目をやる。
「俺の監視任務は完了だ。どうやら今日の世界も、夏目さんの尽力のおかげで無事みたいだな」
彼は私を振り返り、またあの微かな笑みを浮かべた。
「行くよ。後の入学手続きの前に、済ませておきたい用事があるんだ」
「……行っちゃうの?」
思わず聞いてしまった。
普通、私に近づく人間はしつこく質問を繰り返すか、茶化すか、少なくとも何かを求めてくる。なのに彼はただやってきて、水をくれ、デタラメを聞き、そして去ろうとしている。
「当然だろ」
彼は気負わずに答え、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「それに、冥府の守護者には瞑想の場所が必要なんだろ? お前の集中を邪魔したくないしな」
一歩下がり、彼は背を向けた。
「また学校でな、夏目さん。封印、大事にしろよ」
彼は振り返らずに右手を振り、人混みの中を悠然と歩いていった。まるで一人で歩くことに慣れているかのように。
私はベンチに静かに座り、彼の背中が角を曲がって消えるまで見送った。頬には、まだ冷たいボトルの感覚がリアルに残っている。
「……変な人」
ぽつりと呟いた。
本当に、変わった人。
けれど不思議と、嫌な気分ではなかった。普通なら、私の設定を聞いた瞬間に一歩引くか、コソコソと囁き合うはずなのに。
あの男は、私の嘘を裁こうとせず、そのままにしておいてくれた。笑うことも、普通であることを強要することもしなかった。
「……」
ボトルを再び頬に押し当て、一瞬だけ目を閉じて、さっきよりもずっと軽い溜息をついた。
数分間、体が再び動かせるようになるまで静かに座っていた。湊くんがくれたボトルを、飲むつもりはないのにバッグの中にしまった。
木のベンチから腰を上げ、学園の中心へと歩き始めた。
周囲を見渡すと、目の前に壮麗な建物がそびえ立っている。中学の頃、担任の先生が「花弁学園は上空から見ると桜の花びらのようなデザインで設計されている」と言っていたのを思い出した。
それぞれの花びらが、異なる機能を持つ校舎を表している。その時は詳しい説明を聞かなかったが、その中心に立ってみると、ここがいかに広大で威圧的な場所であるかを実感させられる。
ここは、全く別の世界のように感じられた。
広い中庭を横切りながら、後で事務局で受け取らなければならない書類の山について考えた。再登録のフォーム、特待生の詳細、そして健康記録。
「健康」という言葉に、胃のあたりが少し疼いた。このようなエリート校は、身体検査の基準がひどく厳しい。
もし、まともな理由もなく片目が潰れ、傷だらけの体のままで入学しようとしたなら、面接の日にでも児童相談所に通報されていただろう。
けれど、現実に私は合格者としてここに立っている。全ては、計画された「書き込まれた嘘」のおかげだ。その嘘が作られた経緯を思い出すと、一ヶ月前の息の詰まるような夜へと引き戻される。
*
リビングではテレビが低く鳴り、母がスマートフォンの画面を叩く爪の音にかき消されていた。
彼女が私の存在に気づくまで、私はガラスのテーブルの側でかなりの間立っていた。けれど、彼女が一向に顔を上げないので、自分から沈黙を破るしかなかった。
「お母さん」
「何よ」
スマホの画面から目を離さずに、彼女は答えた。
「……診断書が、必要なんだけど」
彼女の指が止まった。顔を上げ、冷ややかに私を見た。
「何のために?」
「高校の願書に、添付するの」
母は鼻で笑い、胸の前で腕を組んだ。その視線が、値踏みするように私の体を上から下まで舐めるように走る。
「その胸の傷のため?」
私は喉のつかえを飲み込んだ。
「……そう。それと、目も」
彼女の眉が鋭く寄せられた。「はあ? 目がどうしたって言うのよ」
彼女は、これまでずっと無視してきた何かに今更気づいたかのように、じっと私の顔を凝視した。
「そういえば、家の中でもずっとその馬鹿げた眼帯をつけてるわね。左目、やられたの?」
声のトーンが上がる。その瞳には怒りの光が宿ったが、それは心配からくるものではなく、苛立ちからだった。彼女はあの時の自分の蹴りが私の目に当たったことを覚えていないのか、あるいはどうでもいいと思っているのか。
私はただ立ち尽くし、反論する勇気もなかった。
「ほら、それを外しなさい」
威圧的な命令。
私は一歩前に出た。体は強張っている。ゆっくりと手を上げ、左目の眼帯を外した。明るい場所でそれを外すのは、もう何ヶ月ぶりだろう。シャワーの時か、暗い部屋でしか外したことはなかった。
保護していた布が取り払われた瞬間、リビングのランプの光が熱い針のように私の瞳孔を貫いた。
反射的に顔を歪め、視線を落とす。
「目を開けなさいよ」
苛立たしげに彼女が吐き捨てた。
彼女はすぐに手を伸ばし、私の顎を強く掴むと、人差し指と親指で強引に左のまぶたをこじ開けた。
白い光が無慈悲に視神経を襲う。頭が激しくズキズキとし始めた。脳内に、二つの異なる、重なり合った映像が無理やり入り込んでくる。左目にはリビングの角が歪んで見え、右目にはそれが真っ直ぐに見える。吐き気が瞬時に胃を襲い、私は息を止めた。
母は私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……綺麗じゃない。出血してるわけでも、潰れてるわけでもないわ」
鋭く彼女は言った。顔を掴む力が強まる。
「注目を浴びたくて、私に嘘をついてるの?」
「……ちがう、お母さん」
声が苦痛で震える。
「嘘じゃない。左目でははっきり見えないの。全部がぼやけて、暗くて……両目を同時に開けると頭が痛くなって、視界が二重になるから真っ直ぐ歩けないの」
母はすぐには信じなかった。彼女にとって、血が出ない傷や外見を損なわない傷は、偽物の傷なのだ。
彼女は乱暴に私の顔を離した。脳が鮮明な画像と暗い画像を統合できず、視界がまだ回っていたため、私はバランスを崩しかけた。
「右目を閉じなさい」
突然の命令。
私はすぐに従い、右目を手のひらで覆った。
母が私の前、少し左側に手を上げた。
「指、何本立ててる?」
私は眩しさで涙がにじむ左目を細めた。ランプの光のせいで、彼女の手はかすかなシルエットにしか見えない。視界は厚い霧に覆われているようで、何本かの指を飲み込む暗い点(暗点)がある。形を判別することなんて、到底できなかった。
「……三本」
目の前のぼやけた形から推測して、おそるおそる答えた。
直後、硬い衝撃が額を直撃した。頭が後ろにのけぞり、体がよろめいて床に尻餅をついた。
「二本しか立ててないわよ、この役立たず!」
彼女が怒鳴った。
私はすぐに震える手で左目を覆い、右目だけでバランスを取り戻そうとした。
「……ああ、本当にいつも私を困らせて」
母は鼻の付け根を押さえながら、忌々しげにこぼした。
「少しは役に立つことはないの? これまでいくら金をかけてきたと思ってるのよ。よりによって左目をやられるなんて。そんなエリート校、健康診断で怪しまれないとでも思ってるわけ? 学校の医者が怪我の原因についてしつこく聞いてきて、私に迷惑をかけるに決まってるわ!」
私はただ頭を下げ、リビングに響き渡る彼女の罵声を聞いていた。
母は行ったり来たりしながら、小さく呟いていた。早口の独り言の中で、彼女は学園の身体検査の手順を呪い続けていた。私を学校医に引き渡すことは、彼女にとって明らかに選択肢になかった。
ふいに、彼女の足音が止まった。
唇の端が細い笑みに吊り上がる。その表情を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
母はすぐに携帯電話を掴んだ。指が素早く画面をスワイプし、連絡先からある名前を探し出すと、通話ボタンを押した。
電話がつながった瞬間、彼女のトーンは劇的に変化した。180度の転換だ。冷酷で荒々しい声は消え、ひどく柔らかく、甘く、そして偽りの絶望を孕んだ声に変わった。
「もしもし、小川先生? こんな夜分に申し訳ありません。私です……」
母は一呼吸おき、小さく、か弱い笑い声を漏らした。
「ええ、先生の助けが必要なんです。可哀想な娘のことで。あの時のキッチンの火災事故、覚えていらっしゃいますよね? あの時の火傷の跡がいまだに醜く残っていて……それに、その時のショックで目も光にひどく過敏になってしまって。学校に提出するための、包括的な診断書を書いていただけませんか?」
母はかなりの間沈黙し、電話の向こうの声を聴いていた。指はもどかしげにガラスのテーブルを叩いていたが、声だけは可能な限り自然を装っていた。
「クリニックの手順を軽んじられないことは、重々承知しております」
母は静かに言った。その声は、涙を堪えているかのようにわずかに震えている。
「でも、あの子、学校の先生に傷跡を見られたり、無理に眼帯を外されたりして、差別されるのを本当に怖がっているんです。あの事件以来、どれほど傷ついてきたか先生もご存知でしょう?」
その一方的な会話から、私はすぐに彼女の意図を理解した。事実を歪め、同情という武器で相手の弱点を突いている。熱いアイロンと彼女の蹴りによって作られた傷が、今や「悲劇的なキッチンの事故」へと塗り替えられていく。
テーブルを叩く音が、ゆっくりと止まった。唇の端が再び吊り上がる。
「本当ですか? ……ああ、神様。本当にありがとうございます、先生。来週、お礼に一杯ご馳走させてくださいね」
通話が終わった。
母の顔から甘い笑みが一瞬で消え、氷のような表情に戻る。彼女は床に座ったままの私を
冷たく見下ろした。
「全て手配したわ」
彼女は平坦に言った。
「一つの嘘で全てを覆い隠すのよ。医者は『重度のキッチン事故』という診断を書くことに同意したわ。明日の午後、身なりを整えて私と一緒にクリニックに来なさい。診断書に公印を押す前に、形式上の本人確認が必要だそうよ」
母は胸の前で腕を組み、満足げな視線で私を見た。
「その書類が、あなたの体の傷を説明し、目を保護するための医学的な理由になる。公式な文書があれば、学校側もそれ以上は突っ込んでこないわ」
母が一歩近づき、靴の先が私の膝のすぐ前で止まった。
「私のプライドを捨ててまで、あなたの障害の処理をしてあげたのよ」
彼女は低く、けれど脅すように囁いた。
「必ず合格して、特待生を勝ち取りなさい。もし失敗したら……」
言葉の先は紡がれなかったが、その沈黙が何を意味するか、私は痛いほどよく知っていた。
*
一団の生徒たちが私の側を走り抜けていく音で、私は現実に引き戻された。
無意識に、ジャケットの端を強く握りしめた。母の脅しが、今も耳の奥ではっきりと鳴り響いている。
あの偽の診断書が、面接の時に私を救ってくれた。試験官たちは私を、虐待ではなく事故の犠牲になった「哀れな少女」だと信じてくれた。そして今、少なくとも合格は手にした。
私は本館の左翼にある事務局へと足を早めた。そこには、再登録のための書類の山が私を待っている。承認フォーム、学用品の費用明細、そして特待生の規則。その全てに、保護者の法的署名が必要だ。
今夜、彼女に書類を渡した時に何が起こるか、正確に予想がついた。怒鳴り声、壊される家具、あるいは高額な制服代のせいでさらなる暴行を受けるかもしれない。この試験に受かったことは、単なる第一条件に過ぎず、自由を保証するものではなかった。
けれど、大丈夫。私は激しく打つ鼓動を抑え込み、強く唾を飲み込んだ。
この学園で生き延びさえすれば。この狂ったハーレム小説の物語の流れに乗り、エンディングに辿り着きさえすれば……そうすれば、前の世界に帰れる。
この全ての痛みには、必ず価値があるはずだ。
絶対に。
どうも……作者です。
学校の設定についてのリサーチに、かなりの時間を費やしました……。主人公(MC)の今のコンディションを考えると、入学させるのが難しすぎる設定になりそうだったので、あまり極端になりすぎないよう、少し基準を下げて調整しました。
それにしても、あの会話……。ひどくぎこちなくて、自分でも「なんて気まずいんだ」って思っちゃいました。まったくもう。
この物語はスローペースで進んでいくので……まあ、のんびりと楽しんでいただければ幸いです -, -
本当はもっと先まで書こうか迷ったのですが、これ以上書くとあまりに長くなりすぎるので……。今回はここで一旦区切ることにしました。




