第138話 聞けなかったこと、言えなかったこと
澪の背中が、朝の廊下を遠ざかっていく。
鞄も置かず、上履きの音を響かせて。
「さく――」
呼びかけて、俺は言葉を呑み込んだ。
廊下には、登校してきた生徒たちが、まだたくさんいる。
この状況で「桜井さん」と叫べば、どうなるか。ただでさえ熱愛報道とやらで注目を浴びている男が、朝の廊下で別の女子を追いかけて名前を叫ぶ。……構内新聞の号外が出る。確実に。
だから俺は、声の代わりに、足を速めた。
角を曲がる。澪のスカートの裾が、階段の上に消えるのが見えた。
二階。三階。
追いかけながら、頭の隅で考える。
――この先は、どこにも行けないはずだ。
三階の廊下を過ぎれば、あとは屋上へ続く階段しかない。そして屋上の手前には、あの『関係者以外立入禁止』の看板がある。
つまり、行き止まりだ。
……逃げた先が行き止まりだと、あいつは知っていたのだろうか。
それとも、行き先なんて、考えていなかったのか。
階段を、二段飛ばしで駆け上がる。
朝の陽が、踊り場の窓から差し込んで、埃をきらきらと光らせていた。
――いた。
屋上前の、最後の踊り場。
鉄のドアの手前、色あせたカラーコーンの脇に、澪は立っていた。
こちらに、背中を向けたまま。
肩が、小さく上下している。走ったせいだ。……たぶん、それだけじゃない。
「…………」
俺も、何も言えなかった。
言いたいことは、教室からここまでの間に、山ほど用意してきたはずだった。記事は誤解だとか、あれは事故だとか、写真はどうとか。
なのに、いざ本人の背中を前にすると、ぜんぶ、安っぽい言い訳みたいに思えて、口の中で溶けて消えた。
沈黙。
遠くで、誰かの笑い声。朝のホームルーム前の、平和な喧騒。
この踊り場だけが、世界から一段、切り離されたみたいに静かだった。
「……なんで」
先に口を開いたのは、俺だった。
「なんで、逃げるんだよ」
「……逃げてない」
澪は、背中を向けたまま言った。
「逃げてないもん」
「いま俺、一階から三階まで追いかけてきたんだぞ」
「……朝の、運動」
「嘘つけ」
我ながら、間の抜けたやり取りだった。
でも、その間の抜けたやり取りのおかげで、張り詰めていた何かが、少しだけゆるんだ。
澪の肩から、ふ、と力が抜けるのが見えた。
そして。
「……見たよ、記事」
ぽつり、と。
「うん」
「……写真も」
「うん」
「関山さんのこと、抱きとめてた」
「……あれは、自転車の練習中に、転びそうになったから――」
「知ってる」
澪は、俺の言葉を、静かに遮った。
「わかってるの。ぜんぶ」
ゆっくりと、こちらを振り向く。
その顔は、怒ってなかった。
泣いてもいなかった。
ただ――途方に暮れた子どもみたいな顔を、していた。
「記事が大げさなことも。あれが事故だってことも。関山さんが悪くないことも、大河くんが悪くないことも。……頭では、ぜんぶ、わかってるの」
朝の光の中で、澪の声は、少しかすれていた。
「わかってるのに。……写真を見たら、頭より先に、足が逃げてた」
「…………」
「変だよね。彼女なのに」
彼女なのに。
その言葉を、澪は自分で言って、自分で小さく笑った。ぜんぜん、笑えていない笑い方だった。
「……ねえ、大河くん。私ね、ほんとはね」
澪の両手が、胸の前で、きゅっと握られる。
「ずっと……聞けなかったの」
「……聞けなかった?」
「関山さんと、自転車の練習するって話。お昼に大河くんが来たとき、ほんとは『あの件ってなあに』って、笑って聞けばよかった。放課後だって、『私も見に行っていい?』って、言えばよかった。……言おうとしたんだよ? 何回も」
一気に言って、澪は、息を吸った。
「でも、聞けなかった。詮索してるみたいで、やきもち焼いてるみたいで、そんな自分が恥ずかしくて。……そうやって聞けないまま溜めてたら、どんどん、変な意地になっちゃって」
――ああ。
そういう、ことだったのか。
昼休みの、二度ほど低い笑顔も。
放課後の、つんと上がった顎も。
「一緒に教えないか」を断った、あの半歩遠い背中も。
怒っていたんじゃない。
聞けない自分と、ずっと戦っていたのだ。
「……だから、さっきも。教室で大河くんの顔見たら、聞けなかったことが、ぜんぶ一気に押し寄せてきて。どんな顔すればいいか、わからなくて。……気づいたら、走ってた」
澪は、うつむいた。
「……ごめんなさい。逃げたの、私」
言い終わって、しん、と静かになった。
窓の外で、雀が鳴いた。
――今度は、俺の番だった。
「……俺も、謝らないとな」
「え……?」
「俺は、逃げてないけど。……ずっと、言いそびれてた」
俺は、一歩、澪に近づいた。
「関山さんに自転車を教える話、ほんとは昼のうちに、俺の口から説明するつもりだった。そのたびに邪魔が入って、後回しにして。……挙げ句、記事で知られるとか、最悪だろ」
「それは、大河くんのせいじゃ……」
「いいや、俺のせいだ」
二日ぶんの言いそびれを、俺はようやく、口に出す。
「俺はいつも、一歩ずつ遅いんだ。言おうと思ったときに言わないから、そのたびに、お前に変な思いをさせる。……ごめん」
澪が、顔を上げた。
俺は、まっすぐその目を見て――確かめるように、周囲に人の気配がないことを確かめてから――言った。
「――澪」
「……っ」
名前を呼ばれた瞬間、澪の目が、わずかに見開かれた。
「記事がなんて書こうが、学校中がなんて騒ごうが、関係ない。……あの写真の男が、誰のことを好きか。それは世界中で俺が、いちばんよく知ってる」
「…………」
「だから、聞きたいことは、ぜんぶ聞いてくれ。詮索でもやきもちでも、なんでもいい。……俺はそのほうが、百倍うれしい」
言い切ってから、猛烈に恥ずかしくなった。
朝から、何を言っているんだ、俺は。
でも。
澪の目に、じわ、と何かが浮かんで。
こぼれる前に、澪はごしごしと手の甲でそれをぬぐって――笑った。
今度は、ちゃんとした、いつもの笑い方だった。
「……うん」
「おう」
「……うんっ」
二回目の「うん」は、少しだけ、鼻声だった。
キーンコーンカーンコーン♪
――と、そこで。
予鈴が、校舎中に鳴り響いた。
「「……あ」」
ホームルーム、五分前。
ここは、屋上前の踊り場。教室は、一階分下の、廊下の果て。
「や、やばい。走るぞ澪……じゃない、桜井さん!」
「切り替え、早すぎ……ふふっ」
澪が、吹き出した。
俺たちは階段を駆け下りる。二段飛ばしの俺の隣を、澪がスカートを押さえながら追ってくる。
「ね、大河くん」
「なんだよ」
「新聞部への対処、どうするの?」
「……これから考える。会長には、任せろって言っちまったし」
「ふふ。……じゃあ、一緒に考えよ」
「おう。――係の打ち合わせ、だな」
「うんっ。係の打ち合わせ」
いつかの帰り道と同じ言葉で、澪が笑った――そのときだった。
俺の足が、階段の途中で、止まった。
「……大河くん?」
係の、打ち合わせ。
……いや。
違う。違うだろ、俺。
俺はいつから、こんなにも「隠すこと」が、当たり前になっていたんだ。
教室では「桜井さん」。夜だけ「澪」。付き合っていることは、誰にも言わない。バレそうになったら、ごまかす。写真を撮られたら、火消しの算段をする。
こそこそ。こそこそ。こそこそ。
……そもそも。
そもそも、それが、ぜんぶの元凶だったんじゃないのか。
俺が最初から堂々としていれば――澪は、「聞けない」なんてひとりで思い詰めなくて、よかった。関山さんが、身に覚えのない記事に巻き込まれることも、なかった。
名前ひとつ、まともに呼べない俺が。
いちばん、間違っていたんじゃないのか。
「……なあ、澪」
「な、なあに」
「俺、間違ってたわ。……そもそもの、根っこから」
俺はポケットから、スマホを取り出した。
学校公式アプリを開く。
構内新聞の、すぐとなり。いつだったか稲葉が「使う日が来るかは、分かりませんが」と言いながら、しれっと実装していた、あの機能。
――校内ライブ配信。
「……大河くん? それ、なに……」
不安そうに画面を覗き込む澪に、俺は、言った。
「――緊急ライブ、やる」
「…………はいっ?」
澪の声が、裏返った。
「ら、ライブって……全校に、流れるやつだよ? 先生も、見られるんだよ?」
「おう」
「おう、って……な、なにを話す気?」
「誤報の訂正と――」
俺は、ひとつ息を吸って、言った。
「――俺たちのことを、ぜんぶ」
澪の目が、まん丸になった。
「……本気で、言ってる?」
「本気だ。……もう、こそこそするのは終わりにしたい。俺が名前も呼べないせいで、お前にも、関山さんにも、変な思いをさせた。だったら、いっそ――」
言いかけた俺の制服の袖を、澪が、きゅっとつまんだ。
俯いて、しばらく黙って。
それから、顔を上げた。
その目は――もう、途方に暮れてはいなかった。
「……わかった」
「いいのか? お前も、巻き込むことになるぞ」
「巻き込まれるんじゃないよ」
澪は、ふ、と笑った。
「……隣に、立つの」
――ああ。
この人を好きになって、よかったと、心から思った。
* * *
学校公式アプリ、校内ライブ配信。
この機能は、誰かが配信を始めると――生徒も、先生も、全員のスマホに通知が飛ぶ仕様になっている。
配信者の欄に「吉野大河(生徒会副会長)」と表示された、その瞬間。
朝の校舎の、あちこちで。
ぽこん。ぽこん。ぽこんぽこんぽこん――と、一斉に通知音が鳴った。
ポケットから。鞄から。机の中から。
みんながスマホを取り出して、画面に釘付けになる。隣の席の友達と、一つの画面を覗き込む者。廊下の真ん中で、自分のスマホを握りしめて立ち止まる者。
朝のホームルーム前の校舎が――まるごと、静止した。
――以下は、あとから皆に聞いた、そのときの校内の様子だ。
*
――一年二組。
「ね、なんか通知きたんだけど」
「緊急ライブ……? なにこれ、避難訓練?」
「配信者、吉野大河って……え、待って、記事の人じゃん!」
「例の熱愛の!?」
教室のあちこちでスマホが灯り、ホームルーム前の一年生たちが、いっせいに画面へ吸い込まれた。
*
――二年の廊下。
「せ、先輩っ!?」
陽菜は、スマホを両手で握りしめて、廊下の真ん中で立ち止まった。
周りの友達が「陽菜ちゃんの知り合いの人だ!」と群がってくる。
「な、なにする気ですか先輩……なにする気ですか……!」
*
――三年A組。
「おいおいおいおい」
橘が、スマホ片手に立ち上がった。
「あいつ、朝から何おっぱじめる気だ!?」
「わからん……わからんが、嫌な予感しかしないぞ……!」
深山が、頭を抱えてうめく。
その後ろで、彩花だけが、にまにまと笑いながら頬杖をついていた。
「……いいぞー、吉野くん。いっちゃえー」
*
――同じく三年A組、窓際の席。
稲葉は、無言でタブレットを立ち上げると、慣れた手つきで何かの画面を開いた。
「……サーバー負荷、監視します。落ちたら、洒落にならないので」
こういうときに、いちばん冷静な男である。
*
――職員室。
「よ、吉野くん!? なにを――ど、どうしてまた……っ」
笹沼先生は、モニターと入口を三往復ほど見比べたあと、机の引き出しから、そっと胃薬を取り出した。
*
そして――三年A組の、いちばん前の席。
霞汐乃は、読みかけの文庫本を、ぱたんと閉じた。
画面の中の俺を見て、目を細めて。
「……ふっ」
クスリと、笑ったという。
「派手にやるな、大河。――だが、嫌いじゃない」
* * *
――話を、踊り場に戻す。
スマホのインカメラに映る自分の顔は、我ながら、緊張で強張っていた。
視聴者数のカウンターが、ぐんぐん回っていく。二百、四百、六百――。
深呼吸、ひとつ。
「……えー。全校生徒の皆さん、おはようございます。朝の忙しい時間に、すみません。三年A組、生徒会副会長の、吉野大河です」
声が、少しだけ震えた。かまうものか。
「今朝の構内新聞の記事について、当事者として、直接お話しします。……歩きながら見てる人は、転ばないように気をつけてください」
我ながら、副会長っぽい注意書きだった。
「まず、結論から。あの記事は――誤報です」
一拍、置く。
「写真の場面は、自転車に乗れない同級生に、俺が乗り方を教えていたときのものです。練習中に転びそうになったのを、支えただけ。それ以上でも以下でもありません。……関山さんは、初めての自転車を、真剣に練習していただけです。あの人は、なにひとつ、悪くない。だから、これ以上、関山さんを騒ぎに巻き込むのは、やめてやってください。……お願いします」
カメラに向かって、頭を下げた。
顔を上げて、もうひとつ、息を吸う。
――ここからだ。
「そして……もうひとつ。こっちは訂正じゃなくて、報告です」
俺は、画面の外に立つ澪へ、目をやった。
澪は、胸の前で両手をぎゅっと握って――こくり、とうなずいた。
一歩。俺の隣に、入ってくる。
画面の中に、二人が並んだ。
全校の、何百という画面の中に。
「――俺、吉野大河は。三年A組の、桜井澪さんと、お付き合いしています」
言った。
言って、しまった。
「今回の記事で、隠してきたことが、いろんな人を傷つけると分かりました。だから、もう隠しません。……以上です。授業、頑張りましょう」
そして最後に、俺は、画面の中の彼女に向かって言った。
「――行こうぜ、澪」
「……うんっ」
配信終了のボタンを、押した。
* * *
その瞬間の校内の騒ぎは、もはや誰の証言もあてにならない。
一年の教室は絶叫で包まれ、二年の廊下では陽菜が「い、言っちゃった……先輩、ぜんぶ言っちゃった……!」と壁にもたれ、三年A組では橘が「あの野郎ぉぉ!」と笑いながら机を叩き、深山は「そんな……僕の妹の立場は……」と天を仰ぎ、彩花は立ち上がって一人で拍手をしていたという。
汐乃だけが、静かに文庫本を開き直して、こう呟いたそうだ。
「……ふふ。やはりお前は、面白い男だ」
* * *
踊り場には、朝の光と、俺たち二人だけが残った。
「……言っちゃったね」
「……言っちゃったな」
顔を見合わせる。
どちらからともなく、笑いが込み上げてきた。
こうして、俺たちの「熱愛報道」は――本人たちの手で、「熱愛宣言」に上書きされたのである。
――なお、その直後。
チャイムに遅れてホームルームへ滑り込んだ俺たちが、胃薬を握りしめた笹沼先生から、そろって特大の大目玉を食らったのは。
……言うまでもない。




