第137話 熱愛報道と、逃げた彼女
ふわ、と。
我ながら盛大なあくびが出た。
昨日は夜遅くまで、参考書と英単語帳に漬かっていた。受験生というものは、青春の合間に勉強をするのではなく、勉強の合間に青春をやるものらしい。誰だ、三年生を「最後の楽しい一年」とか言ったやつは。
寝ぼけた頭で校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替えて、廊下を歩く。
……と。
(………………ん?)
なんだろう。
視線を、感じる。
すれ違う生徒が、ちら、とこっちを見る。見て、隣の友達と、ひそひそやる。
くす、と笑い声。ざわ、と囁き。
視線なら、慣れたつもりだった。なにせ俺は「有名物件」である。廊下で下級生に囲まれて「きゃー」と言われる程度のことは、もう日常だ。
だが、今日のこれは――質が、違う。
好奇心に、もう一色。なんというか……「見ちゃいけないものを見てる」ときの、あの色が混ざっている。
(なんだ……? 寝癖か?)
髪を撫でつけながら、俺は教室の戸を開けた。
「おっ、来た来た」
開けた瞬間、橘が駆け寄ってきた。
そして開口一番、こう言った。
「おい、お前。……なんか面倒なことに、なってんな」
「……は?」
きょとん、である。
「面倒なことって、なんだよ。宿題なら出したぞ、俺は」
「そういうのじゃなくてだな――」
橘が言い終わる前に。
どん、と。
俺の両襟が、掴まれた。
「――きみはっ!」
深山だった。
眼鏡の奥の目が、燃えている。そのまま俺は、教室の壁際まで、ずずい、と押し込まれた。
「きみは、桜井さんというものがありながらっ……!」
「おいおいおい、ちょっと待て!? なんのことだよ、一体!」
桜井さんというもの、とは何だ。いや、心当たりは、ある。あるが、こいつが知っているはずは――。
混乱する俺と、鼻息の荒い深山の間に。
すっ、と。
白い手が、割り込んできた。
稲葉だった。
いつもの無表情のまま、いつものタブレットを、俺に差し出してくる。
「……見たほうが、早いです」
俺は、恐る恐る、画面を受け取った。
表示されていたのは、学校公式アプリ。
その中の――構内新聞のページだった。
うちの学校の新聞は、今年度から紙をやめて、アプリで配信されている。普段の記事は「購買に新メニュー」とか「図書室の開館時間変更」とか、そういう平和なやつだ。いいねは、ついても数件。コメントなんて、まず付かない。
――今日の一面は、違った。
『【特集】お堅い副会長の放課後は? 吉野大河(3年)と関山八重さん(3年)、人目を忍ぶ“自転車デート”を激写!』
いいね、二百十三件。
コメント、五十二件。
そして、見出しの下には――写真。
夕陽の駐輪場の裏で、倒れかけた八重を、俺が抱きとめている、あの瞬間の写真が。
……アングルも光も、悔しいくらいに、丁寧に撮れていた。
「――――」
血の気が、音を立てて引いていく。
あのときの「カシャ」。
気のせいじゃ、なかった。
「……記事は、昨夜の二十三時すぎに、投稿されています」
稲葉が、静かに言った。
「その直後に、ラインを、お送りしました」
……ライン?
慌てて、ポケットからスマホを引っぱり出す。
ロック画面に――通知が、あった。
『稲葉:構内新聞の最新記事を至急確認してください。対応の相談が必要です』
受信、昨夜の二十三時二十分。
……見て、いなかった。
昨日の俺は、スマホを机の引き出しに放り込んで、参考書に嚙りついていたのだ。単語帳と英文法のあいだを往復している間に、世界がこんなことになっているとも知らず。
「わ、悪い、稲葉……。ぜんぜん、気づかなかった」
「いえ。……既読が、つかなかったので。朝いちばんに、直接お見せしようと」
だからの、このタブレットか。
準備が、良すぎる。
「な? 面倒なことになってんだろ?」
橘が、他人事みたいに言った。他人事である。
記事の本文にも、目を通す。
『成績優秀、生徒会副会長、女子人気ランキング常連の吉野先輩。そのお相手は、なんと理事長のご令孫・関山八重さん! お二人は放課後、人気のない駐輪場の裏で、秘密の特訓デート。ラストは劇的な抱擁で――』
抱擁ではない。救助である。
コメント欄は、もっとひどかった。
『えー!? 吉野先輩って関山さんだったの!?』
『お似合いすぎるんだけど』
『駐輪場の裏とか、ガチじゃん』
『泣いた。ランキング一位とられた』
(違う。違うんだ、諸君……)
悪いことは、何ひとつ、していない。
していないのだが――迂闊だった。
人目がないと思っていた、あの場所。あそこは「人目がない」のではなく、「人目に気づけない」場所だったのだ。
そして、もうひとつ。
俺は、この記事を書いた「新聞部」のことを、よく知っていた。
――新聞部は、今年度、復活したばかりの部活だ。
二年のとき、俺たち生徒会は、校則の改革をやった。アルバイトの申請を緩めたのと同じ流れで、部活動の在り方も見直した。「全員強制」をやめて、作りたい部活を作りやすく、休んでいた部活を再開しやすく。
その一環で、長いこと休部していた新聞部に、復活の申請が出た。
審査をして、書類を確認して、活動再開を認めた。
……その申請書に、印鑑を押したのは。
生徒会副会長――俺、である。
(迂闊だった…………!)
自分で蒔いた種が、一年越しに、自分の顔面で花を咲かせている。しかも特大の。
がっくりと、うなだれたときだった。
ぱたん、と。
教室の隅で、静かに本の閉じる音がした。
汐乃だった。
文庫本を机に置いて、こちらへ歩いてくる。教室のざわめきが、少しだけ引いた。
そして俺の前に立つと、あの、いつもの余裕の微笑で言った。
「――ずいぶん騒がしいな、大河」
「ああ……。だな。……すまん」
「謝罪はいい」
汐乃は、ひらりと手を振って。
「事実がどうかは、聞くまでもない。……で、だ。どう対処するかは――任せていいな?」
試すような、それでいて、こちらを信じ切っている目だった。
会長サマは、こういうとき、絶対に「私がなんとかしてやる」とは言わない。
言わないことが、信頼なのだ。
「ああ……もちろん。悪いようにはしない。……ちょっと、考えるわ」
「うむ。期待している」
汐乃は、それだけ言って、席へ戻っていった。
……さて。
俺はもう一度、タブレットの画面を見下ろした。
いいねの数字が、見ている間に、また三つ増えた。
勉強漬けの、眠い朝のはずだった。
その眠気は、もう、どこにもない。
――受験生で、教育係で、生徒会役員で、彼氏。
そこにどうやら今日から、「熱愛報道の当事者」という肩書きが、増えたらしいのである。
と。
とん、と肩をつつかれた。
大島だった。
俺の耳元に、ひょいと顔を寄せて――まわりに聞こえない小さな声で、言った。
「……副会長さん。それも大事だけどさ」
「え?」
「その前に――“彼氏”って役割も、忘れちゃだめだよ?」
「――――」
心臓が、跳ねた。
こいつ、どこまで知って……いや。
今は、それよりも。
彼氏。
……そうだ。
この記事を見るのは、全校生徒だ。
当然――澪も。
顔を上げた、ちょうど、そのときだった。
がらり、と教室の戸が開いて。
澪が、入ってきた。
目が、合う。
澪は――一瞬で、バツの悪そうな顔になって、目をそらした。
(……もう、知ってるんだ)
直感で、わかった。
俺は鞄を自分の席に放ると、まっすぐ、澪のほうへ向かった。
「桜井さ――」
言い終わる前に。
澪は、くるりと踵を返して――教室から、出ていった。
いや。
出ていった、どころではない。
廊下を、走り出した。
「ちょ……っ」
逃げた!?
俺は慌てて、あとを追って廊下へ飛び出した。
朝の廊下を、澪の背中が遠ざかっていく。
――と、その途中。
「あ……」
向こうから歩いてきた八重と、すれ違った。
俺に気づいて、ぱっと表情を明るくして、両手を胸の前で合わせて。
「よ、吉野さん。昨日は、自転車の――」
「わりぃ、あとでっ!」
俺は、目もくれずに走り抜けた。
悪いとは思った。思ったが――今は、それどころではないのだ。
教室のざわめきが、背中で一段と大きくなった気がしたが――もう、知ったことか。
俺は、加速した。




