第136話 物語に載っていないこと
帰りのホームルームが終わると、教室は一気に放課後の顔になる。
部活へ走る者。だべり始める者。さっさと帰る者。
俺は鞄を肩にかけて、窓際の席へ向かった。
澪は、ちょうど帰り支度を終えたところだった。
「澪……じゃなくて、桜井さん。ちょっといいか」
あぶない。教室では「桜井さん」。三年生になっても、この切り替えには、いまだに神経を使う。
「ん。……なあに?」
「このあとの生徒会なんだけどさ。俺、少しだけ行くのが遅れるから。……よろしくな。すぐ戻るから」
「うん、わかった」
「汐乃……会長たちには、もう言ってある。それでその、遅れる理由なんだけどな。実は――」
「知ってるよ」
言いかけた言葉を、ぱしん、と遮られた。
「……え」
「関山さんから、聞いたから。お昼にね。……自転車、教えてあげるんでしょ?」
澪は、にこっと笑った。
笑ったのだが。
(……あれ?)
なんだろう。その笑顔の温度が、ほんの二度くらい、低い気がする。
「そ、そうか。……聞いてたのか」
まいったな、と思う。
昼休みからずっと、この件はちゃんと自分の口から説明しよう説明しようと思って、そのたびに邪魔が入って、結局――先を越された。
なんで俺は、こういうところで、いつも一歩遅いのか。
「あのさ」
俺は、ひとつ思いついて、言ってみた。
「よかったら……桜井さんも、一緒に教えてやらないか。ほら、その、女子同士のほうが、教えやすいこともあるだろうし」
我ながら、悪くない提案だと思った。
思ったのだが。
「わたしは、いい」
澪は、つん、と小さく顎を上げた。
「わたし、普段あまり自転車乗らないから。いいアドバイス、できないし」
「い、いや、乗れるだろ、別に上手い下手とかじゃなくてだな」
「それにね」
澪は、鞄の持ち手を、きゅっと握り直して。
「関山さんは、大河くんを頼ったんだから。ちゃんと教えてあげなきゃ、だめだよ」
「……まぁ、そうだな」
「うん。……じゃあ、生徒会室で待ってるね」
それだけ言って、澪は教室を出ていった。
俺は、その背中を見送りながら、首の後ろをかいた。
(…………なんか、変だったな?)
怒っている――わけでは、ないと思う。言っていることは、いつもどおり正しくて、優しい。
でも、なんというか。
いつもの澪より、半歩ぶんだけ、遠い。
その半歩の正体がわからないまま、俺の足は駐輪場へ向かっていた。
* * *
「――ご機嫌よう、吉野さん」
駐輪場の前で、八重は先に待っていた。
鞄を両手で前に持って、背筋をまっすぐ伸ばして。その立ち姿だけ見れば、これから自転車の練習をするとは誰も思うまい。お見合いでも始まりそうである。
「わりぃ、待たせたか」
「いいえ。わたくしが、早く参りすぎましたの。……その、楽しみで」
正直な人である。
俺は銀色の自転車を引き出すと、駐輪場の裏手へ回った。
校舎の陰になったこの一角は、部活の声も遠く、人通りがほとんどない。地面も平らで、初心者の練習にはちょうどいい。
……ついでに言えば、人目もない。
生徒会副会長が放課後に女子と自転車教室を開いているところなど、あまり大勢に見られたい光景ではないのだ。明日の廊下がまた騒がしくなる。
「さて、と」
俺は自転車を立てて、八重に向き直った。
「じゃあ、始めるか。……最初に言っとくけど、今日は乗れなくていいからな。今日の目標は、自転車と仲良くなるところまで」
「仲良く」
八重は、こくりと復唱した。
「はい。よろしくお願いいたします、先生」
「先生はやめろ」
こそばゆい。
* * *
練習は、スタンドの外し方から始まった。
「ここを足で、こう。後ろに蹴るんじゃなくて、押し下げる感じだ」
「……まあ。がしゃん、と申しましたわ」
「言ったな」
「物語では、皆さま、当たり前のようにお乗りになるのに……乗る前に、こんな儀式がありましたのね」
「儀式ではない」
次に、サドルの高さを下げた。両足のつま先が、ちゃんと地面に着く高さ。工具なしで回せるレバーを見て、八重はまた「まあ」と言った。いちいち感動してくれるので、教えるほうとしては張り合いがある。
「ブレーキは両手にひとつずつ。右が前輪、左が後輪だ。……前だけ強く握ると、前にすっ転ぶからな。かけるときは、両方いっしょ。ゆっくり」
「右が前。左が後ろ。……両方、ごいっしょに」
八重は、ハンドルを握って、ブレーキを何度もにぎにぎと確かめた。
「……吉野さん。物語には、ブレーキが左右に分かれていることは、書いてありませんでしたわ」
「そりゃそうだろうな」
「サドルの高さを変えられることも。スタンドの、がしゃんも」
八重は、なんだか嬉しそうに言った。
「リアルは……細部まで、できておりますのね」
(細部までできてる、って言い方があるか)
でも、言わんとすることは、少しわかる気がした。
物語は、大事なところしか書かない。ページをめくる間に、スタンドは外れているし、ブレーキは握られている。
この人は今、その「書かれていない行間」を、ひとつずつ拾って歩いているのだ。
* * *
「じゃあ……またがってみるか」
「はい」
八重がサドルにまたがる。スカートなので少し心配だったが、そこは育ちの良さというやつなのか、所作だけは妙に美しい。
問題は、その先だった。
「で、では……ペダルに、足を」
「おう。俺が後ろ押さえてるから、大丈夫だ」
俺は荷台をしっかりと掴んだ。
八重の足が、おそるおそるペダルに乗る。
ぐら。
「ひゃっ」
「大丈夫だ。倒れない。俺が持ってる」
「……は、はい」
「前見ろ、前。下見ると余計ふらつくぞ」
「前……はい、前ですわね……」
よちよちと、ペダルが半回転。また半回転。
俺は荷台を掴んだまま、隣を小走りでついていく。
三メートル。五メートル。
「お……いいぞ、その調子――」
言った矢先だった。
ハンドルが、ぐにゃりと内側に切れた。
「あっ」
俺は荷台を引いたが、勢いは殺しきれず――自転車はゆっくりと傾いて、八重は、ぽてん、と横の地面に転がった。
「関山さん!?」
慌てて自転車をどけて、覗き込む。
擦り傷はない。スカートも無事だ。よかった、地面が土で。
「わ、悪い。俺が支えきれなくて――」
謝りかけた俺の目に映ったのは。
地面にぺたんと座り込んだまま――目を、これ以上ないくらい輝かせている八重だった。
「……転びましたわ」
「え」
「吉野さん。わたくし、いま、転びましたわね?」
「あ、ああ。見事に」
「…………ふふ」
八重は、口元に手を当てて、本当に嬉しそうに笑った。
「物語の、通りですわ。皆さま、一度は転ぶものと、決まっておりますもの」
「喜ぶところか、そこは」
「はい。……これで、わたくしの自転車も、物語の通りに始まりましたわ」
スカートの土を丁寧に払って、八重はすっくと立ち上がる。
そして、倒れた自転車のハンドルを、自分から掴んだ。
「もう一度、お願いいたします」
その目は、大真面目だった。
……ああ、そうか。
この人は「転ばないこと」を目指してるんじゃない。
「転んでも、もう一度」の側を、最初からやる気なのだ。
「……よし。じゃあ、今度はもうちょっと長く支えててやるよ」
「ありがとう存じます」
* * *
それから、俺たちは何度も同じことを繰り返した。
またがって、漕いで、ふらついて、支えて。
二度目の転倒はなかった。代わりに、八重の漕げる距離が、少しずつ延びていった。
三十分もするころには、俺が荷台から手を離しても――ほんの数秒だけなら、一人で進めるようになっていた。
「――いま! いま、お離しになりましたでしょう!」
「お、わかったか」
「わかりますわ! 後ろが、ふっと軽く――ひゃあっ」
「喋ると落ちるぞ!」
夕方の風が、校舎の陰を抜けていく。
からから、と回る車輪の音。
よろよろと、それでも前へ進んでいく銀色の自転車と、真剣な横顔。
(……サマになってきたじゃないか)
誰にも見られたくない光景のはずだったのに、気づけば俺は、腕を組んで、ちょっとした達成感すら覚えていた。
教えるのは、思っていたより、悪くない。
――そのときだった。
「吉野さん! 見てくださいまし! いま、一人で、こんなに――」
調子に乗った八重の自転車が、ぐん、とスピードを上げた。
「おい、飛ばしすぎ――」
言い終わるより早く、前輪が小石に取られた。
ハンドルが大きくぶれる。車体が傾く。
――こっちに、倒れてくる。
「関山さんっ!」
考えるより先に、体が動いていた。
踏み込んで、倒れてくる自転車を左手で受け、投げ出される細い体を、右腕でまとめて抱きとめる。
どすん、と胸に衝撃。
土煙が、ふわりと舞って――止まった。
「……っぶねぇ……。大丈夫か、関山さん」
腕の中で、八重は目を丸くしたまま、固まっていた。
――カシャ。
……ん?
いま、何か聞こえなかったか。
小さく、乾いた、シャッター音のような――。
俺は顔を上げて、あたりを見回した。
校舎の角。駐輪場の屋根の向こう。植え込みの陰。
……誰も、いない。
部活の遠い掛け声と、風の音だけだ。
(……気のせい、か?)
「……あ、あの。吉野さん」
腕の中から、小さな声がした。
我に返る。俺はまだ、八重を抱きとめたままだった。
「わ、悪い!」
慌てて手を離して、一歩下がる。
「怪我は? どこも打ってないか」
「……は、はい。おかげさまで……どこも」
八重は、その場に立ったまま、動かなかった。
目を見開いて、俺を見上げたまま。
両手を、胸の前で、きゅっと握って。
「……関山さん?」
「…………これが」
「え?」
「……あの、小説で、読んだ……」
声が、途中で消えた。
「ん? なんか言ったか?」
「! ……い、いいえ。なんでも、ありませんわ」
八重は、ぱっと目をそらした。
……頬が、少し赤い。
まあ、夕陽のせいだろう。それか、転びかけて、驚いたか。
「悪かったな、目を離して。……もうちょっとゆっくりで――」
「きょ、今日は」
八重は、俺の言葉にかぶせるように、早口で言った。
「今日は……ここまでに、いたしますわ。その……じゅうぶん、練習、できましたので」
「お、おう。そうだな。暗くなる前がいい」
それから八重は、妙に静かだった。
自転車を押して駐輪場へ戻る間も、いつもの「物語では」が、一度も出てこない。ちらちらと、こちらを見ては、目が合いそうになると、そらす。
(……やっぱり、怖かったんだろうな。転びかけたの)
初日から飛ばしすぎた。教える側として、反省である。
「じゃあな、関山さん。……今日、初めてにしては、かなり乗れてたぞ」
「……ありがとう、存じます」
いつもより、すこし小さな声で、丁寧な一礼。
去っていくその背中を見送って、俺は生徒会室へと急いだ。
* * *
夕陽が、駐輪場の屋根を橙色に染めている。
物語に載っていないことを、今日、あの人はいくつも見つけた。
スタンドの音。ブレーキの左右。転んだ地面の近さと、立ち上がるときの土の匂い。
……そして俺はといえば。
「彼女の機嫌の直し方」という、どの物語にも載っていない難問を、ひとつ抱え込んだのだった。
――それと、もうひとつ。
あのとき聞こえた、かすかなシャッター音のような音。
あたりを見回しても、誰もいなかった。気のせいだと、思うことにした。
……あれは、いったい、なんだったのだろうか。




