第135話 モテ期・到来! ver.2
五時間目は、体育だった。
種目は、サッカー。
結果から言うと、三年A組男子の試合は、橘の独壇場だった。ドリブルで三人抜きを二回。ゴール前で無駄に髪をかき上げる余裕まであった。さすがはサッカー部のエース様である。
ちなみに俺は、一点も取っていないが、失点にも絡んでいない。攻めても守っても、可もなく不可もなく。
平均ど真ん中の男は、グラウンドの上でも平均ど真ん中なのだった。
「大河ー、俺、購買寄ってくわ。ハーフタイムに食うゼリー買っとくの忘れてた」
「試合、もう終わっただろ」
「心のハーフタイムだよ」
よくわからないことを言って、橘は階段の方へ消えていった。
……あいつ、屋上の“大事な話”はどうしたんだ。まったく切り出してくる気配がない。
まあいい。本人が「また今度」と言ったのだ。今度を待とう。
俺はタオルで首元を拭きながら、ぞろぞろと校舎へ戻る流れに乗った。
運動のあとの廊下は、少しだけ空気がぬるい。あちこちから「あー疲れた」「次なんだっけ」という声が上がって、上履きの音がぱたぱたと重なる。
と。
少し前を歩く、見慣れた後ろ姿が目に入った。
澪だ。
(……あ。そうだ)
昼休みの、あれ。
関山さんに駐輪場の件を伝えに行ったとき、俺は用件だけ言って、さっさと戻ってきてしまった。
別にやましいことは何もない。何もないが――あとから考えると、あの伝え方は、ちょっとだけ言葉が足りなかった気もする。
澪はきっと気にしていない。していないだろうが――関山さんに自転車を教えることになった経緯を、ちゃんと自分の口から、話しておきたかった。
幸い、次の授業まで、まだ時間はある。
俺は歩幅を広げて、澪の背中を追いかけ――
「せーんぱいっ!」
廊下に、よく通る声が響いた。
……この声は。
振り向くと、案の定だった。
明るい髪を揺らして、こちらにぱたぱたと駆け寄ってくる小柄な後輩。
深山、陽菜。
教科書と筆箱を胸に抱えているから、移動教室の途中らしい。
「や、やっぱり先輩だ! 後ろ姿でわかりましたよ、わたし」
「お、おう。……なんか用か」
「えー?」
陽菜は、ぷくっと頬をふくらませて、俺をじとーっと見上げた。
「用がないと、話しかけちゃだめなんですかー?」
「い、いや、だめとは言ってないけどな……」
だめとは言っていないが、こっちには追いかけたい背中があるのだ。
ちらりと廊下の先を見る。澪の姿は、人波の向こうで小さくなりつつあった。
(……まずい)
と、そこへ。
「あれー? 陽菜ちゃん、どうしたのー?」
「え、なになに?」
陽菜と同じ移動組らしい女子が、二人、三人と寄ってきた。
全員、上履きのラインが赤い。二年生だ。
「あっ、ほら、前に言ったでしょ? 吉野先輩!」
「えー! この人が!?」
(この人、とは)
女子たちの視線が、値踏みするみたいに俺に集まる。心なしか、目がきらきらしている。こわい。
「陽菜ちゃん、吉野先輩と仲いいの?」
「うんっ。お兄ちゃんがお世話になってるし、あと、アルバイト先も一緒なんだよね」
陽菜が、なぜか少し得意げに言った。
「えー、いいなー! 陽菜ちゃんって、あのコンビニでバイトしてるんだよねー」
「いーなー、あたしも入っちゃおうかなー、バイト」
「先輩って、生徒会の副会長さんですよね? このまえの全校集会で見ましたっ」
「お、おう……」
「勉強もすっごくできるって、お兄ちゃんが言ってた」
「陽菜ちゃんちのお兄ちゃん公認なんだ!」
「きゃー」
(きゃー、とは)
「ねえねえ先輩、彼女とか、いるんですかー?」
ぶふっ。
む、むせるところだった。
「い、いや、それは、その」
「こーら!」
俺が答えるより早く、なぜか陽菜が両手を広げて、俺と女子たちの間に割って入った。
「そういうのは、だめですー! そういうのは……その、ちょーさちゅうなので!」
「ちょうさちゅう?」
「な、なんでもないでーす! ほら、次いくよ次!」
(お前が一番あぶないんだよ)
た、たじたじである。
三対一。いや、陽菜を入れて四対一。逃げ場のない包囲網の中で、俺はあいまいな愛想笑いを浮かべることしかできない。
……どういうわけか。
成績が上がって、生徒会副会長なんてものになったあたりから、俺の扱いは、目に見えて変わった気がする。
同学年はもちろん、下級生からも、だ。
二年前――やさぐれていたころの俺は、廊下を歩けば人が避けていく側の人間だった。それが今や、廊下を歩けば後輩に呼び止められ、囲まれ、「きゃー」と言われている。
そういえば、最近は陽菜だけじゃない。他のクラスの、名前もよく知らない生徒から、こうやって話しかけられることが、ぽつぽつある。
ラインだって、そうだ。いつどこで交換したのかも思い出せない相手から、いきなり「勉強教えてください!」だの「生徒会って忙しいんですか?」だのとメッセージが届く。最近は。
ああいうのは、返信に困る。困った挙げ句に既読だけつけて放置してしまい、翌日の廊下で微妙に気まずくなるところまでが、様式美である。
……何なのだろうか、これは。
モテ期、というやつだろうか。
思い出すのは、去年のバレンタインだ。下駄箱と机の中がチョコレートで埋まった、あの悪夢のような一日。あのときの俺は、心の底から「モテ期・到来」だと浮かれかけて、そして学んだのだ。
――ああいうのは、大半が「話題の人を見に来ている」だけなのだと。
いや、違うな。今回のこれも、あれだ。動物園のパンダとか、駅前の顔ハメ看板とか、そういう「有名物件」の枠だ。たぶん。
モテているのは俺ではなく、「生徒会副会長で学年三位」という肩書きのほうである。
(世の中、変われば変わるもんだな……)
二年前、同じ廊下で避けられていた男が言うのだから、間違いない。
人生二度目の“モテ期らしきもの”に、しみじみとそんな感想を抱いていると。
「――あ、やばっ。移動、間に合わなくなるよ!」
「ほんとだ! じゃあね先輩、失礼しましたー!」
「またバイトで会いましょうね、先輩っ!」
嵐は、来たときと同じ速さで去っていった。
ぱたぱたと遠ざかっていく赤いラインの上履きたち。
廊下に残された俺は、ふう、と息を吐いて――
思い出した。
(……澪!)
慌てて廊下の先を見る。
……いない。
人波はすっかり流れて、あの見慣れた後ろ姿は、もうどこにもなかった。
「…………」
追いかけて教室まで行く時間は、もう、ない。
俺は肩を落として、とぼとぼと歩き出した。
(昼の件の説明は……まあ、いいか。今日中に、どこかで)
……いや、よくはないのかもしれないが。
窓の外に、目をやる。
五時間目のあとの陽射しが、校庭の隅の駐輪場を、白く照らしていた。
――放課後。
あそこで、箱入りのお嬢様に、人生初の自転車を教えることになっている。
小説の中でしか自転車を知らない人に、いったい何から教えればいいのか。
今朝の、ベルひとつで感動していたあの様子だと、たぶん、スタンドの外し方から教えることになる。サドルの高さも直してやらないとだし、ブレーキは右が前で左が後ろで……。
転ばないだろうか。いや、物語では「皆さま一度は転ぶもの」らしいから、本人はむしろ転ぶ気満々なのか。それはそれで困る。
(……なんで俺、ちょっと緊張してるんだ)
教えるのは、俺なのに。
次の授業のチャイムが、遠くで鳴った。




