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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第14章 三年A組の答え合わせ編

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第139話 青いベンチ

 その日の、夜である。


 学校中をひっくり返した男にも、バイトのシフトは平等にやってくる。


 夕方に一度家へ帰り、制服を着替え、いつも通りに裏口から入って、いつも通りにレジに立った。


 今日は熊野も陽菜もシフトのない、静かな夜番だ。


 客もまばらで、店内には控えめなBGMと、冷蔵ケースの低いうなりだけが流れている。


(……今朝のあれが、同じ日の出来事とは思えないな)


 全校生放送。熱愛宣言。笹沼先生の特大の大目玉。


 あれだけの騒ぎがあった日でも、夜のコンビニは、いつも通りだった。


 商品棚は今日も律儀に空くし、揚げ物のタイマーは今日も無愛想に鳴る。


 その「いつも通り」が、今日はやけに、ありがたかった。


 品出しの手を動かしながら――ふ、と。


 視線が、ガラスの外へ流れる。


 店先の白熱灯に、小さな虫が集まっている。


 駐車場には、仕事帰りのサラリーマンの車が停まっては、コーヒーやら弁当やらを提げて、また夜の道へ帰っていく。


 そして、その手前。


 誰も座っていない、青いベンチ。


(……癖に、なってるんだよな)


 去年の秋――あの人が、ふらりとこの店に現れるようになった夜からの、癖だ。


 品出しの手を止めるつもりはないのに、気づけば視線が、あのベンチへ吸い寄せられている。


 あそこに座る誰かさんを、目で探してしまう。


 ぶぶ、と。


 ポケットの中で、スマホが短く震えた。


『澪:終わるころ、いくね』


 ……ほらな。


 俺は口元がゆるむのを抑えながら、品出しに戻った。


 時計の針が、今夜はすこしだけ、遅く感じた。


 * * *


 シフトを終えたあと、私服に着替えた俺は、裏口から店の外に出た。


 ――いた。


 青いベンチに、澪が。


 春の夜風に、髪がゆれている。膝の上に両手をそろえて、店の看板の明かりを、ぼんやり見上げていた。


 今夜は、いつもの缶コーヒー二本持ちじゃない。


 手ぶらだ。


「……来てたのか」


「うん。ちょっと前にね」


 澪がこっちを向いて、ふわりと笑う。


「おつかれさま、大河くん」


「おう。……あ、ちょっと待ってて」


 言ってから、自分で気づいた。


(――同じ台詞だ)


 いつかの夜。初めて二人で夜の公園へ逃げ込んだとき。


 俺はたしかに同じことを言って、自販機に走った。


 あのころはまだ、彼女を「桜井さん」としか呼べなくて、隣に座る理由を探すだけで、精一杯だった。


 ~♪


 入店音に迎えられて、さっきまで店員だった店に、客として入る。


 いつもの棚から、SAKURA COFFEEのブラックを、二本。


 会計を済ませて、外に出る。


「はい」


「ありがと!」


 澪は左手で受け取って、それから、うれしそうに両手で包んだ。


 俺は、その隣に腰を下ろす。


 プシュ。


 プシュ。


 夜に、ふたつの音が続いた。


「あつっ」


「だね」


 顔を見合わせて、ちいさく笑う。


 それから、しばらく、どちらも喋らなかった。


 白熱灯のまわりを、虫がくるくる回っている。


 駐車場に軽トラックが一台入ってきて、五分もしないうちに、肉まんの袋を提げて夜の国道へ帰っていった。


 そういう、なんでもない夜の流れを、二人でただ眺めた。


 気まずさは、ひとつもない。


 沈黙が心地いい相手というのは、世界に、そう多くない。


「……ねぇ、大河くん」


 先に口を開いたのは、澪だった。


「今日の放送のこと、なんだけど」


「お、おう」


 缶を持つ手に、変な力が入る。


「全校の前で彼氏に名前を呼ばれた彼女って……たぶん、日本で私くらいだよ?」


「……ですよね」


「心の準備とか、あるじゃない。心臓、止まるかと思ったんだもん」


「悪かったって。……その、勢いというか、あれしか思いつかなくてだな」


「ふふ。怒ってないよ」


 澪は缶をひとくち傾けて、いたずらっぽく続けた。


「……実はね。あの配信、保存して、もう三回見たの」


「さ、三回!?」


「うん。寝る前にもう一回見るから、今日で四回目かな」


「消してくれ。頼むから」


「やだ。一生消さないもん」


 ……だめだ。この人には勝てない。


 俺は熱いのを我慢して、缶をあおって、ごまかした。


 苦い。


 苦くて――あたたかい。


 いつもの味が、今夜は、いつもよりすこしうまい。


「笹沼先生ね、放課後にまた胃薬飲んでたよ」


「俺のせいだな……。今度、なにか差し入れするわ」


「胃にやさしいやつにしてあげてね」


 そんな、どうでもいい話をしばらくした。


 どうでもいい話が、いつまでもできる。


 それがどれだけぜいたくなことか、俺はもう、知っている。


 と。


 澪が、ふいに声のトーンを落とした。


「……ね。ひとつだけ、さみしいこと言っていい?」


「なんだよ、改まって」


「名前のこと。――もう、“夜だけの特権”じゃなくなっちゃったね」


 ……ああ。


 いつかの夜、このベンチで彼女が言った言葉だ。


『夜だけの特権、だね』


 教室では呼べない名前を、夜のここでだけ、呼べた。


 あれはあれで、たしかに、特別だったのだ。


「そう思って、ちょっとだけ落ち込んだんだけどな」


 俺は、手の中の缶を見つめたまま言った。


「……特権なら、まだあるだろ」


「え?」


「バイト上がりに、ここで、こうやってきみとコーヒーを飲む時間。……これは、昼の学校じゃ、できない」


「――――」


「だから、その、なんだ。……特権は、名前じゃなくて、この時間のほうだったんだよ。たぶん、最初から」


 言い切ってから、猛烈に照れくさくなった。


 缶を、もうひとくち。熱い。


 澪はしばらく黙って、それから、噴き出すみたいに笑った。


「……なにそれ」


「わ、悪かったな」


「ううん」


 澪は首を振って、膝の上の缶を、両手でくるりと回した。


「じゃあ私、これからも夜のコンビニに通わなきゃね」


「……おう」


「常連さんだからね、私」


「知ってるよ。ブラックコーヒー一本。たまにシャー芯と、消しゴム」


「よく覚えてるね!?」


 覚えているに決まっている。


 こっちは半年以上、レジ越しに見てきたのだ。


 夜風が、少しだけ強く吹いた。


 澪の髪が流れて、ふわりと、シャンプーの匂いがした。


「……ねぇ。昔ここで、私が言ったこと、覚えてる?」


「どれだよ。いろいろ言われたぞ、俺は」


「ここに来ると――やっと呼吸できる気がするの、って」


「……覚えてるよ」


 忘れるはずがない。


 夜のベンチで、素顔の彼女が初めて見せてくれた、心の内側だった。


「あのころの私はね、ここが、逃げてくる場所だったの。息をしに来る場所。……でもね、今は違うの」


 澪は、缶を膝に置いて。


 まっすぐ、俺を見た。


「今は――会いに来る場所」


「――――」


 心臓が、跳ねた。


 ……この人は、たまに、とんでもない不意打ちを繰り出してくる。


 全校生放送より、よっぽど心臓に悪い。


「……そ、そうか」


「うん。……そうなの」


 どちらからともなく、視線が看板の明かりのほうへ逃げた。


 ベンチの上。


 缶を持っていないほうの手に、そっと、あたたかいものが重なった。


 細くて、すこしひんやりした指。


 俺は、何も言わずに、握り返した。


 教室では、まだできない。


 たぶん当分、できない。


 ……ここでなら、できるのだ。


 白熱灯。虫の羽音。遠くの国道を走っていく、トラックのエンジン音。


 なんでもない夜の音たちが、今夜だけは、ずいぶん上等なBGMに聞こえた。


 * * *


 ――そういえば。


 出会ったばかりのころ、彼女のベンチの滞在時間は、決まって十分ほどだった。


 ブラックコーヒーを一本。ベンチでひと息。空き缶を捨てて、夜の向こうへ帰っていく。


 その十分を、ガラス越しにこっそり眺めていたのが――俺たちの、始まりだった。


 今夜、隣の澪がスマホを見て「そろそろ帰らなきゃ」と立ち上がったとき。


 時計は、あの十分を、とっくに過ぎていた。


「送ってく」


「うん。……ふふ、ありがと」


 空き缶をふたつ、ゴミ箱に入れて、歩き出す。


 去り際、俺はふと振り返って、誰もいなくなった青いベンチを見た。


 塗装が、ところどころ、剥げてきている。


 彼女が一人でコーヒーを飲んでいたころも。


 初めて隣に座った夜も。


 缶を二本抱えて、俺を待ってくれるようになってからも。


 このベンチは、ずっと同じ場所で、同じ青のまま、俺たちを乗せてきた。


(……この青が、すっかり色あせるころ、俺たちは、どうなってるんだろうな)


 ――なんて。


 その答えを知っているのは、この話をしている今の俺だけの、特権である。


 春の月が、青いベンチを、静かに照らしていた。


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