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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第14章 三年A組の答え合わせ編

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第133話 私の大河くん

 翌朝。


 銀色の、ところどころ傷の入った自転車を漕いで、俺はいつもの通学路を走っていた。


 新学期、二週目。道沿いの桜はもうほとんど葉桜で、朝の風が、少しだけ初夏の匂いをまぜ始めている。


 校門の手前で自転車を降りて、押して歩く。


 と。


 背後から、静かなエンジン音が近づいてきた。


 振り返って、俺は思わず自転車ごと道の端に寄った。


 黒塗りの、やたらと車体の長い高級車。


 朝日を吸い込んで艶々と光るボディが、校門の真ん前に、音もなく滑り込んでいく。


(……出た)


 ここ一週間で、すっかりおなじみになった光景である。


 周りの生徒たちの歩みが、心なしか遅くなる。誰も足は止めない。止めはしないが、視線だけがちらちらと、磁石みたいに吸い寄せられていく。


「……見ろよ、例の」


「三年の転入生でしょ? 関山さん」


「理事長と同じ名字っていう……」


 ひそひそと、さざ波みたいな囁きが、朝の校門前を通り抜けていく。


 気持ちはわかる。


 なにせうちの学校の校門前が、朝の一分間だけ、高級ホテルのエントランスになるのだ。慣れる方がどうかしている。


 運転席から降りた白髪の運転手さんが、恭しく後部座席のドアを開ける。


 そして、その人は降りてくる。


 深々と一礼した運転手さんに、


「ありがとう存じます」


 と、朝から完璧なお辞儀を返して。


 関山八重。


 艶のある黒髪を朝日に光らせて、彼女は今日も、日本人形が制服を着て歩いているような佇まいで校門へ向かい——


 ふと、こちらに気づいた。


「まあ」


 ぱ、と表情が明るくなる。……いや、正確には、他人にはわからないくらいの、ほんの数ミリだけ。


 だけど昨日、屋上でさんざん話したせいだろうか。俺にはもう、その数ミリがわかるようになってしまった。


「ご機嫌よう、吉野さん」


「お、おう。……おはよう」


 しずしずと歩み寄ってくる八重。周囲の視線が、今度は俺に刺さる。おい見ろよ、話しかけられてるぞ。誰だあれ。三年の吉野。……なんで? という圧を、背中にびしびしと感じる。


(言いたいことは、わかるけどな……)


 俺だって半月前なら、同じ側から眺めていた自信がある。


 と、八重の足が、ぴたりと止まった。


 視線が、俺の手元に——正確には、俺が押している自転車に、釘付けになっている。


「……どうした?」


「そちらは」


 八重は、こくりと息を呑んだ。


「……自転車、ですのね」


「え? ああ、そうだけど」


 まじまじと見つめる目が、きらきらと輝いていく。


 昨日、屋上で焼きそばパンを両手で掲げたときと、まったく同じ目だった。


「……珍しいか? こんなの、そのへんにいくらでも転がって」


「初めて、間近で拝見いたしましたの」


 即答だった。


「……あの。吉野さん。こちら、お触りしても、よろしくて?」


「え? あ、ああ。どうぞ……?」


 八重は白い手を伸ばして、ハンドルの銀のベルに、そっと触れた。


 ちりん。


 小さな音が鳴った瞬間、八重の肩が、ぴくんと跳ねる。


「……鳴りましたわ」


「そりゃ、鳴るな。ベルだし」


「まあ……。これが、あの、“ちりんちりん”……」


 感動している。ベルで。


「小説の中では、何度も存じております。坂道を、風を切って下ったり。大切な人を乗せて、夜の道を走ったり。物語の登場人物は、皆さま当たり前のようにお乗りになるのに——わたくし、実物を……いえ」


 そこで八重は、昨日覚えたばかりの言葉に、丁寧に言い直した。


「“リアル”を、存じませんでしたの」


(乗り物を見る目じゃないんだよなあ、それは……)


 完全に、伝説の聖剣か何かを見る目である。


 俺は頬をかいた。


「……そんなにか」


「そんなに、ですわ」


「…………じゃあ、あれだ。今日の帰りにでも、ちょっと乗ってみるか」


 言った瞬間。


 八重のまとっていた「完璧なお嬢様」の空気が、ぱりん、と小さく音を立てて割れた気がした。


「——よろしいんですの!?」


 声が、半オクターブ高い。


「お、おう。校庭の隅とかでなら、練習くらいは」


「まあ……まあ、まあ……!」


 両手を口元で合わせて、八重はその場で、ほんの少しだけ爪先立ちになった。たぶん、本人は気づいていない。


「物語の、通りですわ……! ありがとう存じます、吉野さん。本日の放課後、楽しみにしておりますわね」


 すすす、と半歩、距離を詰めてくる。


 悪意も他意も、おそらく下心の“し”の字もない。ただ純粋に「約束を交わした相手」への信頼だけでできた、半歩だった。犬か猫だったら、しっぽの動きで丸わかりになっているところである。


「あ、ああ。……ほら、そろそろ予鈴だぞ」


「はい。参りましょう」


 俺と八重は、並んで校門をくぐった。


 背中の視線が二割増しになった気がしたのは、たぶん、気のせいではない。


 * * *


 ——校門の、少し手前。


 いつもより、ほんの少しだけ遅い朝だった。


 家を出るのが、五分だけ遅れて。いつもの角を曲がって。いつもの並木を抜けて。


 それだけの、なんでもない朝のはずだった。


 私は、足を止めたまま、動けずにいた。


 大河くんと、関山さん。


 二人が並んで、校門をくぐっていく。


 関山さんが、あの自転車を、宝物みたいに見つめていた。


 大河くんが、何か言って。


 関山さんが、ぱっと、花が咲くみたいに明るくなって。


 ……別に。


 別に、おかしなことなんて、何もない。


 同じクラスの子と、朝、挨拶をして、少し話した。それだけ。むしろ、いいことのはずだ。関山さんに、学校の話し相手が増えるのは、すごく、いいこと。


 昨日の帰り道、大河くん自身が言っていたことだ。『俺も関わってみるよ』って。私はそれを隣で聞いて、素敵だな、って思ったのに。


 思ったのに。


 胸の奥が、少しだけ、ざらり、とした。


(……なんだろう、これ)


 あの銀色の自転車の後ろに乗ったのは。


 夜の坂道を、しがみついて下ったのは。


 ——私、なのにな。


「うーん?」


 突然、真後ろから声がした。


「あの二人、いいかんじー?」


「っ!?」


 振り向くと、通学鞄を肩にかけた彩ちゃん——大島彩花が、にまにまと笑いながら立っていた。


「あ、彩ちゃん!? お、おはよう……」


「おっはよー、澪っち。……で?」


「で、って?」


「『私の吉野くんをとらないでー』って、顔に書いてあるけどぉ?」


「なっ……」


 心臓が、口から飛び出すかと思った。


「な、なに言ってるの!? わ、私はそんな……」


「隠せてると、思ってるのー?」


「……………………ええ!?」


 彩ちゃんは、鞄をゆらゆら揺らしながら、こともなげに続けた。


「やー、だってさぁ。二年の終わりごろから、なーんか吉野くんと澪っち、空気ちがうよねーって、女子の間ではちょいちょい話題よ? 放課後もよく一緒だしさぁ。この前なんて、帰り道──」


「わー! わー!!」


「あはは。べつに責めてないってぇ」


 彩ちゃんは笑って、それから、ちょっとだけ声のトーンを落とした。


「……ま、確信もってるのは、たぶんあたしくらいだけどね。みんなは『ありそうだよねぇ』って勝手に盛り上がってるだけ。安心して、言いふらしたりしないから。……それよりも、さ」


 にっ、と。


 朝日みたいに、屈託なく笑って。


「——おめでとっ」


「〜〜〜〜っ!」


 顔が、燃えるように熱くなった。


 肯定も、否定も、できなかった。


 ……できなかった時点で、たぶん、答えみたいなものだった。


「も、もう……彩ちゃんには、かなわないなぁ……」


「えっへん。……あ、それとね。関山さんのことなら、あたしの見立てでは心配いらないと思うよ?」


「え?」


「あの子が吉野くんを見る目、恋してる目じゃないもん。あれは——なんていうか、図鑑で新種を見つけた学者さんの目」


「……ふふ。なにそれ」


 思わず、笑ってしまった。


 ざらりとしていた胸の奥が、少しだけ、ほどける。


 キーンコーンカーンコーン♪


 予鈴が鳴った。


「ほら、いこ、澪っち!」


「うんっ」


 私は彩ちゃんと並んで、駆け出した。


 校門の先、昇降口へ続く道に、朝の光が長く伸びている。


 その光の先を、大河くんと、関山さんが歩いていく。


 ……胸のもやもやの名前は、まだ、わからないけれど。


 おめでとう、って言われたこと。


 それだけは——ほんのちょっとだけ、ううん。


 けっこう、嬉しかった。


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