第133話 私の大河くん
翌朝。
銀色の、ところどころ傷の入った自転車を漕いで、俺はいつもの通学路を走っていた。
新学期、二週目。道沿いの桜はもうほとんど葉桜で、朝の風が、少しだけ初夏の匂いをまぜ始めている。
校門の手前で自転車を降りて、押して歩く。
と。
背後から、静かなエンジン音が近づいてきた。
振り返って、俺は思わず自転車ごと道の端に寄った。
黒塗りの、やたらと車体の長い高級車。
朝日を吸い込んで艶々と光るボディが、校門の真ん前に、音もなく滑り込んでいく。
(……出た)
ここ一週間で、すっかりおなじみになった光景である。
周りの生徒たちの歩みが、心なしか遅くなる。誰も足は止めない。止めはしないが、視線だけがちらちらと、磁石みたいに吸い寄せられていく。
「……見ろよ、例の」
「三年の転入生でしょ? 関山さん」
「理事長と同じ名字っていう……」
ひそひそと、さざ波みたいな囁きが、朝の校門前を通り抜けていく。
気持ちはわかる。
なにせうちの学校の校門前が、朝の一分間だけ、高級ホテルのエントランスになるのだ。慣れる方がどうかしている。
運転席から降りた白髪の運転手さんが、恭しく後部座席のドアを開ける。
そして、その人は降りてくる。
深々と一礼した運転手さんに、
「ありがとう存じます」
と、朝から完璧なお辞儀を返して。
関山八重。
艶のある黒髪を朝日に光らせて、彼女は今日も、日本人形が制服を着て歩いているような佇まいで校門へ向かい——
ふと、こちらに気づいた。
「まあ」
ぱ、と表情が明るくなる。……いや、正確には、他人にはわからないくらいの、ほんの数ミリだけ。
だけど昨日、屋上でさんざん話したせいだろうか。俺にはもう、その数ミリがわかるようになってしまった。
「ご機嫌よう、吉野さん」
「お、おう。……おはよう」
しずしずと歩み寄ってくる八重。周囲の視線が、今度は俺に刺さる。おい見ろよ、話しかけられてるぞ。誰だあれ。三年の吉野。……なんで? という圧を、背中にびしびしと感じる。
(言いたいことは、わかるけどな……)
俺だって半月前なら、同じ側から眺めていた自信がある。
と、八重の足が、ぴたりと止まった。
視線が、俺の手元に——正確には、俺が押している自転車に、釘付けになっている。
「……どうした?」
「そちらは」
八重は、こくりと息を呑んだ。
「……自転車、ですのね」
「え? ああ、そうだけど」
まじまじと見つめる目が、きらきらと輝いていく。
昨日、屋上で焼きそばパンを両手で掲げたときと、まったく同じ目だった。
「……珍しいか? こんなの、そのへんにいくらでも転がって」
「初めて、間近で拝見いたしましたの」
即答だった。
「……あの。吉野さん。こちら、お触りしても、よろしくて?」
「え? あ、ああ。どうぞ……?」
八重は白い手を伸ばして、ハンドルの銀のベルに、そっと触れた。
ちりん。
小さな音が鳴った瞬間、八重の肩が、ぴくんと跳ねる。
「……鳴りましたわ」
「そりゃ、鳴るな。ベルだし」
「まあ……。これが、あの、“ちりんちりん”……」
感動している。ベルで。
「小説の中では、何度も存じております。坂道を、風を切って下ったり。大切な人を乗せて、夜の道を走ったり。物語の登場人物は、皆さま当たり前のようにお乗りになるのに——わたくし、実物を……いえ」
そこで八重は、昨日覚えたばかりの言葉に、丁寧に言い直した。
「“リアル”を、存じませんでしたの」
(乗り物を見る目じゃないんだよなあ、それは……)
完全に、伝説の聖剣か何かを見る目である。
俺は頬をかいた。
「……そんなにか」
「そんなに、ですわ」
「…………じゃあ、あれだ。今日の帰りにでも、ちょっと乗ってみるか」
言った瞬間。
八重のまとっていた「完璧なお嬢様」の空気が、ぱりん、と小さく音を立てて割れた気がした。
「——よろしいんですの!?」
声が、半オクターブ高い。
「お、おう。校庭の隅とかでなら、練習くらいは」
「まあ……まあ、まあ……!」
両手を口元で合わせて、八重はその場で、ほんの少しだけ爪先立ちになった。たぶん、本人は気づいていない。
「物語の、通りですわ……! ありがとう存じます、吉野さん。本日の放課後、楽しみにしておりますわね」
すすす、と半歩、距離を詰めてくる。
悪意も他意も、おそらく下心の“し”の字もない。ただ純粋に「約束を交わした相手」への信頼だけでできた、半歩だった。犬か猫だったら、しっぽの動きで丸わかりになっているところである。
「あ、ああ。……ほら、そろそろ予鈴だぞ」
「はい。参りましょう」
俺と八重は、並んで校門をくぐった。
背中の視線が二割増しになった気がしたのは、たぶん、気のせいではない。
* * *
——校門の、少し手前。
いつもより、ほんの少しだけ遅い朝だった。
家を出るのが、五分だけ遅れて。いつもの角を曲がって。いつもの並木を抜けて。
それだけの、なんでもない朝のはずだった。
私は、足を止めたまま、動けずにいた。
大河くんと、関山さん。
二人が並んで、校門をくぐっていく。
関山さんが、あの自転車を、宝物みたいに見つめていた。
大河くんが、何か言って。
関山さんが、ぱっと、花が咲くみたいに明るくなって。
……別に。
別に、おかしなことなんて、何もない。
同じクラスの子と、朝、挨拶をして、少し話した。それだけ。むしろ、いいことのはずだ。関山さんに、学校の話し相手が増えるのは、すごく、いいこと。
昨日の帰り道、大河くん自身が言っていたことだ。『俺も関わってみるよ』って。私はそれを隣で聞いて、素敵だな、って思ったのに。
思ったのに。
胸の奥が、少しだけ、ざらり、とした。
(……なんだろう、これ)
あの銀色の自転車の後ろに乗ったのは。
夜の坂道を、しがみついて下ったのは。
——私、なのにな。
「うーん?」
突然、真後ろから声がした。
「あの二人、いいかんじー?」
「っ!?」
振り向くと、通学鞄を肩にかけた彩ちゃん——大島彩花が、にまにまと笑いながら立っていた。
「あ、彩ちゃん!? お、おはよう……」
「おっはよー、澪っち。……で?」
「で、って?」
「『私の吉野くんをとらないでー』って、顔に書いてあるけどぉ?」
「なっ……」
心臓が、口から飛び出すかと思った。
「な、なに言ってるの!? わ、私はそんな……」
「隠せてると、思ってるのー?」
「……………………ええ!?」
彩ちゃんは、鞄をゆらゆら揺らしながら、こともなげに続けた。
「やー、だってさぁ。二年の終わりごろから、なーんか吉野くんと澪っち、空気ちがうよねーって、女子の間ではちょいちょい話題よ? 放課後もよく一緒だしさぁ。この前なんて、帰り道──」
「わー! わー!!」
「あはは。べつに責めてないってぇ」
彩ちゃんは笑って、それから、ちょっとだけ声のトーンを落とした。
「……ま、確信もってるのは、たぶんあたしくらいだけどね。みんなは『ありそうだよねぇ』って勝手に盛り上がってるだけ。安心して、言いふらしたりしないから。……それよりも、さ」
にっ、と。
朝日みたいに、屈託なく笑って。
「——おめでとっ」
「〜〜〜〜っ!」
顔が、燃えるように熱くなった。
肯定も、否定も、できなかった。
……できなかった時点で、たぶん、答えみたいなものだった。
「も、もう……彩ちゃんには、かなわないなぁ……」
「えっへん。……あ、それとね。関山さんのことなら、あたしの見立てでは心配いらないと思うよ?」
「え?」
「あの子が吉野くんを見る目、恋してる目じゃないもん。あれは——なんていうか、図鑑で新種を見つけた学者さんの目」
「……ふふ。なにそれ」
思わず、笑ってしまった。
ざらりとしていた胸の奥が、少しだけ、ほどける。
キーンコーンカーンコーン♪
予鈴が鳴った。
「ほら、いこ、澪っち!」
「うんっ」
私は彩ちゃんと並んで、駆け出した。
校門の先、昇降口へ続く道に、朝の光が長く伸びている。
その光の先を、大河くんと、関山さんが歩いていく。
……胸のもやもやの名前は、まだ、わからないけれど。
おめでとう、って言われたこと。
それだけは——ほんのちょっとだけ、ううん。
けっこう、嬉しかった。




