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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第14章 三年A組の答え合わせ編

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第132話 絶対守護聖域・屋上 ver.2

 キーンコーンカーンコーン♪


 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、教室が一斉に動き出した。


 机を寄せる音。弁当の包みを開く音。購買へ走る足音。


 新学期も、二週目に入った。


 相変わらず、なにもかもが新しい毎日だけれど――昼休みの騒がしさだけは、去年と同じだ。


 と。


 真後ろの席から、ひょいと肩を叩かれた。


「わりぃ、大河。ちょっといいか」


 橘だった。


(……ん?)


 様子が、少しおかしい。


 いつもの、へらへらとした軽さがない。


「昼休み、屋上まで来てくれね? ……大事な話が、あんだよ」


「屋上って、お前……あそこ、立ち入り禁止だろ」


「そこを頼む。……人に聞かれたくない話なんだ」


 真顔だった。


 あの橘が、真顔である。


(なんだよ、改まって……)


 部活のことか。進路のことか。それとも、なにか厄介ごとか。


「……わかったよ。先に行ってる」


「おう。俺は購買寄ってから行くわ。すぐ追いつく」


 そう言って、橘は昼休みの人混みへと消えていった。


 * * *


 ――と、いうわけで。


 教室で弁当を五分でかき込んだ俺は、屋上へと続く階段を上っている。


 最後の踊り場。その先の鉄のドアの前には、見慣れた看板が立っていた。


『関係者以外立入禁止』


 その脇には、色あせたカラーコーン。


(……久しぶりだな、ここも)


 この扉を開けるのは、期末テストのあと――汐乃とここで話したとき以来だ。


 考え事があるとき、よくここへ来るという、生徒会長サマの“絶対守護聖域”。


 ……あの人は今、あのときよりずっと重いものを、一人で抱えているけれど。


(――いや。その話は、今はやめとこう)


 ギィ。


 鉄のドアを押し開けると、春の光が目に飛び込んできた。


 一面の、青い空。


 フェンスの向こうを、鳥が二羽、横切っていく。


 校庭からは、昼休みの賑やかな声が、風に乗ってここまで届いていた。


 そして屋上の隅には、古びたベンチがひとつ、ぽつんと置かれている。


 いつの時代からあるのか知らないが、塗装の剥げた、味のあるやつだ。


 俺はそこに腰を下ろすと、廊下の自販機で買っておいた缶コーヒーを取り出した。


 プシュ。


 ブラック。砂糖もミルクも、なし。


 一口。


(……うまい)


 春の風と、ほろ苦さ。


 なんだかんだ言って、ここは俺にとっても、昔から落ち着く場所なのだ。


 ……まあ。生徒会副会長がこんなところで油を売っているのを、あまり他人には見られたくないけれど。


(で……橘のやつ、遅いな)


 “大事な話”とやらは、一体なんなのか。


 あいつがあんな顔をするのは、珍しい。


 ……それにしても。


 こうして一人でここにいると、思い出すことがある。


 当時はさんざんな毎日のつもりだったのに――今思えば、不思議と、いい思い出ばかりだ。


 ――一年の頃。


 やさぐれていた俺は、教室に居場所がなくて、しょっちゅうこの屋上へ逃げ込んでいた。


 授業をサボって、フェンスにもたれて、ただぼんやりと空を見ていた。


 誰も来ないこの場所だけが、あの頃の俺の“避難所”だったのだ。


 ……そういえば。


 橘と初めてまともに口をきいたのも、ここだった。


 いや。……口をきいた、というか。


 喧嘩した、というか。


 サボりの常習犯だった俺を、同じクラスだったあいつは、なぜか探しに来たのだ。


『おいおい。また屋上かよ、吉野。お前、皆勤賞ならぬ皆サボ賞だな』


 へらへら笑うあいつに、俺は「ほっとけよ」と凄んで、胸ぐらまで掴んだ。


 でも、あいつは引かなかった。


 へらへらしたまま、こう言ったのだ。


『……お前さ。教室で見るより、ここで見るほうが、よっぽど人間らしいな』


 ――あのへらへらの下にそういう目があることを、俺はあのとき、初めて知った。


 それから、この場所にはもう一人、よく来る人がいた。


『またお前か、吉野』


 当時の生徒会長――河津さん。


 サボっている俺を見つけるたび、あの人は怒るでもなく、隣のフェンスにもたれて、よく分からない話だけして帰っていく。


 俺にコンビニのバイトを勧めたのも、あの人だ。


 そして、卒業を控えたある日。


 あの人は去り際に、ぽつりと、こう言った。


『……惜しいな。お前が今、二年だったなら――生徒会に、誘っていたんだがな』


 当時の俺は、鼻で笑った。


 俺が生徒会なんて、冗談も休み休み言え、と。


 ――それが、どうだ。


 あれから二年。


 俺は今、その生徒会の副会長を、やっている。


 ……人生というのは、本当に、何がどうなるか分からない。


 懐かしさに苦笑しながら、缶コーヒーをもう一口。


 ……と。


 背後で、ギィ、と音がした。


(お、来たか)


「おせーぞ、橘。購買、そんなに混んで――」


 振り返った俺は、そのまま固まった。


 鉄のドアの前に立っていたのは、橘では、なかった。


 背筋のまっすぐ伸びた、細い立ち姿。


 春の風になびく、艶のある黒髪。


 ――関山、八重。


「……ご機嫌よう、吉野様」


「ど、どうしたんだ、関山さん!?」


 思わず、立ち上がっていた。


(な、なんでこの人がここに!?)


 教室の窓際の一番後ろにいるはずの日本人形が、なぜか、立ち入り禁止の屋上に立っている。


 しかも。


「い、いま、俺のこと“様”って……」


「あら。お気に召しませんでした?」


「召すとか召さないとかじゃなくてだな……。その、くすぐったいというか。……普通に“さん”でいいよ」


「まあ。……では」


 彼女はひとつ、丁寧にうなずいて。


「――吉野さん、と」


 言い直した。


(よ、よし……)


 クラスメイトに“様”を付けられる生活は、俺の心臓がもたない。


「そ、それで、どうしたんだよ、こんなところで。ここ、一応、立ち入り禁止だぞ?」


 俺が階段の方を指差すと、彼女はこくりとうなずいた。


「存じておりますわ。……階段の下の、あの看板でしょう?」


「知ってて来たのかよ」


「はい」


 悪びれる様子は、まったくない。


 それどころか、彼女はどこか誇らしげに、胸の前で小さく両手を合わせた。


「一度――“経験”として、参ってみたかったんですの」


「……経験?」


「はい。……立ち入り禁止の屋上、ですわ」


(……???)


 立ち入り禁止の屋上を、経験してみたかった。


 ……どういうことだ。


 箱入りお嬢様の考えることは、平均ど真ん中の俺には、さっぱりわからない。


 そんな俺の顔を見て、彼女は種明かしのように、続けた。


「小説の中で、よく登場いたしますから」


「…………小説?」


「はい」


 風が、屋上を吹き抜けた。


 乱れる黒髪を押さえながら、関山さんは、静かに言った。


「学校の物語には、必ずと言っていいほど、屋上が登場いたしますのよ。……お昼を召し上がる場面。フェンス越しに、大声で叫ぶ場面。それから――」


 そこで彼女は、ほんの少しだけ言葉を止めて。


「……いえ。それは、よろしいですわ」


(何だよ。気になるな!?)


 ――まあ、いい。


 それより俺には、確かめたいことができていた。


「関山さん。もしかして……本、読むのか?」


「はい」


 彼女は、こくりとうなずいた。


 そして。


 あの感情の読めない静かな瞳の奥に、初めて見る色が、ふわりと灯った。


「わたくし――小説が、大好きですの」


 * * *


 それから、彼女は語った。


 いつもの、抑えた静かな声のまま。


 ただ、言葉の数だけが、どんどん増えていった。


 関山の家は、厳しかったこと。


 お勉強に関係のない本は、読ませてもらえなかったこと。


 ――でも。週に何度か、家庭教師の先生と通う私立図書館だけは、別だったこと。


「あそこでは、頁をめくってさえいれば、皆さま“お勉強”だと思ってくださいますの」


 彼女は、いたずらを打ち明ける子どもみたいに、少しだけ声をひそめた。


「参考書の陰に隠して、こっそり。……恋愛小説も、探偵小説も、ファンタジーも。ぜんぶ、あの図書館で読みましたわ」


「……こっそり、って」


「わたくしの、人生で初めての“秘密”ですわ」


(いま俺に言っちゃってるけどな、その秘密)


 なんでもできて、なにも知らないお嬢様は。


 図書館の机の隅で、勉強するふりをして、物語の世界を旅していたらしい。


 学校というものも、ぜんぶ、そこで知ったのだという。


「時間割も。購買も。屋上も。……“お友達”というものも。ぜんぶ、本の頁の中で、先に出会いましたの」


「……そう、だったのか」


「ですからわたくし、学校のことでしたら、なんでも存じておりますのよ」


 彼女は、少しだけ得意げに言った。


「……その割に、握力測定も合唱も“さんざん”だったけどな。テストも、最後まで終わってないらしいし」


 つい、くすりと皮肉るように笑ってしまった。


 ――言ってから、我に返る。


(……おっと)


 いくらなんでも、今のは意地が悪かったか。


 気を悪くしていないかと、慌てて彼女の顔を見ると――。


 彼女は。


 目を、きらきらと輝かせて、楽しそうにしていた。


「……え」


 怒って、いない。


 どころか、なんだか、嬉しそうですらある。


(……どういうことだ?)


 俺には、さっぱり分からなかった。


「……ふふ」


「か、関山さん?」


「いいえ。……なんでも、ありませんわ」


 ――ともあれ。


 彼女が本の虫だと知って、合点がいったことが、ひとつある。


 あの、妙に古風な言葉遣いだ。


「なあ。もしかしてなんだけど……“ありがとう存じます”ってのも、小説か?」


「はい。古い時代の物語に出てくる、ご挨拶ですわ」


 彼女は、こともなげに言った。


「初めて読んだとき、なんて美しい言葉だろうと思いましたの。ありがとう、存じます。……感謝を、心から“存じ上げる”んですのよ。素敵でしょう?」


「……はは。そっか」


 教室じゅうが戸惑っていた、あの挨拶は。


 彼女が本の中から大切に持ってきた、宝物だったらしい。


(……なんか、笑えなくなってきたな)


 なんでもできるのに、なにも知らない人。


 その“なんでも”の出どころは、図書館の机の隅で、参考書の陰に隠れて読んだ――物語たちだったのだ。


 厳しい家に育った女の子の、世界への、たったひとつの窓。


 ……きっと、友達でも、あったんだろう。


 ふと、彼女の手元に目がいった。


 小さな包みを、両手で大事そうに抱えている。


 ……あれは、購買のパンだ。


「関山さん、それ……」


「はい。本日の、お昼ですわ」


 彼女は、包みを胸の前に掲げて言った。


「小説では、皆さま、屋上でパンを召し上がりますの。中でも、いちばんよく登場いたしますのが――“焼きそばパン”ですわ」


(チョイスの理由が、物語準拠……)


「……でも、いいのか? 昼メシ、いつも桜井さんたちと一緒なんだろ」


「はい。皆さまには、本日は“先約がある”と、お伝えして参りましたわ」


 先約。


「……誰とだよ」


「――物語と、ですわ」


 彼女は、当然のように言った。


(……かっこいいことを言っているのか、それは)


 昨日の帰り道、澪から聞いたばかりだ。


『関山さんね、今日、購買で初めて、自分でパンを買えたの』


 ……その翌日が、これか。


 購買のパンの、次の冒険。


 この人の冒険は、一歩ずつ、ちゃんと続いているらしい。


「……座るか? ベンチ、空いてるし」


 気づけば、言っていた。


「まあ」


 彼女は目を、わずかに見開いて。


「……ありがとう存じます」


 しずしずと、ベンチの端に腰を下ろした。


 俺と彼女の間には、人ひとりぶんの、上品な距離。


 彼女は膝の上で包みをほどくと、焼きそばパンを両手で恭しく持ち上げ、小さく「いただきます」と言った。


 ぱく、と一口。


 もぐもぐと、静かに咀嚼して。


「…………おいしい、ですわ」


 その声が、ほんの少しだけ。


 教室で聞くよりも、やわらかかった。


 * * *


 それから俺たちは、ぽつりぽつりと話した。


 といっても、話題はほとんど、小説のことだ。


 好きな物語を尋ねると、彼女は古い恋愛小説や、探偵小説や、海外のファンタジーの題名を、いくつもいくつも挙げた。


 俺が知っていたのは、正直、半分もなかったけれど。


 好きなものの話をするときの彼女の言葉は、止まらなかった。


「……物語の中には、なんでも、ありますのよ」


 ふと、彼女は言った。


「行けない場所も。会えない人も。……できない経験も。頁を開けば、ぜんぶ、そこにありますの」


「……ああ」


「ですけれど」


 彼女は、フェンスの向こうの空を見た。


「リアルの屋上は……小説より、ずっと風が強いんですのね」


 乱れる髪を、細い指で押さえながら。


 彼女は、ほんのわずかに――笑った、ように見えた。


 あの日本人形の、初めて見る表情だった。


「……だな。リアルってのは、だいたい、ままならないんだよ」


「ええ。ままならないことだらけ、ですわ」


 彼女は、うなずいて。


「ですけれど――続きが、読めませんの」


「……ん?」


「本でしたら、頁をめくれば、続きが書いてございますでしょう? ……リアルの学校は、次の頁に何が起こるのか、誰にもわかりませんのね。……こんな気持ちは、生まれて初めてですわ」


 それは。


 物語の外へ出てきたばかりの人の、いちばん最初の感想だった。


(……そうか)


 この人は、いま。


 十七年ぶんの物語を抱えて、やっと“リアル”を始めたところなのだ。


 ――そのとき、だった。


 ギィ、と。


 背後で、みたび、鉄のドアが鳴った。


「わりぃ大河! 購買が戦場でよ――」


 パンの袋を抱えた橘が、駆け込んでくる。


 そして、ベンチの俺たちを見て。


 ぴたり、と止まった。


「…………」


「…………」


「……ご機嫌よう、橘様」


「ご、ごきげんよう……?」


(お前まで影響されるな)


 橘は、俺と関山さんを、何度も何度も見比べて。


 それから、乾いた笑いを浮かべた。


「……あー。うん。なんだ、その。……俺の話は、また今度でいいわ」


「は? お前が呼び出したんだろ」


「いいのいいの! そういう感じなら、また今度で!」


(そういう感じって、どういう感じだよ)


 言いたいことだけ言って、橘はひらひらと手を振った。


「じゃ、お邪魔しましたー」


「お、おい、橘!?」


 ギィ、バタン。


 嵐のように来て、嵐のように去っていった。


 ……なんだったんだ、一体。


 あいつの“大事な話”は、結局、聞けずじまいである。


(まあ……本人が今度でいいって言うなら、今度でいいか)


 でも。


 ドアが閉まる一瞬、去り際の橘の顔が、また真顔に戻っていたのを。


 俺は、見逃さなかった。


 * * *


 キーンコーンカーンコーン♪


 予鈴が、春の空に響く。


「……戻るか。昼休み、終わっちまう」


「はい」


 関山さんは立ち上がると、スカートの埃を丁寧に払い、それから、俺に向かってきれいな一礼をした。


「吉野さん。本日は……ありがとう存じます」


「大したことは、してないけどな。……よかったな。屋上でパン、食えて」


「はい」


 彼女は、パンの包み紙を大事そうに畳みながら、言った。


「――物語の、通りでしたわ」


 その言葉が、なんだか妙に、胸に残った。


 物語の通りの屋上を、あの人は、十七年かけて確かめに来た。


 なら――この先の一年で、物語に載っていないことを、いくつ見つけられるだろうか。


 握力測定とか。


 拍手のタイミングを見失う教室とか。


 ……次の頁に何が起こるかわからない、ってことの、面白さとか。


(……ま。同じクラスなんだしな)


 俺は缶コーヒーの最後の一口を飲み干して、立ち上がった。


 春の風が、フェンスを鳴らして吹き抜けていく。


 ――やさぐれ問題児の避難所であり、生徒会長の“絶対守護聖域”であった、この屋上は。


 この日、物語好きのお嬢様の“聖地”として、新しい頁に書き加えられたのである。


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