第132話 絶対守護聖域・屋上 ver.2
キーンコーンカーンコーン♪
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、教室が一斉に動き出した。
机を寄せる音。弁当の包みを開く音。購買へ走る足音。
新学期も、二週目に入った。
相変わらず、なにもかもが新しい毎日だけれど――昼休みの騒がしさだけは、去年と同じだ。
と。
真後ろの席から、ひょいと肩を叩かれた。
「わりぃ、大河。ちょっといいか」
橘だった。
(……ん?)
様子が、少しおかしい。
いつもの、へらへらとした軽さがない。
「昼休み、屋上まで来てくれね? ……大事な話が、あんだよ」
「屋上って、お前……あそこ、立ち入り禁止だろ」
「そこを頼む。……人に聞かれたくない話なんだ」
真顔だった。
あの橘が、真顔である。
(なんだよ、改まって……)
部活のことか。進路のことか。それとも、なにか厄介ごとか。
「……わかったよ。先に行ってる」
「おう。俺は購買寄ってから行くわ。すぐ追いつく」
そう言って、橘は昼休みの人混みへと消えていった。
* * *
――と、いうわけで。
教室で弁当を五分でかき込んだ俺は、屋上へと続く階段を上っている。
最後の踊り場。その先の鉄のドアの前には、見慣れた看板が立っていた。
『関係者以外立入禁止』
その脇には、色あせたカラーコーン。
(……久しぶりだな、ここも)
この扉を開けるのは、期末テストのあと――汐乃とここで話したとき以来だ。
考え事があるとき、よくここへ来るという、生徒会長サマの“絶対守護聖域”。
……あの人は今、あのときよりずっと重いものを、一人で抱えているけれど。
(――いや。その話は、今はやめとこう)
ギィ。
鉄のドアを押し開けると、春の光が目に飛び込んできた。
一面の、青い空。
フェンスの向こうを、鳥が二羽、横切っていく。
校庭からは、昼休みの賑やかな声が、風に乗ってここまで届いていた。
そして屋上の隅には、古びたベンチがひとつ、ぽつんと置かれている。
いつの時代からあるのか知らないが、塗装の剥げた、味のあるやつだ。
俺はそこに腰を下ろすと、廊下の自販機で買っておいた缶コーヒーを取り出した。
プシュ。
ブラック。砂糖もミルクも、なし。
一口。
(……うまい)
春の風と、ほろ苦さ。
なんだかんだ言って、ここは俺にとっても、昔から落ち着く場所なのだ。
……まあ。生徒会副会長がこんなところで油を売っているのを、あまり他人には見られたくないけれど。
(で……橘のやつ、遅いな)
“大事な話”とやらは、一体なんなのか。
あいつがあんな顔をするのは、珍しい。
……それにしても。
こうして一人でここにいると、思い出すことがある。
当時はさんざんな毎日のつもりだったのに――今思えば、不思議と、いい思い出ばかりだ。
――一年の頃。
やさぐれていた俺は、教室に居場所がなくて、しょっちゅうこの屋上へ逃げ込んでいた。
授業をサボって、フェンスにもたれて、ただぼんやりと空を見ていた。
誰も来ないこの場所だけが、あの頃の俺の“避難所”だったのだ。
……そういえば。
橘と初めてまともに口をきいたのも、ここだった。
いや。……口をきいた、というか。
喧嘩した、というか。
サボりの常習犯だった俺を、同じクラスだったあいつは、なぜか探しに来たのだ。
『おいおい。また屋上かよ、吉野。お前、皆勤賞ならぬ皆サボ賞だな』
へらへら笑うあいつに、俺は「ほっとけよ」と凄んで、胸ぐらまで掴んだ。
でも、あいつは引かなかった。
へらへらしたまま、こう言ったのだ。
『……お前さ。教室で見るより、ここで見るほうが、よっぽど人間らしいな』
――あのへらへらの下にそういう目があることを、俺はあのとき、初めて知った。
それから、この場所にはもう一人、よく来る人がいた。
『またお前か、吉野』
当時の生徒会長――河津さん。
サボっている俺を見つけるたび、あの人は怒るでもなく、隣のフェンスにもたれて、よく分からない話だけして帰っていく。
俺にコンビニのバイトを勧めたのも、あの人だ。
そして、卒業を控えたある日。
あの人は去り際に、ぽつりと、こう言った。
『……惜しいな。お前が今、二年だったなら――生徒会に、誘っていたんだがな』
当時の俺は、鼻で笑った。
俺が生徒会なんて、冗談も休み休み言え、と。
――それが、どうだ。
あれから二年。
俺は今、その生徒会の副会長を、やっている。
……人生というのは、本当に、何がどうなるか分からない。
懐かしさに苦笑しながら、缶コーヒーをもう一口。
……と。
背後で、ギィ、と音がした。
(お、来たか)
「おせーぞ、橘。購買、そんなに混んで――」
振り返った俺は、そのまま固まった。
鉄のドアの前に立っていたのは、橘では、なかった。
背筋のまっすぐ伸びた、細い立ち姿。
春の風になびく、艶のある黒髪。
――関山、八重。
「……ご機嫌よう、吉野様」
「ど、どうしたんだ、関山さん!?」
思わず、立ち上がっていた。
(な、なんでこの人がここに!?)
教室の窓際の一番後ろにいるはずの日本人形が、なぜか、立ち入り禁止の屋上に立っている。
しかも。
「い、いま、俺のこと“様”って……」
「あら。お気に召しませんでした?」
「召すとか召さないとかじゃなくてだな……。その、くすぐったいというか。……普通に“さん”でいいよ」
「まあ。……では」
彼女はひとつ、丁寧にうなずいて。
「――吉野さん、と」
言い直した。
(よ、よし……)
クラスメイトに“様”を付けられる生活は、俺の心臓がもたない。
「そ、それで、どうしたんだよ、こんなところで。ここ、一応、立ち入り禁止だぞ?」
俺が階段の方を指差すと、彼女はこくりとうなずいた。
「存じておりますわ。……階段の下の、あの看板でしょう?」
「知ってて来たのかよ」
「はい」
悪びれる様子は、まったくない。
それどころか、彼女はどこか誇らしげに、胸の前で小さく両手を合わせた。
「一度――“経験”として、参ってみたかったんですの」
「……経験?」
「はい。……立ち入り禁止の屋上、ですわ」
(……???)
立ち入り禁止の屋上を、経験してみたかった。
……どういうことだ。
箱入りお嬢様の考えることは、平均ど真ん中の俺には、さっぱりわからない。
そんな俺の顔を見て、彼女は種明かしのように、続けた。
「小説の中で、よく登場いたしますから」
「…………小説?」
「はい」
風が、屋上を吹き抜けた。
乱れる黒髪を押さえながら、関山さんは、静かに言った。
「学校の物語には、必ずと言っていいほど、屋上が登場いたしますのよ。……お昼を召し上がる場面。フェンス越しに、大声で叫ぶ場面。それから――」
そこで彼女は、ほんの少しだけ言葉を止めて。
「……いえ。それは、よろしいですわ」
(何だよ。気になるな!?)
――まあ、いい。
それより俺には、確かめたいことができていた。
「関山さん。もしかして……本、読むのか?」
「はい」
彼女は、こくりとうなずいた。
そして。
あの感情の読めない静かな瞳の奥に、初めて見る色が、ふわりと灯った。
「わたくし――小説が、大好きですの」
* * *
それから、彼女は語った。
いつもの、抑えた静かな声のまま。
ただ、言葉の数だけが、どんどん増えていった。
関山の家は、厳しかったこと。
お勉強に関係のない本は、読ませてもらえなかったこと。
――でも。週に何度か、家庭教師の先生と通う私立図書館だけは、別だったこと。
「あそこでは、頁をめくってさえいれば、皆さま“お勉強”だと思ってくださいますの」
彼女は、いたずらを打ち明ける子どもみたいに、少しだけ声をひそめた。
「参考書の陰に隠して、こっそり。……恋愛小説も、探偵小説も、ファンタジーも。ぜんぶ、あの図書館で読みましたわ」
「……こっそり、って」
「わたくしの、人生で初めての“秘密”ですわ」
(いま俺に言っちゃってるけどな、その秘密)
なんでもできて、なにも知らないお嬢様は。
図書館の机の隅で、勉強するふりをして、物語の世界を旅していたらしい。
学校というものも、ぜんぶ、そこで知ったのだという。
「時間割も。購買も。屋上も。……“お友達”というものも。ぜんぶ、本の頁の中で、先に出会いましたの」
「……そう、だったのか」
「ですからわたくし、学校のことでしたら、なんでも存じておりますのよ」
彼女は、少しだけ得意げに言った。
「……その割に、握力測定も合唱も“さんざん”だったけどな。テストも、最後まで終わってないらしいし」
つい、くすりと皮肉るように笑ってしまった。
――言ってから、我に返る。
(……おっと)
いくらなんでも、今のは意地が悪かったか。
気を悪くしていないかと、慌てて彼女の顔を見ると――。
彼女は。
目を、きらきらと輝かせて、楽しそうにしていた。
「……え」
怒って、いない。
どころか、なんだか、嬉しそうですらある。
(……どういうことだ?)
俺には、さっぱり分からなかった。
「……ふふ」
「か、関山さん?」
「いいえ。……なんでも、ありませんわ」
――ともあれ。
彼女が本の虫だと知って、合点がいったことが、ひとつある。
あの、妙に古風な言葉遣いだ。
「なあ。もしかしてなんだけど……“ありがとう存じます”ってのも、小説か?」
「はい。古い時代の物語に出てくる、ご挨拶ですわ」
彼女は、こともなげに言った。
「初めて読んだとき、なんて美しい言葉だろうと思いましたの。ありがとう、存じます。……感謝を、心から“存じ上げる”んですのよ。素敵でしょう?」
「……はは。そっか」
教室じゅうが戸惑っていた、あの挨拶は。
彼女が本の中から大切に持ってきた、宝物だったらしい。
(……なんか、笑えなくなってきたな)
なんでもできるのに、なにも知らない人。
その“なんでも”の出どころは、図書館の机の隅で、参考書の陰に隠れて読んだ――物語たちだったのだ。
厳しい家に育った女の子の、世界への、たったひとつの窓。
……きっと、友達でも、あったんだろう。
ふと、彼女の手元に目がいった。
小さな包みを、両手で大事そうに抱えている。
……あれは、購買のパンだ。
「関山さん、それ……」
「はい。本日の、お昼ですわ」
彼女は、包みを胸の前に掲げて言った。
「小説では、皆さま、屋上でパンを召し上がりますの。中でも、いちばんよく登場いたしますのが――“焼きそばパン”ですわ」
(チョイスの理由が、物語準拠……)
「……でも、いいのか? 昼メシ、いつも桜井さんたちと一緒なんだろ」
「はい。皆さまには、本日は“先約がある”と、お伝えして参りましたわ」
先約。
「……誰とだよ」
「――物語と、ですわ」
彼女は、当然のように言った。
(……かっこいいことを言っているのか、それは)
昨日の帰り道、澪から聞いたばかりだ。
『関山さんね、今日、購買で初めて、自分でパンを買えたの』
……その翌日が、これか。
購買のパンの、次の冒険。
この人の冒険は、一歩ずつ、ちゃんと続いているらしい。
「……座るか? ベンチ、空いてるし」
気づけば、言っていた。
「まあ」
彼女は目を、わずかに見開いて。
「……ありがとう存じます」
しずしずと、ベンチの端に腰を下ろした。
俺と彼女の間には、人ひとりぶんの、上品な距離。
彼女は膝の上で包みをほどくと、焼きそばパンを両手で恭しく持ち上げ、小さく「いただきます」と言った。
ぱく、と一口。
もぐもぐと、静かに咀嚼して。
「…………おいしい、ですわ」
その声が、ほんの少しだけ。
教室で聞くよりも、やわらかかった。
* * *
それから俺たちは、ぽつりぽつりと話した。
といっても、話題はほとんど、小説のことだ。
好きな物語を尋ねると、彼女は古い恋愛小説や、探偵小説や、海外のファンタジーの題名を、いくつもいくつも挙げた。
俺が知っていたのは、正直、半分もなかったけれど。
好きなものの話をするときの彼女の言葉は、止まらなかった。
「……物語の中には、なんでも、ありますのよ」
ふと、彼女は言った。
「行けない場所も。会えない人も。……できない経験も。頁を開けば、ぜんぶ、そこにありますの」
「……ああ」
「ですけれど」
彼女は、フェンスの向こうの空を見た。
「リアルの屋上は……小説より、ずっと風が強いんですのね」
乱れる髪を、細い指で押さえながら。
彼女は、ほんのわずかに――笑った、ように見えた。
あの日本人形の、初めて見る表情だった。
「……だな。リアルってのは、だいたい、ままならないんだよ」
「ええ。ままならないことだらけ、ですわ」
彼女は、うなずいて。
「ですけれど――続きが、読めませんの」
「……ん?」
「本でしたら、頁をめくれば、続きが書いてございますでしょう? ……リアルの学校は、次の頁に何が起こるのか、誰にもわかりませんのね。……こんな気持ちは、生まれて初めてですわ」
それは。
物語の外へ出てきたばかりの人の、いちばん最初の感想だった。
(……そうか)
この人は、いま。
十七年ぶんの物語を抱えて、やっと“リアル”を始めたところなのだ。
――そのとき、だった。
ギィ、と。
背後で、みたび、鉄のドアが鳴った。
「わりぃ大河! 購買が戦場でよ――」
パンの袋を抱えた橘が、駆け込んでくる。
そして、ベンチの俺たちを見て。
ぴたり、と止まった。
「…………」
「…………」
「……ご機嫌よう、橘様」
「ご、ごきげんよう……?」
(お前まで影響されるな)
橘は、俺と関山さんを、何度も何度も見比べて。
それから、乾いた笑いを浮かべた。
「……あー。うん。なんだ、その。……俺の話は、また今度でいいわ」
「は? お前が呼び出したんだろ」
「いいのいいの! そういう感じなら、また今度で!」
(そういう感じって、どういう感じだよ)
言いたいことだけ言って、橘はひらひらと手を振った。
「じゃ、お邪魔しましたー」
「お、おい、橘!?」
ギィ、バタン。
嵐のように来て、嵐のように去っていった。
……なんだったんだ、一体。
あいつの“大事な話”は、結局、聞けずじまいである。
(まあ……本人が今度でいいって言うなら、今度でいいか)
でも。
ドアが閉まる一瞬、去り際の橘の顔が、また真顔に戻っていたのを。
俺は、見逃さなかった。
* * *
キーンコーンカーンコーン♪
予鈴が、春の空に響く。
「……戻るか。昼休み、終わっちまう」
「はい」
関山さんは立ち上がると、スカートの埃を丁寧に払い、それから、俺に向かってきれいな一礼をした。
「吉野さん。本日は……ありがとう存じます」
「大したことは、してないけどな。……よかったな。屋上でパン、食えて」
「はい」
彼女は、パンの包み紙を大事そうに畳みながら、言った。
「――物語の、通りでしたわ」
その言葉が、なんだか妙に、胸に残った。
物語の通りの屋上を、あの人は、十七年かけて確かめに来た。
なら――この先の一年で、物語に載っていないことを、いくつ見つけられるだろうか。
握力測定とか。
拍手のタイミングを見失う教室とか。
……次の頁に何が起こるかわからない、ってことの、面白さとか。
(……ま。同じクラスなんだしな)
俺は缶コーヒーの最後の一口を飲み干して、立ち上がった。
春の風が、フェンスを鳴らして吹き抜けていく。
――やさぐれ問題児の避難所であり、生徒会長の“絶対守護聖域”であった、この屋上は。
この日、物語好きのお嬢様の“聖地”として、新しい頁に書き加えられたのである。




