第131話 遠回り
――翌日の、放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、隣に、ふわりと見慣れた影が並んだ。
「大河くん」
澪だった。
「なんでも箱の、実行計画のことなんだけど……帰りながら、相談しない?」
……付き合っていることは、学校では、まだ秘密だ。
だから、俺たちが堂々と並んで歩くには、口実がいる。
生徒会。
同じ係。
打ち合わせ。
――我ながら、なんて便利な言葉だろう。
「……ああ。しよう、相談」
俺は、駐輪場から自転車を引き出しながら、うなずいた。
乗れば、十五分の帰り道。
押して歩けば、四十分。
考えるより先に、体が勝手に、スタンドを蹴り上げていた。
(……乗ってくか、とは、言えないもんな)
二人乗りなら、去年、二回もしたのに。
あの頃より、ずっと近くなったはずなのに。
付き合う前より、付き合ってからのほうが、できないことが増えている。
……どういうことだ。
* * *
校門を出て、ゆるやかな坂道を下る。
からから、と。
自転車の車輪が、俺と澪の間で、控えめな音を立てて回っている。
……この自転車、位置が絶妙なのである。
俺と、澪の、ちょうど真ん中。
近すぎず、遠すぎず。
妙な言い方だが――二人の間に自転車が一台あるおかげで、俺はどうにか、平常心で歩けていた。
「あ。生徒会の人たちだ」
すれ違った下級生の声に、心臓が、ぴくりと跳ねる。
「なんでも箱の人でしょ」「ねえ、もう送った?」「恋愛相談は禁止なんだって」
くすくすと、そんな囁きが、後ろへ流れていった。
(だ、大丈夫だ。俺たちは係の打ち合わせをしている。なにも、やましくない)
ちらりと隣を見ると。
澪も、まっすぐ前を向いたまま、心なしか、歩幅が固かった。
……考えていることは、たぶん、同じだった。
――と。
前方から、見覚えのある赤いヘアピンが、歩いてくるのが見えた。
(……っ、大島さん!?)
俺と澪の肩が、同時に、びくっと跳ねる。
……が。
すれ違ってみれば、まったく知らない、他校の生徒だった。
「……」
「……」
俺たちは、顔を見合わせて。
どちらからともなく、ふ、と吹き出した。
「……なにに、びびってるんだろうね、私たち」
「……係の打ち合わせなのにな」
「うん。係の打ち合わせなのに」
そう言って笑う澪の横顔に、夕方の光が差して。
……ああ、まずい。
打ち合わせの中身が、ひとつも頭に入ってこない。
* * *
話題は、自然と、この新学期のことになった。
「それにしても……濃かったよね、新年度」
「濃すぎるだろ。まだ一週間も経ってないんだぞ」
頭の中で、指を折って数えてみる。
いきなり発表された、謎の選抜クラス。
学校に通うのが、人生で初めての転入生。
バイト先に乗り込んできた、恋敵の後輩。
正反対すぎる新人二人の、教育係という大役。
スマホの中に引っ越した、目安箱。
……あれが本格的に動き出したら、生徒会は、今までの何倍も忙しくなるはずだ。
そして――会長の椅子を巡る、一枚の紙。
おまけに、俺個人はといえば。
東大を目指す、受験生になった。
そのうえ人生で初めての、“彼氏業”ときた。
受験生で、教育係で、生徒会役員で、彼氏。
……二年のときの俺に教えたら、たぶん、腰を抜かすと思う。
大変なことは、間違いなく、去年の倍以上ある。
――なのに。
なのに、この毎日が、嫌じゃないのだ。
次はなにが起こるんだと、少しわくわくしている自分すら、いる。
……我ながら、単純だと思う。
「普通の学校の、一年分くらいの事件があったと思う」
「うちのクラスは、一週間で使い切ったな」
「ふふ。三月までもつのかな、私たち」
もたない気しか、しなかった。
「あ、そうだ。……今日のお昼のこと、聞いてくれる?」
澪が、少しだけ声を弾ませた。
「関山さんね、今日、購買で初めて、自分でパンを買えたの」
「……ん? パンを?」
「うん。自分で選んで、自分でお金を払って、自分で受け取ったの。ぜんぶ、初めて」
……そうか。
あの人は、そういうところから、なんだよな。
なんでも完璧に見えるのに、購買のパンの買い方は、知らない。
「最初はね、列に並ぶところから、わからなかったんだって。でも、『自分で、やってみますわ』って」
「言いそうだな……」
「それで、買えたあとに、すごく真剣な顔で言うの。――『達成、しましたわ』って」
「パンひとつで、大げさなんだよ、あの人は」
笑いながら――でも、俺は思う。
あの子にとっては、購買のパンひとつが、冒険なのだ。
その冒険の隣に、澪がいる。
それが、なんだか、無性に嬉しかった。
「……よかったな。ちゃんと“お友達”、やれてるじゃん」
「……うん。えへへ」
「あとね。……これは、ちょっと悔しそうだったんだけど」
澪が、少しだけ声のトーンを落とした。
「この前の実力テスト、最後まで解き切れなかったんだって。時間配分がわからなくて……最後の問題まで、辿り着けなかったって」
「……ああ。なんか、わかる気がする」
意外なようで、意外じゃなかった。
家庭教師と一対一の世界には、たぶん、“制限時間との勝負”がない。
わからないところは、わかるまで教えてもらえる世界だ。
頭が悪いわけじゃない。……むしろ地頭は、俺なんかよりずっといいんだと思う。
ただ、“テスト”という競技に、慣れていない。
学校という環境そのものが、あの人にはまだ、初めての連続なのだ。
「……なあ。時間配分ならさ」
気づいたら、言っていた。
「俺、教えられるかもしれない」
「え?」
「ほら、俺、このクラスじゃ何の取り柄もない平均ど真ん中だけど……テストを時間内に解き切る技術なら、たぶん誰にも負けないんだよ。満点は取れないけど、最後の問題までは絶対に辿り着く男だから」
「ふふっ、なにその特技」
「バカにするなよ。積み重ねだぞ、これでも」
「してないよ。……ううん、それ、すごくいいと思う」
澪が、嬉しそうに目を細めた。
「今度のお昼、大河くんも来る?」
「……ん。ああ」
少しだけ考えて、うなずいた。
「――俺も、関わってみるよ。あの人と。……同じクラスなんだしな」
「そっちの新人たちは、どうなの?」
「熊野は真面目すぎて心配。陽菜は元気すぎて心配」
「ふふ、先輩は大変だ」
「揃いも揃って正反対なんだよ。教え方の正解が、毎回違う」
「でも、ちょっと楽しそうだよ?」
「……まぁ、な」
否定は、しなかった。
* * *
それから、澪は少しだけ、声を落とした。
「……汐乃さんのこと、ずっと考えてるの」
「ああ」
「私たちに、できることって、あるのかな」
「……わからん。けど」
俺は、ハンドルを握り直した。
「あの人は、黙って椅子を明け渡すような人じゃない。『考える。急がずに』って言ってただろ。……なら、俺たちはその間に、生徒会の足元を固めておくんだ」
「足元?」
「なんでも箱を、ちゃんと機能させる。生徒会がどれだけ生徒の役に立ってるか、誰の目にも見えるようにしておく。……それがいざってとき、汐乃の武器になる」
「……そっか。私たちの係、そういう意味でも、大事なんだね」
「ああ。だから、ほら――これは正真正銘、係の打ち合わせだ」
「ふふっ。うん。打ち合わせだ」
* * *
大通りを外れて、桜並木の道に入る。
人通りが、ふっと途切れた。
散り際の桜が、風のたびに、はらはらと花びらを降らせている。
……ここから先は、澪の家までの、静かな一本道だ。
「――澪」
呼び方が、切り替わる。
誰もいない道に入った瞬間、自然と、そうなった。
「ん。……切り替わった」
澪が、くすっと笑う。
「学校を出てから、二十分ぶり、くらいかな」
「数えてたのかよ」
「数えてないよ。……でも、わかるの」
……なんだそれは。
心臓に、悪い。
風が吹いて、花びらがひとひら、澪の髪に止まった。
取ってやろうと、手が半分、持ち上がって。
……止まる。
まだ明るい、外だ。
どこで誰が見ているか、わからない。
「……髪。花びら、付いてる」
結局、言葉だけを、そっと手渡した。
「え? ……あ、ほんとだ」
澪は左手でつまむと、ふ、と息で飛ばした。
花びらは、くるくると回りながら、夕方の光の中へ消えていく。
……伸ばせなかった数センチが、妙に、遠かった。
「……ねえ。気づいてた?」
少し歩いてから、澪が言った。
「去年の今ごろも、私たち、同じクラスだったんだよ」
「……そうなんだよな」
言われて、あらためて、不思議な気持ちになる。
二年A組。
同じ教室で、一年間、同じ黒板を見ていたはずなのだ。
なのに、あの頃の俺は、澪のことをほとんど知らなかった。
優等生の、桜井さん。
名前と顔が一致する程度の、ただのクラスメイト。
……俺は俺で、別の人ばかり、目で追っていたし。
澪は澪で、あの完璧な“仮面”の中にいた。
「同じ教室にいたのに、お互い、ぜんぜん見えてなかったんだよね」
「……世界が、狭かったんだよ。お互いにな」
「うん。……だから私たちが本当に出会ったのは、秋の、夜のコンビニ」
レジ越しの、ブラックコーヒー。
あの一缶からが、始まりだった。
「教室で毎日会ってたのに、出会った場所は夜のコンビニって……変なの」
「いい出会い方だろ、別に」
「ふふ。うん。……世界でいちばん、いい出会い方」
散る花びらの下で、澪は目を細めた。
「去年の春の私は、同じ教室に大河くんがいたのに、気づいてもいなかった。……もったいないこと、してたなあ」
「……それは、俺も、だけどな」
「だから、今年の春は――去年の私に、ちょっとだけ、自慢したい気分なの」
……ずるいだろ、そういうのは。
からから、と。
自転車の音だけが、返事の代わりに鳴っていた。
……言葉が出てこないとき、この音があってくれて、助かる。
* * *
桜並木を抜けると、道の先に、見慣れた白い塀が見えてきた。
澪の家だ。
「……ここまでで、大丈夫」
塀の手前、少し離れた曲がり角で、澪が立ち止まった。
「ん。……ああ」
「ねえ、大河くん」
「なんだよ」
「……今日は、遠回りしてくれて、ありがと」
……そうだった。
お互いの家がどっちにあるかなんて、とっくに知っている仲なのだ。
口実なんて、最初から、意味がなかった。
「あ、いや……ほら」
視線が、勝手に泳いだ。
「……一緒に、いたかったし」
言ってから、耳が熱くなった。
……何を素直に白状しているんだ、俺は。
澪は、目を少し丸くして。
それから――ぱっと、花が咲くみたいに笑った。
「……うんっ。私も」
澪は、鞄を持ち直して。
二歩だけ歩いて、振り返った。
「――またね、大河くん。打ち合わせの続きも、しようね」
「おう。……また明日」
夕日の中を、澪が小さく手を振って、歩いていく。
白い塀の角を曲がって、その姿が見えなくなるまで。
俺は、ハンドルを握ったまま、その場に突っ立っていた。
……ちなみに。
四十分も歩いたのに、肝心の“係の打ち合わせ”は、ひとつも進んでいない。
まぁ、いいのである。そういう日も。
* * *
帰り道は、自転車にまたがった。
ペダルを踏むと、来た道が、するすると背中へ流れていく。
……四十分かけて歩いた道は、十五分で終わってしまった。
遠回りというのは、どうやら。
距離の話でも、時間の話でもなくて。
――誰と歩くか、の話らしい。
春の夕焼けが、車輪の音と一緒に、後ろへ流れていく。
……これで、新学期の最初の一週間が、終わる。
クラスも、バイト先も、生徒会も。
なにもかもが新しくなって、悩みの種と楽しみの種が、同じくらい撒かれた七日間だった。
――前途は、相変わらず、多難である。
だが、不思議と、怖くはなかった。
隣を歩いてくれる人がいて。
背中を任せられる仲間がいて。
夕焼けの向こうには、明日が待っている。
……さあ。
難題だらけの、俺たちの三年生の――始まりだ。




