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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第13章 前途多難な新学期編

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第131話 遠回り

 ――翌日の、放課後。


 昇降口で靴を履き替えていると、隣に、ふわりと見慣れた影が並んだ。


「大河くん」


 澪だった。


「なんでも箱の、実行計画のことなんだけど……帰りながら、相談しない?」


 ……付き合っていることは、学校では、まだ秘密だ。


 だから、俺たちが堂々と並んで歩くには、口実がいる。


 生徒会。


 同じ係。


 打ち合わせ。


 ――我ながら、なんて便利な言葉だろう。


「……ああ。しよう、相談」


 俺は、駐輪場から自転車を引き出しながら、うなずいた。


 乗れば、十五分の帰り道。


 押して歩けば、四十分。


 考えるより先に、体が勝手に、スタンドを蹴り上げていた。


(……乗ってくか、とは、言えないもんな)


 二人乗りなら、去年、二回もしたのに。


 あの頃より、ずっと近くなったはずなのに。


 付き合う前より、付き合ってからのほうが、できないことが増えている。


 ……どういうことだ。


 * * *


 校門を出て、ゆるやかな坂道を下る。


 からから、と。


 自転車の車輪が、俺と澪の間で、控えめな音を立てて回っている。


 ……この自転車、位置が絶妙なのである。


 俺と、澪の、ちょうど真ん中。


 近すぎず、遠すぎず。


 妙な言い方だが――二人の間に自転車が一台あるおかげで、俺はどうにか、平常心で歩けていた。


「あ。生徒会の人たちだ」


 すれ違った下級生の声に、心臓が、ぴくりと跳ねる。


「なんでも箱の人でしょ」「ねえ、もう送った?」「恋愛相談は禁止なんだって」


 くすくすと、そんな囁きが、後ろへ流れていった。


(だ、大丈夫だ。俺たちは係の打ち合わせをしている。なにも、やましくない)


 ちらりと隣を見ると。


 澪も、まっすぐ前を向いたまま、心なしか、歩幅が固かった。


 ……考えていることは、たぶん、同じだった。


 ――と。


 前方から、見覚えのある赤いヘアピンが、歩いてくるのが見えた。


(……っ、大島さん!?)


 俺と澪の肩が、同時に、びくっと跳ねる。


 ……が。


 すれ違ってみれば、まったく知らない、他校の生徒だった。


「……」


「……」


 俺たちは、顔を見合わせて。


 どちらからともなく、ふ、と吹き出した。


「……なにに、びびってるんだろうね、私たち」


「……係の打ち合わせなのにな」


「うん。係の打ち合わせなのに」


 そう言って笑う澪の横顔に、夕方の光が差して。


 ……ああ、まずい。


 打ち合わせの中身が、ひとつも頭に入ってこない。


 * * *


 話題は、自然と、この新学期のことになった。


「それにしても……濃かったよね、新年度」


「濃すぎるだろ。まだ一週間も経ってないんだぞ」


 頭の中で、指を折って数えてみる。


 いきなり発表された、謎の選抜クラス。


 学校に通うのが、人生で初めての転入生。


 バイト先に乗り込んできた、恋敵の後輩。


 正反対すぎる新人二人の、教育係という大役。


 スマホの中に引っ越した、目安箱。


 ……あれが本格的に動き出したら、生徒会は、今までの何倍も忙しくなるはずだ。


 そして――会長の椅子を巡る、一枚の紙。


 おまけに、俺個人はといえば。


 東大を目指す、受験生になった。


 そのうえ人生で初めての、“彼氏業”ときた。


 受験生で、教育係で、生徒会役員で、彼氏。


 ……二年のときの俺に教えたら、たぶん、腰を抜かすと思う。


 大変なことは、間違いなく、去年の倍以上ある。


 ――なのに。


 なのに、この毎日が、嫌じゃないのだ。


 次はなにが起こるんだと、少しわくわくしている自分すら、いる。


 ……我ながら、単純だと思う。


「普通の学校の、一年分くらいの事件があったと思う」


「うちのクラスは、一週間で使い切ったな」


「ふふ。三月までもつのかな、私たち」


 もたない気しか、しなかった。


「あ、そうだ。……今日のお昼のこと、聞いてくれる?」


 澪が、少しだけ声を弾ませた。


「関山さんね、今日、購買で初めて、自分でパンを買えたの」


「……ん? パンを?」


「うん。自分で選んで、自分でお金を払って、自分で受け取ったの。ぜんぶ、初めて」


 ……そうか。


 あの人は、そういうところから、なんだよな。


 なんでも完璧に見えるのに、購買のパンの買い方は、知らない。


「最初はね、列に並ぶところから、わからなかったんだって。でも、『自分で、やってみますわ』って」


「言いそうだな……」


「それで、買えたあとに、すごく真剣な顔で言うの。――『達成、しましたわ』って」


「パンひとつで、大げさなんだよ、あの人は」


 笑いながら――でも、俺は思う。


 あの子にとっては、購買のパンひとつが、冒険なのだ。


 その冒険の隣に、澪がいる。


 それが、なんだか、無性に嬉しかった。


「……よかったな。ちゃんと“お友達”、やれてるじゃん」


「……うん。えへへ」


「あとね。……これは、ちょっと悔しそうだったんだけど」


 澪が、少しだけ声のトーンを落とした。


「この前の実力テスト、最後まで解き切れなかったんだって。時間配分がわからなくて……最後の問題まで、辿り着けなかったって」


「……ああ。なんか、わかる気がする」


 意外なようで、意外じゃなかった。


 家庭教師と一対一の世界には、たぶん、“制限時間との勝負”がない。


 わからないところは、わかるまで教えてもらえる世界だ。


 頭が悪いわけじゃない。……むしろ地頭は、俺なんかよりずっといいんだと思う。


 ただ、“テスト”という競技に、慣れていない。


 学校という環境そのものが、あの人にはまだ、初めての連続なのだ。


「……なあ。時間配分ならさ」


 気づいたら、言っていた。


「俺、教えられるかもしれない」


「え?」


「ほら、俺、このクラスじゃ何の取り柄もない平均ど真ん中だけど……テストを時間内に解き切る技術なら、たぶん誰にも負けないんだよ。満点は取れないけど、最後の問題までは絶対に辿り着く男だから」


「ふふっ、なにその特技」


「バカにするなよ。積み重ねだぞ、これでも」


「してないよ。……ううん、それ、すごくいいと思う」


 澪が、嬉しそうに目を細めた。


「今度のお昼、大河くんも来る?」


「……ん。ああ」


 少しだけ考えて、うなずいた。


「――俺も、関わってみるよ。あの人と。……同じクラスなんだしな」


「そっちの新人たちは、どうなの?」


「熊野は真面目すぎて心配。陽菜は元気すぎて心配」


「ふふ、先輩は大変だ」


「揃いも揃って正反対なんだよ。教え方の正解が、毎回違う」


「でも、ちょっと楽しそうだよ?」


「……まぁ、な」


 否定は、しなかった。


 * * *


 それから、澪は少しだけ、声を落とした。


「……汐乃さんのこと、ずっと考えてるの」


「ああ」


「私たちに、できることって、あるのかな」


「……わからん。けど」


 俺は、ハンドルを握り直した。


「あの人は、黙って椅子を明け渡すような人じゃない。『考える。急がずに』って言ってただろ。……なら、俺たちはその間に、生徒会の足元を固めておくんだ」


「足元?」


「なんでも箱を、ちゃんと機能させる。生徒会がどれだけ生徒の役に立ってるか、誰の目にも見えるようにしておく。……それがいざってとき、汐乃の武器になる」


「……そっか。私たちの係、そういう意味でも、大事なんだね」


「ああ。だから、ほら――これは正真正銘、係の打ち合わせだ」


「ふふっ。うん。打ち合わせだ」


 * * *


 大通りを外れて、桜並木の道に入る。


 人通りが、ふっと途切れた。


 散り際の桜が、風のたびに、はらはらと花びらを降らせている。


 ……ここから先は、澪の家までの、静かな一本道だ。


「――澪」


 呼び方が、切り替わる。


 誰もいない道に入った瞬間、自然と、そうなった。


「ん。……切り替わった」


 澪が、くすっと笑う。


「学校を出てから、二十分ぶり、くらいかな」


「数えてたのかよ」


「数えてないよ。……でも、わかるの」


 ……なんだそれは。


 心臓に、悪い。


 風が吹いて、花びらがひとひら、澪の髪に止まった。


 取ってやろうと、手が半分、持ち上がって。


 ……止まる。


 まだ明るい、外だ。


 どこで誰が見ているか、わからない。


「……髪。花びら、付いてる」


 結局、言葉だけを、そっと手渡した。


「え? ……あ、ほんとだ」


 澪は左手でつまむと、ふ、と息で飛ばした。


 花びらは、くるくると回りながら、夕方の光の中へ消えていく。


 ……伸ばせなかった数センチが、妙に、遠かった。


「……ねえ。気づいてた?」


 少し歩いてから、澪が言った。


「去年の今ごろも、私たち、同じクラスだったんだよ」


「……そうなんだよな」


 言われて、あらためて、不思議な気持ちになる。


 二年A組。


 同じ教室で、一年間、同じ黒板を見ていたはずなのだ。


 なのに、あの頃の俺は、澪のことをほとんど知らなかった。


 優等生の、桜井さん。


 名前と顔が一致する程度の、ただのクラスメイト。


 ……俺は俺で、別の人ばかり、目で追っていたし。


 澪は澪で、あの完璧な“仮面”の中にいた。


「同じ教室にいたのに、お互い、ぜんぜん見えてなかったんだよね」


「……世界が、狭かったんだよ。お互いにな」


「うん。……だから私たちが本当に出会ったのは、秋の、夜のコンビニ」


 レジ越しの、ブラックコーヒー。


 あの一缶からが、始まりだった。


「教室で毎日会ってたのに、出会った場所は夜のコンビニって……変なの」


「いい出会い方だろ、別に」


「ふふ。うん。……世界でいちばん、いい出会い方」


 散る花びらの下で、澪は目を細めた。


「去年の春の私は、同じ教室に大河くんがいたのに、気づいてもいなかった。……もったいないこと、してたなあ」


「……それは、俺も、だけどな」


「だから、今年の春は――去年の私に、ちょっとだけ、自慢したい気分なの」


 ……ずるいだろ、そういうのは。


 からから、と。


 自転車の音だけが、返事の代わりに鳴っていた。


 ……言葉が出てこないとき、この音があってくれて、助かる。


 * * *


 桜並木を抜けると、道の先に、見慣れた白い塀が見えてきた。


 澪の家だ。


「……ここまでで、大丈夫」


 塀の手前、少し離れた曲がり角で、澪が立ち止まった。


「ん。……ああ」


「ねえ、大河くん」


「なんだよ」


「……今日は、遠回りしてくれて、ありがと」


 ……そうだった。


 お互いの家がどっちにあるかなんて、とっくに知っている仲なのだ。


 口実なんて、最初から、意味がなかった。


「あ、いや……ほら」


 視線が、勝手に泳いだ。


「……一緒に、いたかったし」


 言ってから、耳が熱くなった。


 ……何を素直に白状しているんだ、俺は。


 澪は、目を少し丸くして。


 それから――ぱっと、花が咲くみたいに笑った。


「……うんっ。私も」


 澪は、鞄を持ち直して。


 二歩だけ歩いて、振り返った。


「――またね、大河くん。打ち合わせの続きも、しようね」


「おう。……また明日」


 夕日の中を、澪が小さく手を振って、歩いていく。


 白い塀の角を曲がって、その姿が見えなくなるまで。


 俺は、ハンドルを握ったまま、その場に突っ立っていた。


 ……ちなみに。


 四十分も歩いたのに、肝心の“係の打ち合わせ”は、ひとつも進んでいない。


 まぁ、いいのである。そういう日も。


 * * *


 帰り道は、自転車にまたがった。


 ペダルを踏むと、来た道が、するすると背中へ流れていく。


 ……四十分かけて歩いた道は、十五分で終わってしまった。


 遠回りというのは、どうやら。


 距離の話でも、時間の話でもなくて。


 ――誰と歩くか、の話らしい。


 春の夕焼けが、車輪の音と一緒に、後ろへ流れていく。


 ……これで、新学期の最初の一週間が、終わる。


 クラスも、バイト先も、生徒会も。


 なにもかもが新しくなって、悩みの種と楽しみの種が、同じくらい撒かれた七日間だった。


 ――前途は、相変わらず、多難である。


 だが、不思議と、怖くはなかった。


 隣を歩いてくれる人がいて。


 背中を任せられる仲間がいて。


 夕焼けの向こうには、明日が待っている。


 ……さあ。


 難題だらけの、俺たちの三年生の――始まりだ。


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