第128話 よろしくお願いします、先輩!
体力テストで、体はへとへとだった。
握力も、反復横跳びも、持久走も。
三年A組の化け物どもに囲まれて、平均ど真ん中を叩き出した一日は――まぁ、それはそれで、なかなかに楽しかった。
が、楽しいのと、疲れないのは、話が別だ。
体のあちこちが、じんわりと重い。
おまけに、放課後は放課後で、生徒会の仕事が待っていた。
新学期の生徒会は、行事の準備だのなんだので、とにかく慌ただしい。
あれこれ片づけて、生徒会室を出た頃には、外はもう、夕方だった。
……だが、俺の一日は、まだ終わらない。
今日は、そのうえ、バイトの日ときた。
疲れた体を引きずるように、コンビニの裏口へ回る。
いつも通りの手つきで、ドアノブを回す。
いつも通りの気分で、バックヤードのドアを開けた。
――その、瞬間だった。
「おはようございます! 先輩っ!」
やたらと元気のいい声が、真正面から飛んできた。
ぴょこん、と跳ねるような、お辞儀。
肩で切りそろえた、明るい髪。
少し垂れた、大きな瞳。
その、太陽みたいな笑顔を――俺は、知っていた。
いやというほど、知っていた。
「……深山、陽菜」
「はいっ! 深山陽菜、今日からお世話になります! ――よろしくお願いします、先輩っ!」
衝撃。
というより、もう、混乱だった。
(……なんで、この子が、ここに)
いや。
……そういえば、昨日。
店長が、言っていたじゃないか。
もう一人の新人は、今日から入る、と。
そして、その少し前にも――
『――君の、よーく知ってる顔なんだなぁ』
と、思わせぶりに、笑っていた。
疲れていて、すっかり頭から抜けていたけど。
(……あの“知ってる顔”、こいつのことだったのか)
――と、そこで、もうひとつ。
今日の昼間の記憶が、蘇った。
体力テストのグラウンドで、深山が言いかけて、飲み込んだ言葉。
『実は……僕の、妹の――』
(……あれも、これのことか……!)
道理で、あいつ、あんな辛気くさい顔をしていたわけだ。
* * *
そもそも、うちの高校は、そう簡単にバイトができる学校じゃない。
家庭の事情でもなければ、まず許可は下りない。
……いや。
“去年までは”、の話だ。
去年、生徒会で通した、校則改革。
部活動の代わりに、アルバイトや習い事を“自由意志”として認める――。
その提案の、旗振り役をやったのは。
ほかでもない、この俺だった。
そして、今年の四月から、その制度は正式に施行されている。
(……そうか。じゃあ陽菜は、あの制度の一期生ってわけか)
妙な感慨に浸ったのも、束の間。
ふいに、忘れかけていた記憶が、頭をもたげた。
今年の、バレンタイン。
この陽菜から、俺は、チョコレートと手紙を、受け取っている。
やたらと高そうな、立派なチョコと。
まっすぐで、一生懸命な――告白の、手紙を。
……そうだった。
俺はあのとき、柄にもなく本気で悩んで。
ホワイトデーに、返事の手紙まで、書いたんだった。
(……うわ。思い出したら、なんか、急に恥ずかしくなってきたぞ)
告白された記憶なんてものは、当時よりも、こうして本人を目の前にした今のほうが、よっぽど照れくさい。
俺は、火照りそうになる頬を持て余して、つい、あらぬ方向を見つめてしまった。
「先輩ー? なんだか、遠い目してますけど」
「……いや。なんでもない」
きょとんと首をかしげる陽菜に、俺は、力なく首を振った。
――と、そのとき。
「深山さーん。ちょっといいかい? 労働契約書に、印鑑をもらいたいんだけど……持ってきてくれたかな?」
奥から、店長がひょいと顔を出した。
「あ、はーい! 今、行きますっ」
元気よく返事をした陽菜が、店長のもとへ駆けていく――その、直前。
ふっと、俺のほうへ身を寄せてきた。
そして、耳元で。
ほかの誰にも聞こえないくらい、小さな声で、囁く。
「――先輩。私、諦めてませんから」
「……っ」
ぱちん、と。
いたずらっぽいウインクを、ひとつ。
それだけ残して、陽菜は軽い足取りで、店長のほうへ駆けていった。
あとに残された俺は、囁かれた耳を、そっと手で押さえる。
「……勘弁してくれよ、ほんと」
思わずこぼれた声は、幸い、誰の耳にも届かなかった。
* * *
初日の陽菜は、熊野とは、何もかもが正反対だった。
物怖じ、しない。
声が、でかい。
そして、やたらと、距離が近い。
「先輩先輩っ! この段ボールの飲み物、どこに並べるんですか?」
「あー、それはあっちの棚な。……で、新しいやつは奥。手前のは賞味期限が近い順だ」
「へえー! 先輩、教えるの、上手ですねっ」
「……そ、そうか」
「はいっ! さすが、先輩ですっ」
ぐいぐいと、来る。
昨日の熊野が“見ていて心配になる”タイプだったぶん、その真逆の圧に、正直、少したじろいでいた。
(……調子が、狂う)
と、そのとき。
裏口のほうで、ドアの開く音がした。
「お、おはようございます……!」
おずおずと顔を出したのは、熊野だった。
昨日から入ったばかりの、もう一人の新人。
小柄な体に、癖っ毛。そして相変わらずの、直角みたいなお辞儀。
「おう、熊野。おはよう」
「吉野先輩、おはようございます。……あ、あれ?」
熊野が、陽菜に気づいて、目をぱちくりさせた。
「あの、そちらの方は……?」
と――そこへ、のんびりとした声が割り込んだ。
「吉野くーん」
奥から、店長が、ひょいと顔を出す。
「今、ちょうどお客さんも途切れてるだろう? レジをトレーニングモードにして、二人まとめて、教えてあげてくれるかい?」
「あ、はい。了解です」
――なるほど。
どうやら俺は、これから。
この正反対な二人を、いっぺんに教える羽目になるらしい。
教える側になって、まだ二日目。
(……ちゃんと、できるのか。俺)
知らず、少しだけ、肩に力が入った。
――と。
その店長の言葉に、陽菜が、ほんの一瞬だけ。
むっ、と、唇を尖らせた気がした。
まるで、「先輩と二人きりじゃ、なくなっちゃった」とでも言いたげに。
……まぁ、気のせい、かもしれないが。
だが、それも、一瞬のこと。
「まっ、いっか! 新人同士、仲良くやりますっ」
陽菜は、すぐにいつもの調子で、けろっと笑ってみせた。
* * *
「じゃあ、まずは……二人とも、自己紹介からだな」
俺が促すと、陽菜が、ぴょこんと手を挙げる。
「はいっ! 二年の、深山陽菜ですっ。よろしくお願いしますっ」
「に、二年の……先輩、なんですね」
熊野が、慌てて背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「一年の、熊野潤です。ふ、不束者ですが……よろしくお願いします、深山さん」
「ふふっ。熊野くん、めちゃくちゃ礼儀正しいねー」
「そ、そうでしょうか……」
「うん。でも、そんなにかしこまらなくて平気だよ? 同じ新人同士なんだしっ」
「は、はい。……善処します、深山さん」
「善処て」
思わず、俺は吹き出しそうになった。
物怖じしない陽菜と、縮こまる熊野。
……なんというか。
やたらと人懐っこい犬と、警戒心の強い子猫を、同時に預かった気分だ。
「で、これがレジだ。今は練習用のモードにしてあるから、何回打ち間違えても平気だぞ」
「「はいっ」」
……返事の声量が、見事に、倍くらい違う。
基本の操作を、ひとつずつ教えていく。
熊野は、教えるそばから、律儀にメモを取り。
陽菜は、メモも取らず、どんどん手を動かして覚えていく。
教え方の“正解”が、二人でまるっきり違うのだ。
(……これは、思ったより、骨が折れそうだな)
それでも。
操作に詰まった熊野へ、陽菜が「あ、そこ、こうだよっ」と横から助け船を出して。
熊野が「ありがとうございます、深山さん」と、ぺこりと頭を下げる。
その光景は……なんというか、悪くなかった。
* * *
――その夜。
シフトを上がって、着替えを済ませる。
~♪
自動ドアを抜けて、表へ出ると。
春の夜風が、まだほんの少しだけ、冷たかった。
そして、店の正面。
青いベンチには。
缶コーヒーを二本、抱えた澪が、いつものように、俺を待っていた。
「あ。おつかれさま、大河く――」
その、澪の言葉が。
途中で、ぴたりと、止まった。
視線の先。
俺の背後から、ひょこっと顔を出した、新人の後輩。
「……あれ? 桜井、先輩?」
陽菜の声が、ワントーン、低くなる。
澪の、缶コーヒーを持つ手が、ぴくり、と固まった。
春の月に照らされた、コンビニの前で。
二人の視線が、まっすぐに、交差する。
(…………うわぁ)
嫌な予感というのは、大抵、当たるものだ。
俺のいちばん心臓に悪い春は、どうやら、まだ、始まったばかりらしかった。




