第126話 先輩と呼ばれる日
――翌日。
放課後、いつも通りコンビニの裏口を開けると、店内の空気がいつもと違っていた。
レジの前で、直角に近い角度でお辞儀をしている少年がひとり。
「よ、よろしくお願いします……!」
声が、裏返っている。
小柄で、華奢な体つき。
茶色がかった、ふわふわの癖っ毛。
黙っていれば物静かで大人しそうな――正直、女の子と見間違えそうなくらい、可愛い顔立ちの男の子だった。
(……ああ、これが)
「吉野くん、おはよう。彼が新人の熊野くん。今日からよろしくね」
店長に紹介されて、その子――熊野潤くんは、ガチガチに固まったまま、もう一度頭を下げた。
「熊野潤です。一年です。……せ、先輩、よろしくお願いします!」
「せ……」
一瞬、言葉に詰まった。
先輩。
その響きに、心臓が、ぴくりと跳ねる。
(……先輩、か)
ずっと、誰かに向けて使う言葉だった。
夜のコンビニで、教育係だったあの人に。
振られても、東京へ旅立っても、変わらず呼び続けたあの言葉。
それが今日から、俺に向けられる番になった。
「お、おう。吉野大河だ。よろしくな、熊野」
「はい!」
元気のいい返事に、思わず頬が緩む。
……くすぐったい。
柄にもなく、そう思った。
* * *
初日の熊野は、とにかく一生懸命だった。
レジの操作を教えれば、メモを取りながら三回聞き返す。
品出しをやらせれば、商品の向きを揃えすぎて逆に時間がかかる。
「熊野、それはもうちょい適当でいいから」
「て、適当……はい、頑張ります!」
「いや、頑張るところがちょっと違うんだけどな」
まっすぐすぎて、危なっかしい。
見ていて、こっちが心配になってくるタイプだ。
(――ああ、そうか)
ふと、思い出す。
俺も、最初はこうだったんだろうか。
……いや、違うな。
あのときの俺は、もっと荒れてたし、もっとひどかった。
――人として。
『いい? まずは基本の姿勢から』
『はい……!』
『あ、そんな気合い入れなくていいから。肩の力抜いて』
夜のコンビニで、初めてエプロンを着けた日。
渚先輩は、いつも軽い調子で、でも肝心なところだけはしっかり教えてくれた。
叱るときも、笑いながら。
褒めるときも、さらっと。
……あの人の教え方は、たぶん、才能だったんだと思う。
「吉野先輩?」
「あ、悪い。ぼーっとしてた」
「大丈夫ですか……? 僕、なにか変なことしましたか」
「してないよ。ただ、ちょっと昔のこと思い出しただけだ」
熊野が、きょとんとした顔をする。
その顔が妙に純朴で、また少し、頬が緩んだ。
* * *
休憩時間、バックヤードでペットボトルのお茶を飲みながら、熊野がぽつりと言った。
「あの……吉野先輩は、いつからこの店で働いてるんですか」
「もう三年目だな。一年の頃からずっと」
「三年……! すごいです」
その素直な尊敬の眼差しが、少しだけこそばゆい。
「すごくないよ、別に。俺だって最初は、お前と同じくらいテンパってた」
「え、先輩でも……?」
「当たり前だろ。誰だって最初は新人だ」
言いながら、また、あの人の顔が浮かんだ。
教える立場になって、初めて分かることがある。
あの人が、どれだけ辛抱強く、俺を見てくれていたか。
(今度は俺の番、か)
柄にもなく、そんなことを思う。
「先輩」
「ん?」
「僕、頑張ります。……早く、先輩みたいになれるように」
真剣な顔で言われて、思わず苦笑した。
「そんな急ぐことないだろ。まずはレジ、ちゃんと打てるようになろうぜ」
「は、はい!」
……この調子だと、先が思いやられそうだ。
でも、悪くない。
誰かに「先輩」と呼ばれる毎日というのは、思っていたより、悪くなかった。
* * *
夕方のシフトが終わる頃、店長が奥から顔を出した。
「二人とも、お疲れさま。……あ、そうだ吉野くん」
「はい」
「もう一人の新人さんは、明日からね。今日は都合が合わなかったみたいで」
「あ、そうなんですか」
――店長の「よーく知ってる顔」発言のことは、まだ気になっている。
だが、熊野の教育で頭がいっぱいで、それどころではなかった。
……まぁ、明日には分かるだろう。
そう軽く考えていた俺は、この時、まだ知らなかった。
その「知ってる顔」が、どれほど俺の心臓に悪いかを。
* * *
――その夜。
夕飯と風呂を済ませた俺は、机に向かって英単語帳と睨めっこしていた。
三年生になったからには、勉強もこれまで以上に本気でやらなければならない。
目指すは、東大。
……道のりは、果てしなく遠い。
ぶぶ、と。
机の上のスマホが、短く震えた。
『おつかれさま。新人くん、どうだった?』
澪からのラインだった。
単語帳を閉じる言い訳ができたことに、少しほっとしつつ、返信する。
『めちゃくちゃ真面目。真面目すぎて心配になるレベル』
『ふふ、なにそれ』
『品出しで商品の向き揃えすぎて進まない』
『いい子じゃない』
『いい子なんだよなぁ』
ぽんぽんと、他愛ないやりとりが続く。
と――しばらくして、返信が止まった。
(……寝たか?)
そう思った矢先。
ぶぶぶ、ぶぶぶ、と。
スマホが、着信を告げて震え出した。
画面には『桜井澪』の四文字。
「っ」
慌てて、通話ボタンを押す。
「も、もしもし」
『……あ。出た』
「出るだろ、そりゃ」
『ふふ。だよね』
電話越しの澪の声は、ラインの文字より、ずっとやわらかい。
「どうした? なんかあったか」
『ううん。……なんにも』
「なんにも?」
『うん。なんにも』
……なんだそれ、と思いつつ。
悪い気は、まったくしないのだった。
『あのね、明日……関山さんを、お昼に誘ってみようと思うの』
「お、いいじゃん」
『彩花ちゃんと三人で。……緊張するけど』
「大丈夫だろ。断られても、澪のせいじゃないし」
『……うん。ありがと』
ふ、と受話口の向こうで、息をつく気配がした。
夜の静けさに、互いの息づかいだけが乗っている。
……この沈黙が気まずくないのが、なんだか不思議だ。
「……なぁ、澪」
『なに?』
「今日、ほんとに用事なかったのか」
『…………』
長い、間。
やがて、蚊の鳴くような声がした。
『……声、聞きたかっただけ。……だめ?』
「っ〜〜〜」
だめなわけが、あるか。
声にならない声を噛み殺して、俺はベッドに倒れ込みそうになるのを堪えた。
「……だめじゃ、ないです」
『ふふっ、なんで敬語?』
「うるさいな……不意打ちは、そっちだろ」
『えへへ』
……この人は、電話だと少し素直になる。
それがまた、心臓に悪い。
――と、その時だった。
かすかに、ドアの向こうから声がした。
『……ふふ、青春ねぇ』
『んふふー。お兄ちゃん、デレッデレです』
(…………ん?)
聞き間違いだろうか。
いや、聞き間違いじゃない。
『しっ、静かに。ばれちゃうでしょ』
『母さんこそ、笑いすぎです』
(…………)
俺はスマホを持ったまま、静かに立ち上がった。
足音を殺して、ドアへ向かう。
そして――勢いよく、開けた。
「なにやってんだ、二人とも!」
「「あ」」
廊下にしゃがみ込んだ母さんと瑞希が、そろって俺を見上げた。
母さんの手には、湯呑み。
瑞希の手には、なぜかポテチの袋。
完全に、観戦体勢である。
「あらあら。ばれちゃった」
「んふふー。お兄ちゃん、続きどうぞ?」
「どうぞ、じゃない! 勉強の邪魔だから解散!」
二人を追い払って、ドアを閉める。
……まったく、うちの家族は。
『……ふふっ。あははっ』
電話の向こうで、澪が堪えきれずに吹き出していた。
『にぎやかだね、大河くんの家』
「……笑いごとじゃないんだよなぁ、こっちは」
『ふふ、ごめんね。……でも、いいなぁ。そういうの』
その声があんまり嬉しそうだったから。
まぁいいか、と思ってしまった俺は、たぶん相当、単純である。
「……じゃあ、そろそろ切るな。明日、頑張れよ。お昼」
『うん。大河くんも、新人くんのこと、頑張ってね』
「おう。……おやすみ、澪」
『……おやすみなさい、大河くん』
通話の切れたスマホを、しばらく眺める。
窓の外では、春の月が、やけに明るかった。
――英単語帳の続きに戻れたのは、それから三十分も後のことである。




