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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第13章 前途多難な新学期編

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第126話 先輩と呼ばれる日

 ――翌日。


 放課後、いつも通りコンビニの裏口を開けると、店内の空気がいつもと違っていた。


 レジの前で、直角に近い角度でお辞儀をしている少年がひとり。


「よ、よろしくお願いします……!」


 声が、裏返っている。


 小柄で、華奢な体つき。


 茶色がかった、ふわふわの癖っ毛。


 黙っていれば物静かで大人しそうな――正直、女の子と見間違えそうなくらい、可愛い顔立ちの男の子だった。


(……ああ、これが)


「吉野くん、おはよう。彼が新人の熊野くん。今日からよろしくね」


 店長に紹介されて、その子――熊野潤くんは、ガチガチに固まったまま、もう一度頭を下げた。


「熊野潤です。一年です。……せ、先輩、よろしくお願いします!」


「せ……」


 一瞬、言葉に詰まった。


 先輩。


 その響きに、心臓が、ぴくりと跳ねる。


(……先輩、か)


 ずっと、誰かに向けて使う言葉だった。


 夜のコンビニで、教育係だったあの人に。


 振られても、東京へ旅立っても、変わらず呼び続けたあの言葉。


 それが今日から、俺に向けられる番になった。


「お、おう。吉野大河だ。よろしくな、熊野」


「はい!」


 元気のいい返事に、思わず頬が緩む。


 ……くすぐったい。


 柄にもなく、そう思った。


 * * *


 初日の熊野は、とにかく一生懸命だった。


 レジの操作を教えれば、メモを取りながら三回聞き返す。


 品出しをやらせれば、商品の向きを揃えすぎて逆に時間がかかる。


「熊野、それはもうちょい適当でいいから」


「て、適当……はい、頑張ります!」


「いや、頑張るところがちょっと違うんだけどな」


 まっすぐすぎて、危なっかしい。


 見ていて、こっちが心配になってくるタイプだ。


(――ああ、そうか)


 ふと、思い出す。


 俺も、最初はこうだったんだろうか。


 ……いや、違うな。


 あのときの俺は、もっと荒れてたし、もっとひどかった。


 ――人として。


『いい? まずは基本の姿勢から』


『はい……!』


『あ、そんな気合い入れなくていいから。肩の力抜いて』


 夜のコンビニで、初めてエプロンを着けた日。


 渚先輩は、いつも軽い調子で、でも肝心なところだけはしっかり教えてくれた。


 叱るときも、笑いながら。


 褒めるときも、さらっと。


 ……あの人の教え方は、たぶん、才能だったんだと思う。


「吉野先輩?」


「あ、悪い。ぼーっとしてた」


「大丈夫ですか……? 僕、なにか変なことしましたか」


「してないよ。ただ、ちょっと昔のこと思い出しただけだ」


 熊野が、きょとんとした顔をする。


 その顔が妙に純朴で、また少し、頬が緩んだ。


 * * *


 休憩時間、バックヤードでペットボトルのお茶を飲みながら、熊野がぽつりと言った。


「あの……吉野先輩は、いつからこの店で働いてるんですか」


「もう三年目だな。一年の頃からずっと」


「三年……! すごいです」


 その素直な尊敬の眼差しが、少しだけこそばゆい。


「すごくないよ、別に。俺だって最初は、お前と同じくらいテンパってた」


「え、先輩でも……?」


「当たり前だろ。誰だって最初は新人だ」


 言いながら、また、あの人の顔が浮かんだ。


 教える立場になって、初めて分かることがある。


 あの人が、どれだけ辛抱強く、俺を見てくれていたか。


(今度は俺の番、か)


 柄にもなく、そんなことを思う。


「先輩」


「ん?」


「僕、頑張ります。……早く、先輩みたいになれるように」


 真剣な顔で言われて、思わず苦笑した。


「そんな急ぐことないだろ。まずはレジ、ちゃんと打てるようになろうぜ」


「は、はい!」


 ……この調子だと、先が思いやられそうだ。


 でも、悪くない。


 誰かに「先輩」と呼ばれる毎日というのは、思っていたより、悪くなかった。


 * * *


 夕方のシフトが終わる頃、店長が奥から顔を出した。


「二人とも、お疲れさま。……あ、そうだ吉野くん」


「はい」


「もう一人の新人さんは、明日からね。今日は都合が合わなかったみたいで」


「あ、そうなんですか」


 ――店長の「よーく知ってる顔」発言のことは、まだ気になっている。


 だが、熊野の教育で頭がいっぱいで、それどころではなかった。


 ……まぁ、明日には分かるだろう。


 そう軽く考えていた俺は、この時、まだ知らなかった。


 その「知ってる顔」が、どれほど俺の心臓に悪いかを。


 * * *


 ――その夜。


 夕飯と風呂を済ませた俺は、机に向かって英単語帳と睨めっこしていた。


 三年生になったからには、勉強もこれまで以上に本気でやらなければならない。


 目指すは、東大。


 ……道のりは、果てしなく遠い。


 ぶぶ、と。


 机の上のスマホが、短く震えた。


『おつかれさま。新人くん、どうだった?』


 澪からのラインだった。


 単語帳を閉じる言い訳ができたことに、少しほっとしつつ、返信する。


『めちゃくちゃ真面目。真面目すぎて心配になるレベル』


『ふふ、なにそれ』


『品出しで商品の向き揃えすぎて進まない』


『いい子じゃない』


『いい子なんだよなぁ』


 ぽんぽんと、他愛ないやりとりが続く。


 と――しばらくして、返信が止まった。


(……寝たか?)


 そう思った矢先。


 ぶぶぶ、ぶぶぶ、と。


 スマホが、着信を告げて震え出した。


 画面には『桜井澪』の四文字。


「っ」


 慌てて、通話ボタンを押す。


「も、もしもし」


『……あ。出た』


「出るだろ、そりゃ」


『ふふ。だよね』


 電話越しの澪の声は、ラインの文字より、ずっとやわらかい。


「どうした? なんかあったか」


『ううん。……なんにも』


「なんにも?」


『うん。なんにも』


 ……なんだそれ、と思いつつ。


 悪い気は、まったくしないのだった。


『あのね、明日……関山さんを、お昼に誘ってみようと思うの』


「お、いいじゃん」


『彩花ちゃんと三人で。……緊張するけど』


「大丈夫だろ。断られても、澪のせいじゃないし」


『……うん。ありがと』


 ふ、と受話口の向こうで、息をつく気配がした。


 夜の静けさに、互いの息づかいだけが乗っている。


 ……この沈黙が気まずくないのが、なんだか不思議だ。


「……なぁ、澪」


『なに?』


「今日、ほんとに用事なかったのか」


『…………』


 長い、間。


 やがて、蚊の鳴くような声がした。


『……声、聞きたかっただけ。……だめ?』


「っ〜〜〜」


 だめなわけが、あるか。


 声にならない声を噛み殺して、俺はベッドに倒れ込みそうになるのを堪えた。


「……だめじゃ、ないです」


『ふふっ、なんで敬語?』


「うるさいな……不意打ちは、そっちだろ」


『えへへ』


 ……この人は、電話だと少し素直になる。


 それがまた、心臓に悪い。


 ――と、その時だった。


 かすかに、ドアの向こうから声がした。


『……ふふ、青春ねぇ』


『んふふー。お兄ちゃん、デレッデレです』


(…………ん?)


 聞き間違いだろうか。


 いや、聞き間違いじゃない。


『しっ、静かに。ばれちゃうでしょ』


『母さんこそ、笑いすぎです』


(…………)


 俺はスマホを持ったまま、静かに立ち上がった。


 足音を殺して、ドアへ向かう。


 そして――勢いよく、開けた。


「なにやってんだ、二人とも!」


「「あ」」


 廊下にしゃがみ込んだ母さんと瑞希が、そろって俺を見上げた。


 母さんの手には、湯呑み。


 瑞希の手には、なぜかポテチの袋。


 完全に、観戦体勢である。


「あらあら。ばれちゃった」


「んふふー。お兄ちゃん、続きどうぞ?」


「どうぞ、じゃない! 勉強の邪魔だから解散!」


 二人を追い払って、ドアを閉める。


 ……まったく、うちの家族は。


『……ふふっ。あははっ』


 電話の向こうで、澪が堪えきれずに吹き出していた。


『にぎやかだね、大河くんの家』


「……笑いごとじゃないんだよなぁ、こっちは」


『ふふ、ごめんね。……でも、いいなぁ。そういうの』


 その声があんまり嬉しそうだったから。


 まぁいいか、と思ってしまった俺は、たぶん相当、単純である。


「……じゃあ、そろそろ切るな。明日、頑張れよ。お昼」


『うん。大河くんも、新人くんのこと、頑張ってね』


「おう。……おやすみ、澪」


『……おやすみなさい、大河くん』


 通話の切れたスマホを、しばらく眺める。


 窓の外では、春の月が、やけに明るかった。


 ――英単語帳の続きに戻れたのは、それから三十分も後のことである。

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