第125話 夜だけの特権
――で、その日の夜である。
時刻は、夜九時半。
バイトを上がって裏口から表に回ると、思わず足が止まった。
グレーのスウェットに、白いスニーカー。
下ろした髪に、片耳の白いイヤホン。
店の前の青いベンチに、夜の姿の桜井さんが座っていた。
膝の上には、缶コーヒーが二本。
「……お疲れさま、大河くん」
「桜井さん。来てたのか」
……言ってから、はたと気づいた。
ここは、夜のコンビニ。
周りには、誰もいない。
……つまり、あれだ。
呼んでも、いいやつだ。
「…………み、澪。来てたのか」
「ふふっ」
言い直した俺に、桜井さんは肩を揺らした。
「あ、今は、そう呼んでくれるんだ?」
「……悪い。癖で」
「いいよ。さすがに学校じゃ、私も照れるもん。……それに、まだみんな知らないわけだし」
「だよな」
「うん。だから当分、名前は――夜だけの特権、だね」
そう言って、桜井さんは膝の上の缶コーヒーを、ひょいと差し出した。
「はい、これ」
SAKURA COFFEEのブラック、ホット。
俺は礼を言って受け取り、隣に腰を下ろした。
プシュ。
プルタブの音が、春の夜気に小さく響いた。
桜井さんは左手で缶を傾けて、ひと口。
「……ん。おいしい」
「今夜は冷えなくてよかったな」
「うん。……それにしても、すごい一日だったね」
「ああ、まったくだ」
新しいクラスに、謎の編入生。
おまけに、締めくくりはあの「溺愛」発言である。
思い返すだけで、頭がくらくらしてくる。
「……ねぇ、大河くん。関山さんのこと、なんだけど」
「ん?」
「私、今日……『友達になろう』って言っちゃったでしょ。……あれ、おせっかいだったかな」
桜井さんは、缶を両手で包みながら、ぽつりと言った。
「だって、あの人……教室で、ひとりぼっちだったから。なんだか――昔の私を、見てるみたいで」
(……昔の、か)
夜のコンビニにしか、居場所のなかった頃の桜井さん。
昼の顔と夜の顔を、使い分けていた頃の桜井さん。
……なるほど。
クラスの誰より早く、あの人に声をかけられたわけだ。
「おせっかいなんかじゃないだろ。……それにさ」
「それに?」
「『お友達とは何をすればよろしいの』って聞かれて、ちゃんと答えられるやつ、なかなかいないぞ」
「ふふっ、なにそれ」
桜井さんが、ようやく笑った。
「でも……ほんとに、何にも知らないみたいだったの。お友達も、学校も、ぜんぶ」
「……ああ」
「だから私、決めたんだ。時間はかかっても、ちゃんと“お友達”になるって」
そう言い切った横顔は、春の夜でも分かるくらい、まっすぐだった。
(……強くなったよなぁ、ほんと)
一年前、この場所で泣いていた人と同じ人とは思えない。
「……なに? じっと見て」
「いや。……澪は、すごいなって」
「〜〜〜っ! ふ、不意打ちで名前呼ぶの、禁止……!」
声が裏返っている。
耳まで赤い。
桜井さんが、俺の肩をぺしぺしと叩いてくる。
(……ふっ。勝った)
「青春だねぇ」
「「うわぁ!?」」
いつの間にか、背後に店長が立っていた。
この人の背後取りは、何年経っても慣れる気がしない。
「て、店長。心臓に悪いですって……」
「ははは、ごめんごめん。……ああ、そうだ吉野くん。明日から新人さんが入るから、教育係よろしくね」
「あ、はい。聞いてます。熊野くん、でしたっけ」
「うん、彼も入るよ。――で、もう一人ね」
「……え? 二人なんですか?」
店長は眼鏡の奥の目を、いたずらっぽく細めた。
「ふふふ。それがねぇ――君の、よーく知ってる顔なんだなぁ」
(……知ってる顔?)
俺と桜井さんは、思わず顔を見合わせた。
店長は「明日のお楽しみだねぇ」と笑うだけで、それ以上は教えてくれない。
春の夜風が、葉桜をさらりと揺らしていく。
手の中の缶コーヒーは、まだ十分にあたたかい。
……なんだろう。
嫌な予感しか、しなかった。




