第121話 それは反則 ver.2
桜が、散りはじめていた。
春休みも、もう残りわずか。
来週になれば、新学期。
俺たちは、いよいよ高校三年生になる。
(……なんて言っても、まだ実感なんて、これっぽっちも湧かないんだけどな)
いや。実感が湧かないのは、学年のことだけじゃない。
――あの夜。
青いベンチで交わした、あの言葉。
『喜んで』
たったの一言で、俺と桜井さんは“付き合う”ことになった。
なったんだ、けど。
(……ここから、どうすりゃいいのか、まったくわからん)
学年一位を取っても、生徒会副会長になっても。
こういう問題だけは、いつまで経っても答えが出ない。
* * *
「お兄ちゃーん。なにを百年も、クローゼットの前でうなってるのー?」
洗面所から顔を出したのは、妹の瑞希だった。
つい数日前まで熱で寝込んでいたくせに、今はもうすっかり元気そうだ。
「別に、うなってねぇよ」
「うなってたって。……朝から三回も鏡見てたでしょ」
俺は、手に取ったシャツを戻す。
「今日さ、桜井さんと出かけるんだよ」
「知ってまーす。んふふー」
「……お前、熱ぶり返すぞ」
「もう下がったもん。それより」
瑞希は腕を組んで、じっと俺を見上げる。
「ねえ、お兄ちゃん。ひとつ聞いていい?」
「なんだよ」
「お兄ちゃんって、澪さんのこと……まだ『桜井さん』って呼んでるの?」
「――っ」
喉の奥で、言葉が引っかかった。
「……そりゃ、まぁ」
「もう恋人なのに?」
「こ、恋人って、お前な」
「事実でしょ」
ぐうの音も出ない。
「向こうはさ、とっくにお兄ちゃんを『大河くん』って呼んでるじゃん。ずーっと前から」
「……」
そうだ。
あれは確か、渚先輩がまだいた頃。
俺が副会長を引き受けるって、電話で伝えた夜。
桜井さんは、あの日から俺を「大河くん」と呼ぶようになった。
(俺は……ずっと、桜井さんのままだ)
「なーんて。まあ、そこはお兄ちゃんのペースでいいと思うけどね」
瑞希はそう言って、ひらひらと手を振る。
「でも、女の子はね。案外、そういうところ、気にしてたりするから」
「……妙に、大人ぶりやがって」
「んふふー。じゃ、いってらっしゃい。……“お兄ちゃんの彼女”によろしくね!」
「うるさいっ」
俺は逃げるように、家を出た。
でも、玄関のドアを閉めたあとも、瑞希の言葉は妙に耳に残っていた。
(桜井さん、か……)
* * *
待ち合わせは、家からほど近い、あの公園だった。
いつだったか、桜井さんを自転車の後ろに乗せて、逃げるみたいに転がり込んだ場所。
古びたブランコと、缶コーヒーの夜。
あれが、そもそもの始まりだったのかもしれない。
その公園の桜が、今、はらはらと散っていた。
「大河くん!」
声のほうを振り返ると、彼女がいた。
制服でも、グレーのスウェットでもない。
春らしい淡い色のワンピースに、薄手のカーディガン。
肩から提げた小さなバッグには――
見覚えのある、青い目をしたクマのぬいぐるみが、ちょこんとぶら下がっている。
(……大事にするね、って言ってたもんな)
なんだか、それだけで、胸のあたりが妙にあたたかくなった。
「待たせたか?」
「ううん。私も今来たとこ」
桜井さんは、少しだけ照れたように、左の指先で前髪を整えた。
見慣れたはずのその仕草が、今日はなぜだか、直視できない。
「あのね、大河くん。じゃーん」
彼女が、両手で掲げてみせたのは、大きめの布包み。
「もしかして……弁当?」
「うん! 作ってきたの。
お金を使わないデートも、いいなって思って」
「……お、おぉ」
桜井さんの家は、この街でも指折りの豪邸だ。家政婦さんも、秘書さんもいる。
そんなお嬢様が、うちみたいな貧乏所帯に気をつかって、弁当を作ってきてくれた。
その気づかいが、じんわりと沁みる。
「気をつかわせたか?」
「ううん、ぜんぜん。私が作りたかったの。……だめ?」
「だめじゃない。すげぇ、嬉しい」
言ってから、自分でも驚くくらい、素直な声が出たなと思った。
桜井さんは、ぱっと花が咲くみたいに笑う。
「じゃあ、いこ! いい場所、探そ」
* * *
散った花びらが、ベンチの上にうっすら積もっていた。
俺たちは、それを手で払ってから、並んで腰を下ろした。
包みを開くと、湯気の名残みたいな、いい匂いが立ちのぼる。
玉子焼き。
からあげ。
俵型のおにぎり。
どれも、丁寧に、きれいに詰められている。
「わ、すげぇ。売りもんみたいだ」
「ふふ、大げさだよ」
桜井さんは、箸を左手に持ち替えて、玉子焼きをひとつ、俺の皿にのせてくれた。
その、左手。
初めて会った日、右手の甲に宿題のメモを書いていた、あの手だ。
「はい、大河くん。あーん……は、さすがに恥ずかしいから、自分で食べてね」
「自分で言って自分で照れるなよ」
「うるさいなー」
俺は玉子焼きを口に運ぶ。
――甘さと、出汁の塩気。ちょうどいい。
「……うまい。ほんとに、うまいよ」
「ほんと? よかったぁ」
彼女は、心底ほっとしたように、胸に手を当てた。
俺は、以前この子が言っていた夢を思い出す。
調理師になりたい、と。
大阪の、専門学校へ行くつもりだ、と。
……大阪。
俺の目指す東京とは、真逆の街。
「なあ、桜井さん」
「なに?」
「桜井さんはさ。ぜったい、いい調理師になるよ」
一拍、間があった。
桜井さんは、少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくりとうなずく。
「うん。……なる。ぜったいなる」
春の風が、桜の枝を揺らす。
俺たちの間を、いくつもの花びらが通り抜けていった。
「あと一年、あるもんな」
「……うん。あと一年、あるね」
言葉にしなかった“その先”のことは、たぶん、二人とも同じように考えていた。
でも、今日はそれに、フタをする。
だって今は――
この、桜の下の時間のほうが、ずっと大事だから。
* * *
弁当を食べ終えたあと、俺たちはなんとなく、ブランコのほうへ歩いた。
桜井さんが、ちょこんと腰かける。
俺は、その隣。
きい、きい、と、鎖の軋む音だけが、のんびり響く。
「なあ」
「ん?」
……今だ。
言うなら、今しかない。
(桜井さん、じゃなくて――)
「……さ、桜井さ――」
「うん?」
「…………なんでもない」
(だめだ、口が勝手に……!)
耳の後ろが、じわりと熱くなる。
なんてことはない。
たった一文字の名前が、どうしても喉から出てこない。
学年一位の脳みそは、こういうとき、まったく役に立たなかった。
「大河くん、顔、赤くない?」
「き、気のせいだって」
「ふぅん?」
桜井さんは、いたずらっぽく笑って、ブランコをこいだ。
その拍子に、シャンプーの香りが、ふわりと風に乗って届く。
――ずるい。
この匂いだけは、いつだって、俺の心臓を不意打ちしてくるのだ。
* * *
~♪
「いらっしゃいませー」
夜。
結局、俺たちの一日は、いつもの場所に帰ってきた。
あんなに歩いて、笑って、話したのに。
最後は、やっぱり、この夜のコンビニだ。
「おや。今日は二人そろってのお帰りかい?」
バックヤードから、ぬっと店長が顔を出す。
「うわ、店長。だから、後ろから出てくるのやめてくださいって」
「青春だねぇ」
店長は俺の抗議など気にも留めず、自前のブラックコーヒーをひと口すする。
「吉野くん」
「なんですか」
「熱いコーヒーってのはさ」
眼鏡の奥の目を、やわらかく細めて言う。
「猫舌なりに、ちょっとずつ口をつけるから、うまいんだよ。焦って一気に飲んだら、火傷するだけさ」
「……なんの話ですか」
「さぁ、なんだろうねぇ」
店長は、いつものように、曖昧に笑った。
* * *
俺は青いエプロンを脱いで、店の外へ出る。
いつもの、青いベンチ。
そこに、彼女はもういた。
昼間の、少し背伸びしたワンピースじゃない。
見慣れた、グレーのスウェット。
片耳の、白いイヤホン。
でも、俺はどうしてか、こっちの桜井さんのほうに、ほっとする。
「よいしょっと」
俺は、彼女の左隣に腰を下ろした。
青いベンチが、きしりと小さく沈む。
プシュ。
プルタブを倒して、コーヒーをひと口。
「……ふぅ」
「今日、楽しかったね」
「ああ。楽しかった」
「お弁当、また作るね」
「マジか。……楽しみにしとく」
俺たちは、缶を軽く打ち合わせた。
少しだけ苦い、いつものやつ。
でも、もう、冷たくはない。
「ねえ、大河くん」
「ん?」
桜井さんは、缶を両手で包んだまま、ちょっとだけ、いたずらっぽく言った。
「ひとつだけ、わがまま言ってもいい?」
――わがまま。
いつだったか、桜井さんのお父さんに言われた言葉を、なんとなく思い出す。
「言ってみろよ」
「私のこと」
彼女は、ちらっと俺を見上げて、それから、視線を落とす。
「……名前で、呼んでみて、ほしいな」
声の最後が、少しだけ、尻すぼみになった。
「……っ」
やっぱり、そう来たか。
――白状すると。
俺は一度だけ、彼女の名前を呼んだことがある。
電話越しに勉強を教えていて、うっかり寝落ちした彼女に向けて、こっそりと。
でも、桜井さんはそれを知らない。
だから、あれはノーカウントだ。
今度は――ちゃんと、聞こえるように。
「……」
一度、息を吸う。
缶を握る指に、少しだけ力を込めた。
「……澪」
その瞬間。
彼女の肩が、びくっと跳ねた。
「っ……ふぁ……っ」
桜井さんは、缶を取り落としそうになって、慌てて両手で抱え直す。
そして、左手で、意味もなく前髪を整えて。
それから、耐えきれなくなったみたいに、こてん、と俺の肩に額をつけた。
「……はい」
消え入りそうな、裏返った声。
「……ちょっと、不意打ちすぎ、だよ……」
(そっちが言わせたんだろ!?)
と、思ったけれど、言えなかった。
なぜなら、俺の心臓も、さっきから馬鹿みたいにうるさかったからだ。
夜のコンビニの灯りが、俺たち二人を、やさしく照らしている。
敷地の隅の桜が、最後の花びらを、ひとひら、ふたひら、落とした。
――名前を呼ぶ。
ただ、それだけのこと。
人生でいちばん難しいテストみたいだった、たったそれだけのことが、
こんなにも、あたたかい。
このさき何年経っても、俺は彼女を「澪」と呼ぶ。
色のあせた青いベンチで、また同じコーヒーを飲む、あの春の夜まで、ずっと。
――だから、もう少しだけ。
この主人公の初々しさは、そっとしておいてやってほしい。
春の夜は、まだほんの少しだけ、コーヒーがあたたかい。




