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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第12章 サクラ色の春休み編

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第121話 それは反則 ver.2

 

 桜が、散りはじめていた。


 春休みも、もう残りわずか。

 来週になれば、新学期。


 俺たちは、いよいよ高校三年生になる。


(……なんて言っても、まだ実感なんて、これっぽっちも湧かないんだけどな)


 いや。実感が湧かないのは、学年のことだけじゃない。


 ――あの夜。

 青いベンチで交わした、あの言葉。


『喜んで』


 たったの一言で、俺と桜井さんは“付き合う”ことになった。


 なったんだ、けど。


(……ここから、どうすりゃいいのか、まったくわからん)


 学年一位を取っても、生徒会副会長になっても。

 こういう問題だけは、いつまで経っても答えが出ない。


 * * *


「お兄ちゃーん。なにを百年も、クローゼットの前でうなってるのー?」


 洗面所から顔を出したのは、妹の瑞希だった。


 つい数日前まで熱で寝込んでいたくせに、今はもうすっかり元気そうだ。


「別に、うなってねぇよ」


「うなってたって。……朝から三回も鏡見てたでしょ」


 俺は、手に取ったシャツを戻す。


「今日さ、桜井さんと出かけるんだよ」


「知ってまーす。んふふー」


「……お前、熱ぶり返すぞ」


「もう下がったもん。それより」


 瑞希は腕を組んで、じっと俺を見上げる。


「ねえ、お兄ちゃん。ひとつ聞いていい?」


「なんだよ」


「お兄ちゃんって、澪さんのこと……まだ『桜井さん』って呼んでるの?」


「――っ」


 喉の奥で、言葉が引っかかった。


「……そりゃ、まぁ」


「もう恋人なのに?」


「こ、恋人って、お前な」


「事実でしょ」


 ぐうの音も出ない。


「向こうはさ、とっくにお兄ちゃんを『大河くん』って呼んでるじゃん。ずーっと前から」


「……」


 そうだ。


 あれは確か、渚先輩がまだいた頃。

 俺が副会長を引き受けるって、電話で伝えた夜。


 桜井さんは、あの日から俺を「大河くん」と呼ぶようになった。


(俺は……ずっと、桜井さんのままだ)


「なーんて。まあ、そこはお兄ちゃんのペースでいいと思うけどね」


 瑞希はそう言って、ひらひらと手を振る。


「でも、女の子はね。案外、そういうところ、気にしてたりするから」


「……妙に、大人ぶりやがって」


「んふふー。じゃ、いってらっしゃい。……“お兄ちゃんの彼女”によろしくね!」


「うるさいっ」


 俺は逃げるように、家を出た。


 でも、玄関のドアを閉めたあとも、瑞希の言葉は妙に耳に残っていた。


(桜井さん、か……)


 * * *


 待ち合わせは、家からほど近い、あの公園だった。


 いつだったか、桜井さんを自転車の後ろに乗せて、逃げるみたいに転がり込んだ場所。

 古びたブランコと、缶コーヒーの夜。


 あれが、そもそもの始まりだったのかもしれない。


 その公園の桜が、今、はらはらと散っていた。


「大河くん!」


 声のほうを振り返ると、彼女がいた。


 制服でも、グレーのスウェットでもない。


 春らしい淡い色のワンピースに、薄手のカーディガン。

 肩から提げた小さなバッグには――


 見覚えのある、青い目をしたクマのぬいぐるみが、ちょこんとぶら下がっている。


(……大事にするね、って言ってたもんな)


 なんだか、それだけで、胸のあたりが妙にあたたかくなった。


「待たせたか?」


「ううん。私も今来たとこ」


 桜井さんは、少しだけ照れたように、左の指先で前髪を整えた。


 見慣れたはずのその仕草が、今日はなぜだか、直視できない。


「あのね、大河くん。じゃーん」


 彼女が、両手で掲げてみせたのは、大きめの布包み。


「もしかして……弁当?」


「うん! 作ってきたの。

 お金を使わないデートも、いいなって思って」


「……お、おぉ」


 桜井さんの家は、この街でも指折りの豪邸だ。家政婦さんも、秘書さんもいる。


 そんなお嬢様が、うちみたいな貧乏所帯に気をつかって、弁当を作ってきてくれた。


 その気づかいが、じんわりと沁みる。


「気をつかわせたか?」


「ううん、ぜんぜん。私が作りたかったの。……だめ?」


「だめじゃない。すげぇ、嬉しい」


 言ってから、自分でも驚くくらい、素直な声が出たなと思った。


 桜井さんは、ぱっと花が咲くみたいに笑う。


「じゃあ、いこ! いい場所、探そ」


 * * *


 散った花びらが、ベンチの上にうっすら積もっていた。


 俺たちは、それを手で払ってから、並んで腰を下ろした。


 包みを開くと、湯気の名残みたいな、いい匂いが立ちのぼる。


 玉子焼き。

 からあげ。

 俵型のおにぎり。


 どれも、丁寧に、きれいに詰められている。


「わ、すげぇ。売りもんみたいだ」


「ふふ、大げさだよ」


 桜井さんは、箸を左手に持ち替えて、玉子焼きをひとつ、俺の皿にのせてくれた。


 その、左手。


 初めて会った日、右手の甲に宿題のメモを書いていた、あの手だ。


「はい、大河くん。あーん……は、さすがに恥ずかしいから、自分で食べてね」


「自分で言って自分で照れるなよ」


「うるさいなー」


 俺は玉子焼きを口に運ぶ。


 ――甘さと、出汁の塩気。ちょうどいい。


「……うまい。ほんとに、うまいよ」


「ほんと? よかったぁ」


 彼女は、心底ほっとしたように、胸に手を当てた。


 俺は、以前この子が言っていた夢を思い出す。


 調理師になりたい、と。

 大阪の、専門学校へ行くつもりだ、と。


 ……大阪。


 俺の目指す東京とは、真逆の街。


「なあ、桜井さん」


「なに?」


「桜井さんはさ。ぜったい、いい調理師になるよ」


 一拍、間があった。


 桜井さんは、少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくりとうなずく。


「うん。……なる。ぜったいなる」


 春の風が、桜の枝を揺らす。


 俺たちの間を、いくつもの花びらが通り抜けていった。


「あと一年、あるもんな」


「……うん。あと一年、あるね」


 言葉にしなかった“その先”のことは、たぶん、二人とも同じように考えていた。


 でも、今日はそれに、フタをする。


 だって今は――


 この、桜の下の時間のほうが、ずっと大事だから。


 * * *


 弁当を食べ終えたあと、俺たちはなんとなく、ブランコのほうへ歩いた。


 桜井さんが、ちょこんと腰かける。


 俺は、その隣。


 きい、きい、と、鎖の軋む音だけが、のんびり響く。


「なあ」


「ん?」


 ……今だ。


 言うなら、今しかない。


(桜井さん、じゃなくて――)


「……さ、桜井さ――」


「うん?」


「…………なんでもない」


(だめだ、口が勝手に……!)


 耳の後ろが、じわりと熱くなる。


 なんてことはない。

 たった一文字の名前が、どうしても喉から出てこない。


 学年一位の脳みそは、こういうとき、まったく役に立たなかった。


「大河くん、顔、赤くない?」


「き、気のせいだって」


「ふぅん?」


 桜井さんは、いたずらっぽく笑って、ブランコをこいだ。


 その拍子に、シャンプーの香りが、ふわりと風に乗って届く。


 ――ずるい。


 この匂いだけは、いつだって、俺の心臓を不意打ちしてくるのだ。


 * * *


 ~♪


「いらっしゃいませー」


 夜。


 結局、俺たちの一日は、いつもの場所に帰ってきた。


 あんなに歩いて、笑って、話したのに。


 最後は、やっぱり、この夜のコンビニだ。


「おや。今日は二人そろってのお帰りかい?」


 バックヤードから、ぬっと店長が顔を出す。


「うわ、店長。だから、後ろから出てくるのやめてくださいって」


「青春だねぇ」


 店長は俺の抗議など気にも留めず、自前のブラックコーヒーをひと口すする。


「吉野くん」


「なんですか」


「熱いコーヒーってのはさ」


 眼鏡の奥の目を、やわらかく細めて言う。


「猫舌なりに、ちょっとずつ口をつけるから、うまいんだよ。焦って一気に飲んだら、火傷するだけさ」


「……なんの話ですか」


「さぁ、なんだろうねぇ」


 店長は、いつものように、曖昧に笑った。


 * * *


 俺は青いエプロンを脱いで、店の外へ出る。


 いつもの、青いベンチ。


 そこに、彼女はもういた。


 昼間の、少し背伸びしたワンピースじゃない。

 見慣れた、グレーのスウェット。

 片耳の、白いイヤホン。


 でも、俺はどうしてか、こっちの桜井さんのほうに、ほっとする。


「よいしょっと」


 俺は、彼女の左隣に腰を下ろした。


 青いベンチが、きしりと小さく沈む。


 プシュ。


 プルタブを倒して、コーヒーをひと口。


「……ふぅ」


「今日、楽しかったね」


「ああ。楽しかった」


「お弁当、また作るね」


「マジか。……楽しみにしとく」


 俺たちは、缶を軽く打ち合わせた。


 少しだけ苦い、いつものやつ。


 でも、もう、冷たくはない。


「ねえ、大河くん」


「ん?」


 桜井さんは、缶を両手で包んだまま、ちょっとだけ、いたずらっぽく言った。


「ひとつだけ、わがまま言ってもいい?」


 ――わがまま。


 いつだったか、桜井さんのお父さんに言われた言葉を、なんとなく思い出す。


「言ってみろよ」


「私のこと」


 彼女は、ちらっと俺を見上げて、それから、視線を落とす。


「……名前で、呼んでみて、ほしいな」


 声の最後が、少しだけ、尻すぼみになった。


「……っ」


 やっぱり、そう来たか。


 ――白状すると。


 俺は一度だけ、彼女の名前を呼んだことがある。


 電話越しに勉強を教えていて、うっかり寝落ちした彼女に向けて、こっそりと。


 でも、桜井さんはそれを知らない。

 だから、あれはノーカウントだ。


 今度は――ちゃんと、聞こえるように。


「……」


 一度、息を吸う。


 缶を握る指に、少しだけ力を込めた。


「……澪」


 その瞬間。


 彼女の肩が、びくっと跳ねた。


「っ……ふぁ……っ」


 桜井さんは、缶を取り落としそうになって、慌てて両手で抱え直す。


 そして、左手で、意味もなく前髪を整えて。


 それから、耐えきれなくなったみたいに、こてん、と俺の肩に額をつけた。


「……はい」


 消え入りそうな、裏返った声。


「……ちょっと、不意打ちすぎ、だよ……」


(そっちが言わせたんだろ!?)


 と、思ったけれど、言えなかった。


 なぜなら、俺の心臓も、さっきから馬鹿みたいにうるさかったからだ。


 夜のコンビニの灯りが、俺たち二人を、やさしく照らしている。


 敷地の隅の桜が、最後の花びらを、ひとひら、ふたひら、落とした。


 ――名前を呼ぶ。


 ただ、それだけのこと。


 人生でいちばん難しいテストみたいだった、たったそれだけのことが、

 こんなにも、あたたかい。


 このさき何年経っても、俺は彼女を「澪」と呼ぶ。


 色のあせた青いベンチで、また同じコーヒーを飲む、あの春の夜まで、ずっと。


 ――だから、もう少しだけ。


 この主人公の初々しさは、そっとしておいてやってほしい。


 春の夜は、まだほんの少しだけ、コーヒーがあたたかい。

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