Chap1 ep9-元凶、湖面は揺れる
朝日が顔を出してから、そう時間は経っていないが、男は自然と目が覚めた。長年続けたこの生活に適応し切ってしまったのだろう。農夫として生きることを決意して約10年。妻子ある身として、この働き盛りの身体が朽ちるまで勤労に尽くそうと、本気で考えるような男だった。
ウグィス皇国北西部は農村地帯として、皇国の食糧庫を担っている。収穫期の只中である現在、街道へと繋がる細道を荷馬車が往復し、皇国の心臓たる皇都への供給が絶えず続けられていた。
その農村地帯でも比較的小規模とされるジントウ村に農地を持つムネミツ・タケトミは幾千と歩いた小道を進む。
「お、悪くねぇな」
眼前に広がる一面の芋に、思わず声を漏らした。分配は考える間もなく即決で、皇都と農村地帯に3割ずつ、残りは家族の分、といった具合で決めている。ムネミツは何よりも家族の事を第一に考えていたが、次点で祖国ウグィスの永年繁栄を望んだ。
――皇国が魔物討伐の部隊を徴兵すると言えば、間違いなく参加しただろう。
「おお、ムネタカ。起きてたのか」
起こさなければ昼時まで寝ているような息子が珍しくも早く起きていた。
「母ぁちゃんはまだ寝てるか」
「うん。寝てるよ」
ムネミツは我が子の小さいながら立派な成長に喜びを感じる。このまま早く起きる習慣がつけられるといい、と考えながら微笑んだ。
「お父っつぁん、釣りがしたいんだ」
「ん? 釣りがしたいのか」
「前行った湖で釣りがしたい」
父親は熟考する。芋の収穫、運搬をしなければならない。しかし葛藤も無く結論はあっさりと出た。
「よし。わかった。竿と桶を持って来なさい」
「やったぁ」
釣りのために早く起きたのだろうか、何はともあれ我が子の成長を祝福してやりたい気持ちで溢れかえったムネミツは、最優先事項を設定し直した。
机の上に置き手紙を残し、父子は湖へ向かう。万物秘澱の別名を持つその湖は、その名の通り何でも釣ることができた。市場で手頃な価格によって取引される魚介から、大陸商人も目を光らせる程の財宝まで、兎に角色々な物が釣れる。ある時、湖底に沈んでいたであろう鎧が孤島のように浮かび上がっているのを発見され、呪われているのではないかと噂が立ってから、訪れる者は激減したが、ムネミツは迷信に振り回されるような性分ではなかった。
「帰ったら芋の収穫を手伝って貰うからな」
「うん! おいらが釣った魚と一緒に食べるんだ」
「はっはっはっ。3人じゃ食べ切れないぞ」
釣り竿と桶をそれぞれ1つずつ持った父子は、湖を囲む小森林を前に足を止める。申し訳程度の獣道が形成されているが、とても人間用とは思えない。
「よし、行くぞ!」
父親は掛け声と同時に息子を抱え、木々の隙間を縫うように駆け出した。少年は道具を落とさぬよう強く握り締めながら、身体全体で風を感じる。
森林と外界の境目が見えてきた頃、ムネミツは脚を静止させた。疲労によるものではない。息を切らしながらも息子を抱え続ける父親のその目には間違いなく映っていた。
漆黒の体で湖面を覆い尽くす巨大船。船首には悪趣味な、人間型の装飾が取り付けられ、船腹には鬼を模したような顔面が施されており、間違いなくその目を動かし辺りを探っている。問題はこの不気味な外観だけではない。
船員、乗客とでも呼ぶべきものの中に人族は居らず、全て魔物だった。まだ日が上りきっていない青空に、けたたましく煙を上らせる船から、乗客が次々に降り立っていく。
息を潜めるムネミツであったが、ムネタカの手から滑り落ちた手桶が沈黙を打ち破った。
「!?」
ムネミツの心拍数は極限まで上昇する。豪華客船の乗客は予想を裏切ることなく物音に反応した。頭に皿を乗せた人型の魔物が父子の元へ迫る。父親は我が子を除いて、走行を妨げ得る物は全て手放し道を引き返し始めた。勿論魔物はそれを見逃さない。
ムネタカの泣き喚く声が更に魔物を引きつける。森を抜ければ街道に着く。街道にさえ出れば助けてもらえる。生い茂った木々に行手を阻まれた魔物の集団は、鈍足ながらも確実に迫っている。農夫は心身ともに疲労の極地に到達していたが、何とか思考を巡らせ、自身を震い立たせる。
その甲斐あって、森を抜けることには成功した。幸運なことに、丁度荷馬車が通りかかっている。
「積荷を全部下ろせえ"えぇ"!」
山賊顔負けの勢いと内容に、御者は動揺し駄獣に鞭を打とうと構えたところで手を止めた。
「一体何事だ」
「魔物がぐるぅ! ごいつをづれて逃げてくれぇ」
泣き喚く少年を突き出され御者は戸惑いながらも要求に応じる。ムネミツは積まれていた荷物を一心不乱に地面へ放った。愛しい息子の手を強引に振り払い、空になった荷台に載せる。
「早く、行けええ"ぇ」
御者の目も、来たる魔物の群衆を捉えた。慌てて発車させ、駄獣はかつて憧れた騎馬になった思いで駆け抜ける。荷馬車を見届ける事もせず、ムネミツは残る体力を使い切る勢いで爪先を返し、走り出した。息子を絶対に生かす。その一心で叫び走った。半狂乱状態の農夫は、我が身突き進む方向に集落が広がっていることなどとっくに忘れていた。
♦︎二日後、皇都宮殿
「キンモクが魔物による襲撃を受けたそうです」
「壊滅か?」
「生存者はわずか4名・・・・・・」
北西部の農村地帯が突如大量発生した魔物に襲われ、集落全滅の知らせも出始めていた。やがてその被害は皇都にも齎され、皇国全体が危機感を募らせる。
その窮地に駆けつけた大陸からの来訪者達は、皇国の民にとって神に等しい程の存在であった。老将シゲマサ・ミヤモトは満面の笑みで歓迎する。




