第9話 王都の小さな亀裂
王都七番塔の亀裂が見つかったのは、セレナが北へ旅立って数日後の朝だった。
「ここです」
若い結界局員エドガーは、塔の基部へしゃがみ込んだ。
石材の継ぎ目に、昨日までは髪の毛ほどだった亀裂が走っている。今朝はそれが指一本分ほどまで広がり、隙間の奥で青い魔力光が細く瞬いていた。瞬き方が一定でない。呼吸の乱れた者の胸の動きに似ている。
隣に立つ上級局員バルドが、手袋をはめた指で亀裂の縁を確かめた。
「昨日より広がってるな」
「はい」
「塔単体の測定値は」
「許容範囲です」
「なら緊急停止まではいらん」
「でも、北側補助線が揺れています」
エドガーが測定板を差し出す。七番塔そのものは規定内だが、北側補助線だけが一定間隔で上下していた。振れ幅は小さい。小さいまま、規則正しい。
「補助線は別班の担当だ」
バルドは数字を見たまま言う。
「連絡は入れる」
「アシュフォード様の記録には、七番塔だけを見ないようにと」
「分かってる」
思っていたより強い返事だった。エドガーは口を閉じる。
バルドも、セレナが残した記録を無視しているわけではない。問題は、その通りに動こうとすると別部署の人員が必要になることだった。
「補助線班、今日は何人です?」
「二人。片方は南門の定期検査へ出てる」
「呼び戻せませんか」
「南門を飛ばせば、今度はそっちの規定違反だ」
バルドが眉間を揉んだ。
「王宮内の結界も今日だけで十二件ある」
誰も暇ではないし、誰も仕事をさぼってはいない。それでも、ひとつ予定外が起きるだけで手が足りなくなる。人数は毎日ぎりぎり足りていて、ぎりぎり足りているということは、余りがないということだった。
エドガーは七番塔の亀裂を見る。
「アシュフォード様は、どうしてたんでしょう」
「こういう時?」
「はい」
バルドは少し考えた。
「たぶん南門へ行く前にここを見て、帰りに補助線も測ってた」
「一人で?」
「昔からそうだった」
「それ、普通じゃないですよね」
バルドは答えなかった。
亀裂の奥で、青い光がもう一度揺れた。
まずは規定通り、七番塔の基石を交換することになった。交換用の石は二日前にようやく届いている。
「三番固定」
「固定しました」
「旧石を抜くぞ」
バルドの合図で、局員三人が基石を外す。抜けた石の底は湿っていて、下の土が円く黒く残った。
新しい石を入れ、銀線を繋ぐ。手順そのものは何度も訓練しているので、問題なく進むはずだった。
「起動します」
エドガーが魔力を入れる。青白い光が走った直後、測定器の針が跳ねた。
「止めろ!」
バルドの声。エドガーがすぐ手を離す。
「何が」
「北へ負荷が逃げた」
新しい基石は正常で、接続も間違っていない。それなのに、起動した瞬間だけ北側補助線が大きく沈んだ。
「手順書を」
「ここです」
規定の交換手順を開く。間違いはない。三度読み返しても、抜けている工程はなかった。
エドガーは思い出し、別の棚へ走った。
「アシュフォード様の記録!」
分厚い綴りだ。背表紙が擦り切れ、指をかける部分だけ色が変わっている。
七番塔、春季交換。該当箇所を探す。
「あった」
『春季のみ、北側補助線の流量を二割落としてから七番塔を起動。安定後、補助線を段階復帰。理由――地脈流量増加時、起動負荷が北へ逆流するため』
バルドが紙を覗き込む。
「こんなの正式手順書にないぞ」
「でも去年も一昨年も、この方法です」
「誰がやった」
エドガーは記録の署名を見た。毎年、同じ名前。セレナ・アシュフォード。
「……アシュフォード様です」
バルドは舌打ちする代わりに、深く息を吐いた。
「補助線班を一人呼べ。南門には俺が行く」
「でも、バルドさんが抜けたら」
「こっちはお前がやれ」
「僕が?」
「記録を読んだのはお前だ」
エドガーは緊張したが、頷いた。
「はい」
三十分後、北側補助線を一時的に落として七番塔を再起動する。今度は安定した。青い光が塔全体へ、下から順に戻っていく。
エドガーは息を吐いた。できた。セレナがいなくても。
ただし、セレナが残した記録がなければ危なかった。
「記録があれば大丈夫ですね」
同僚が言う。
エドガーは頷きかけて、やめた。
「記録を読む人がいれば、です」
*
その日の午後、北市場で小さな騒ぎが起きた。
最初は屋台の果物が崩れただけだった。次に鶏が騒ぎ、荷馬車の馬が一斉に鼻を鳴らす。市場の端にある結界杭が一瞬だけ消え、その隙間から三匹の角兎が入り込んだ。
魔獣としては弱い。大人なら数人で追い払える。だが、人で混み合う市場では話が違う。狭い通路、積まれた木箱、地面に広げられた敷布。逃げる方向より、転ぶ場所の方が多い。
「道を空けて!」
エドガーは昼食を買いに来ていただけだった。それでも身体が先に動いた。
角兎の一匹が果物屋の棚へ飛び込み、リンゴが床へ散る。もう一匹が子どもの方へ走った。
「こっち!」
エドガーは手元にあった買い物籠を投げ、進路を逸らす。角兎が籠へ突っ込み、転がった。
衛兵が駆けつける。
「殺すな、網で!」
「なぜ!」
「狭いから血で滑る!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
その間に簡易結界を張る。市場の通り一本を塞ぐほどの力はないが、三匹の動きを一方向へ寄せるくらいならできる。
「右へ追ってください!」
衛兵が棒で床を叩き、角兎を誘導する。一匹、二匹。三匹目が結界へぶつかり、網がかかった。
数分後には全部捕獲された。怪我人はいない。報告書なら『人的被害なし、物損軽微』で終わる程度だ。
エドガーは息を整えながら周囲を見る。果物屋の棚は壊れ、商品が泥まみれになっていた。
露店の女性が散らばった果物を拾っている。傷のついたものを片側へ、無事なものをもう片側へ。分ける手つきに迷いがなく、それがかえって見ていられなかった。
「すみません」
「あなたが謝ることじゃないよ。子どもに怪我がなくてよかった」
女性はそう言った。でも、潰れた果物は戻らない。今日の売上も。
軽微。
その言葉が、急に小さすぎるように感じた。誰にとって軽微なのかを、あの二文字は書いていない。
*
王宮では、ミレイユがアルベルトの執務室を訪れていた。
「北市場に魔獣が入ったと聞きました」
「ああ。もう処理された」
「怪我人は?」
「いない。物損だけだ」
アルベルトは机上の報告書を閉じる。
「結界局からも、局地的な出力低下だったと聞いている」
「セレナ様が王宮を離れたことと関係は?」
「直接はないだろう」
「直接は?」
アルベルトが少し眉を寄せた。
「彼女は正式な局員ではない。結界の維持は結界局の仕事だ」
「でも、七番塔の春季手順もセレナ様の記録で対応したそうです」
「記録が残っているなら、それでいい」
「そうでしょうか」
ミレイユは窓の外を見る。王宮の庭の向こうに、屋根が幾重にも重なっていた。北市場はここから見えない。報告書の『軽微』という文字だけが、この部屋まで届いている。
「私、セレナ様がどのくらい結界のお仕事をしていたのか知りませんでした」
「俺も細かいところまでは知らない」
「殿下でも?」
「専門のことまで王太子が把握する必要はない」
「では、誰が把握していたのです?」
アルベルトは答えなかった。ミレイユも、それ以上は聞かなかった。
*
夕方の結界局会議では、北市場の件が議題に上がった。
「人的被害なし。侵入時間は約四分」
「原因は北側補助線の一時低下と考えられます」
「七番塔交換時の負荷?」
「可能性が高いです」
局長が資料をめくる。
「今後は交換時に補助線班と連携する」
それだけなら改善だ。
エドガーは手を上げた。
「北側地脈そのものを、しばらく継続観測した方がいいと思います」
「理由は」
「アシュフォード様の過去記録に、春季の変動が年々大きくなっているとあります」
「人員は」
そこで止まる。この一言で止まるやり取りを、エドガーはこの半年で何度も見てきた。
「……二名必要です」
「現在、王宮内の定期点検が遅れている」
「一名なら」
「単独観測を常態化させるのは避けたい」
バルドが珍しく口を挟んだ。エドガーはそちらを見る。
「北側地脈の観測案は出す。ただし、今週は王宮内の遅れを戻すのが先だ」
局長の判断は現実的だった。人がいない。だから優先順位をつけるしかない。誰かが悪いわけではない。それでも、問題は待ってくれない。
会議が終わり、エドガーは七番塔へ戻った。
朝に交換した基石は正常に光っている。その隣、石材の継ぎ目に、新しい細い亀裂が走っていた。
エドガーはしばらく見つめたあと、記録帳を開く。今度は自分の名前で、時刻と幅を書き込んだ。
塔を出る頃には、王都の空は夕焼けに染まっていた。市場で買い損ねた昼食を思い出し、腹が鳴る。
以前なら、こういう時にもセレナはまだ別の塔を回っていたのだろうか。考えてから、自分はそうしないと決めた。まず食べる。それから記録を整理する。
誰か一人が無理をすることを、仕組みの前提にしてはいけない。
会議のあと、バルドはエドガーを呼び止めた。
「さっきの観測案」
「はい」
「明日、様式を作れ」
「通るんですか」
「通すかどうかは局長が決める。出さなきゃ始まらん」
バルドは束ねた書類を小脇へ抱え直す。
「それと、アシュフォード様の記録を全部一人で読むな」
「え?」
「分野ごとに分ける。七番塔はお前、南門は俺、旧水路は別班。読んだ者が要点を共有する」
「でも、セレナ様は一人で全部」
「だから真似するなと言ってる」
エドガーは返事を止めた。
つい数日前まで、セレナのやり方は『詳しい人がやってくれている便利な状態』に見えていた。今は違う。一人が全部知っている状態は、その人がいなくなった瞬間に弱点になる。
あの分厚い綴りは、財産であると同時に、これまで誰も肩代わりできなかったことの証拠でもあった。
「分かりました」
「あと昼飯食え」
「バルドさんもです」
「俺は食った」
「いつ?」
「南門へ走りながら」
「それは食べたに入らないと思います」
バルドは嫌そうな顔をした。
「アシュフォード様の悪影響がこんなところにも残ってるな」
「そこは本人のせいじゃないでしょう」
「分かってる」
二人で階段を下りる。
王都は今日もいつも通りに見える。けれど、その『いつも通り』を誰がどう支えていたのかを、局の中でも少しずつ見直し始めていた。
大きな改革ではない。まずは、記録を一人で抱えないこと。エドガーには、それで十分な第一歩に思えた。
新しい亀裂の幅は、朝のものよりまだ小さい。だからこそ、今度は見落とさない。
エドガーは測定器を設置し、明朝の担当者へ引き継ぎを書いた。
翌朝、エドガーは七番塔へ向かう前に北市場へ寄った。
昨日壊れた果物屋の棚には新しい板が打ちつけられ、そこだけ乾いた木の色が浮いている。
「もう開けるんですか」
「休んでたら、昨日の分まで減っちまうからね」
女主人はそう言って、何事もなかったようにリンゴを並べていた。
四分間の結界低下は、報告書では短い数字で終わる。けれど市場には、壊れた棚も潰れた商品も残る。
エドガーは今日出す観測案の余白へ、一項目を書き加えた。
『異常発生時、数値だけでなく影響区域を記録する』
昨日の市場を見た自分にしか足せない項目だった。
七番塔へ着くと、バルドが入口で待っている。
「遅いぞ」
「市場を見てました」
「なら、その分までちゃんと引き継げ」
「はい」
今度は、自分だけが覚えていればいいとは思わなかった。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




