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第10話 橋を守れ

 雨は夜半から降り続いていた。


 朝になっても空は明るくならず、ヴァレンシュタイン城の窓を叩く雨粒はむしろ勢いを増している。石壁を伝う水音が、廊下のどこにいても聞こえた。


「雪解けと重なりましたな」


 ローデリックが食堂の窓辺で外を見る。


「上流の水位は昨日の倍です」


 セレナはパンを口へ運びながら、卓上に広げられた簡易地図へ視線を落とした。その瞬間、隣から伸びてきたリナの手が地図を取り上げる。


「食べながら読まない」


「見ていただけよ」


「読んでいました」


「違いは?」


「ありません」


 向かいのカイルは、助け舟を出すどころか豆の煮込みを黙々と食べている。


「カイル様」


「リナが正しい」


「まだ何も言っていません」


「顔で分かる」


 完全に包囲されている。


 セレナが諦めてパンへ戻った時、食堂の扉が勢いよく開いた。


「辺境伯様!」


 雨に濡れた騎士が駆け込んでくる。外套から水が滴り、石床に点々と跡が伸びた。


「北街道の石橋で異常です! 橋脚結界が一基落ちました!」


 カイルが椅子を引く音が、食堂のざわめきを切った。


「水位は」


「橋桁すれすれです。南側は渡れますが、北側に避難民が残っています」


「人数」


「確認できただけで百近く。荷車と家畜も」


 セレナはパンを皿へ戻す。


「橋脚結界の種類は?」


「水圧軽減と基礎固定です」


 ローデリックが答える。


「一基落ちると?」


「残りに負荷が寄ります」


 三本で四本分を支えることになる。持つか持たないかではなく、いつまで持つかの問題だ。


 セレナは立ち上がった。


「行きます」


 リナが地図を返しながらため息をつく。


「せめてパンを持って行ってください」


「分かったわ」


「本当に?」


「持つ」


 今は食べ切る時間が惜しい。ただし、何も食べずに出るつもりはもうなかった。


     *


 石橋までは馬で三十分ほどだった。


 雨は横殴りになり、外套の隙間から容赦なく水が入ってくる。手綱を握る指がすぐにふやけ、革の感触が分からなくなった。


 川が見えた時、セレナは思わず手綱を引いた。普段の水位を知らなくても異常だと分かる。


 茶色い濁流が橋脚へぶつかり、白い飛沫を上げている。流木が次々に流れ、橋の下へ吸い込まれていく。水面は平らではなく、あちこちで盛り上がっては崩れていた。


 音が近い。雨音の上から、川そのものの低い唸りが被さっている。


 北岸には人が集まっていた。荷車、家畜、老人や子ども。昨日までの避難民とは別の集団だ。


「橋を渡せないんですか」


「今の状態で荷車を載せるのは危険です」


 現場の騎士が答える。


「徒歩なら?」


「一度に少人数なら。ただ、橋脚結界がもう一基落ちたら分かりません」


 セレナは橋の側面へ近づいた。


「下へ降りられますか」


 カイルがすぐ横へ来る。


「見るだけなら」


「見るだけでは直せません」


「どこに基点がある」


「橋脚の水面近くです」


「今、水面が上がってる」


「だから急ぎます」


 川岸から確認すると、四本ある橋脚のうち一本だけ青い結界光が消えていた。基点は完全に水へ沈んでいる。


「水中作業になります」


 ローデリックが顔を曇らせた。


「この流れで?」


「固定縄があれば」


 セレナは周囲を見る。


「橋上から降ろしてもらいます。私が基点まで行って仮接続します」


「駄目だ」


 カイルの返事が早い。セレナは彼を見た。


「他の方法だと時間がかかります」


「石工を降ろす」


「結界の接続は私でないと難しいです」


「なら待つ」


「待っている間に二基目が落ちたら、北岸の人たちが――」


「何人いる」


「百人近くです」


「君は?」


 問いの意味が分からず、セレナは一瞬黙る。


「一人です」


「なら百対一だから行く、って顔をしたな」


 図星だった。


「実際、比較すれば」


「比較に君を入れるな」


「それでは計算になりません」


「だから言ってる」


 雨音が二人の間へ叩きつける。


 カイルは怒鳴らない。それでも、いつもの仕事の相談とは違う硬さがあった。声そのものは低いのに、引き下がる余地だけが削られている。


「別案を考えろ」


 セレナは川を見た。時間、水位、残り三基が負う分。数えたところで、完全に安全な方法は一つも出てこない。どの案を選んでも、危険を誰かの側へ寄せることになる。


「では、私が降ります。ただし条件を変えます」


 カイルの眉が動く。


「何を」


「安全縄を二本。一分で接続できなければ引き上げる。橋脚までの移動中は、上から流木を見張ってください」


「一分で足りる?」


「仮接続だけなら」


「誰が縄を持つ」


「騎士二人で」


「一本は俺が持つ」


「カイル様が?」


「文句あるか」


「ありません」


 交渉成立だった。


 セレナは濡れた外套を脱ぎ、工具を腰へ固定する。石工が縄を身体へ回した。


「きつくありませんか」


「大丈夫です」


 言ってから、付け足す。


「少しきついですが、抜けるよりいいです」


 カイルがこちらを見た。


「それでいい」


 最近、その言葉をよく聞く。


     *


 橋上から川面へ降りる。


 足場になる石がほとんど見えない。降りるほど水音が大きくなり、上からの声が届きにくくなった。


 橋脚へ身体を寄せても、水が腰までぶつかってくる。押されるというより、絶えず横へ引かれている感じだった。


「あと三歩!」


 上から騎士の声。


 セレナは片手で縄を握り、もう片方で橋脚の表面を探る。指先が石の継ぎ目をなぞった。


 基点。あった。


 水の中で青い光が途切れている。割れたのではなく、接続金具が外れていた。


「見つけました!」


「残り四十秒!」


 工具を差し込む。指先が冷たい。水圧で手元が揺れる。


 金具を戻し、新しい銀線で仮固定する。あと一箇所。


 その時、上から怒鳴り声がした。


「流木!」


 振り向く余裕はない。縄が強く引かれ、次の瞬間、太い枝が橋脚へぶつかった。


 水が跳ね、セレナの身体が持っていかれる。


「アシュフォード!」


 腰の縄が食い込む。


 橋脚から手が離れた。


 流される。


 数歩分。


 それ以上は行かなかった。


 カイルたちが縄を引いている。


「引き上げろ!」


「待って!」


 セレナは叫んだ。


「あと一箇所です!」


「時間切れだ!」


「十秒!」


「アシュフォード!」


「十秒ください!」


 一瞬だけ縄の張りが止まる。許可だ。


 セレナは橋脚へ戻り、最後の銀線を押し込んだ。魔力を流すと、青白い光が水中で広がる。濁った水の中でも、その色ははっきり見えた。


「できました!」


「上げろ!」


 今度は反論しない。


 縄が引かれ、身体が水面から離れる。急に軽くなり、そのぶん濡れた服の重さが肩へかかった。


 橋上へ引き上げられた瞬間、膝が石床へつく。


「成功です」


 息を整える前に報告する。


「出力、戻りました。これで橋脚四基――」


「橋の話をしているんじゃない」


 カイルの声が低かった。


 セレナは顔を上げる。濡れた髪が額へ張りつき、いつもより表情が分かりにくい。それでも、怒っているのは分かった。


「でも、橋は」


「君が流された」


「縄がありました」


「枝があと少し太かったら?」


「それでも二本」


「そういう話じゃない」


 カイルはそこで言葉を切った。


 周囲では、騎士たちが橋脚の出力を確認し、北岸へ渡河準備の合図を送っている。仕事は動いている。だからこそ、セレナには彼が何に拘っているのか分からなかった。


「何の話ですか」


 カイルは濡れた手袋を外し、強く握った縄を一度見る。掌に赤い跡が残っていた。指の付け根から手首の手前まで、まっすぐ一本。


「君が必要なんだ」


「……結界師として、ですか」


 口にした瞬間、カイルの顔が険しくなった。


「違う」


 雨音の中でも、はっきり聞こえた。


「君だ。君が死んだら困ると言っている」


 セレナは返事ができなかった。


 意味は分かる。言葉も難しくない。それなのに、自分の中のどこへ置けばいいのかが分からない。今まで自分を数えてきた場所には、この言葉が入る欄がなかった。


「でも、百人と比べれば」


「比べるな」


「危険を避けるには、比較が必要です」


「なら比較の中に自分も入れろ」


 カイルは一歩だけ近づいた。


「君だけ勘定から外すな」


 セレナは黙る。


 自分を含めて計算する。もちろん、数としては含めている。一人。だから百人より軽い。それ以外の数え方があるのだろうか。


「……難しいです」


「だろうな」


「分かるんですか」


「今の顔で」


 少しだけ、いつもの調子が戻った。


 カイルは予備の外套をセレナへ押しつける。


「着ろ」


「カイル様のでは」


「俺は動いてるから寒くない」


「でも」


「今度は命令だ」


 仕方なく受け取る。大きすぎる外套は、肩から腕まで完全に隠した。内側にまだ体温が残っていて、濡れた肌にそれが妙にはっきり伝わる。


     *


 結界が戻ったことで、橋は一度に十人ずつ渡れるようになった。騎士が間隔を管理し、石工が橋脚の振動を監視する。


 セレナは橋のたもとから数値を読むだけにした。カイルがそう決めたからだ。最初は自分で確認した方が早いと思ったが、石工が正確に数字を読み上げるので問題はない。


「三番基点、安定!」


「二番、変化なし!」


「次の十人!」


 住民たちが少しずつ南岸へ渡ってくる。子どもを抱いた母親、羊を引く老人、荷車を押す男たち。


 誰も走らない。走るなと言われているからではなく、板の上で足を滑らせないよう、一歩ずつ確かめて渡っている。


 最後の荷車が橋を渡り切った時、周囲から安堵の声が上がった。


 誰も落ちなかった。橋も持った。


 セレナはようやく息を吐く。


「よかった」


 隣にいたリナが言う。


「はい」


「それで」


「何?」


「お嬢様も無事でした」


「……そうね」


 その一言を言うのに、少し間が必要だった。リナは何も茶化さない。


 川では相変わらず濁流が橋脚を叩いている。セレナはカイルから借りた外套の前を握り直した。


 自分も、守る側だけではなく、守られる数の中へ入る。まだ納得できたわけではない。けれど、その考え方があることだけは覚えておこうと思った。


 橋の向こうで、カイルが次の指示を出している。濡れた縄を握った右手には、まだ赤い跡が残っていた。


     *


 城へ戻る馬車の中で、セレナは借りた外套を畳もうとした。


「乾くまでそのままで」


 リナに止められる。


「でも、カイル様のものよ」


「辺境伯様はもう別のを着ています」


 窓の外を見ると、カイルは雨の中を馬で走っていた。


 仕事のために貸された。たぶん、それだけだ。そう整理しかけて、橋の上で聞いた言葉を思い出す。


 『君だ。君が死んだら困る』


 セレナは外套の端を握ったまま、しばらく離せなかった。


 避難民の最後尾には、昨日ハーゼ村から逃げてきた母子の姿もあった。セレナに気づいた男の子が、母親の手を振りほどきかけてこちらへ手を振る。


「昨日のお姉ちゃん!」


 母親が慌てて止めた。


「走ったら駄目!」


「橋が直ったんだよ!」


 子どもの声は雨音に負けず、こちらまで届いた。


 セレナは反射的に手を上げかけて、右肩が少し痛んだ。昨日の打撲と、今日の縄。身体は確実に消耗している。


 その事実を、いつもなら『まだ動く』の一言で片づけていただろう。


「肩も診てもらいます」


 隣のリナへ言うと、リナが珍しく目を丸くした。


「私、何も言ってませんよ」


「言われる前に言っただけ」


「これは記念日にしてもいいかもしれません」


「大げさね」


 そう言いながら、セレナは少し笑う。


 橋を渡り終えた人々が、南岸で家族を数えていた。一人、二人と確かめ、全員いると分かったところで抱き合う者もいる。


 誰も、自分を数から外していない。


 百人を守った。そう考えると大きな数字になる。けれど実際には、百という一つの塊ではない。あの子どもも、母親も、羊を引く老人も、それぞれ一人だ。


 なら自分だけを『一』として軽く扱うのは、本当に正しいのだろうか。


 答えはまだ出ない。ただ、昨日までより少しだけ、その問いが自分の中に残った。


 カイルは橋のたもとで最後まで残り、石工から夜間監視の手順を聞いている。剣を抜く必要のない場面でも、彼は帰らなかった。


 セレナは借りた外套の中からその姿を見て、仕事の種類が違うだけで、守るという行為にはいくつもの形があるのだと思った。


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