第11話 壊れた
橋の仮修復から三日後、セレナは北西の山道を登っていた。
二日前まで降っていた雨の名残で、山肌のあちこちから細い水が流れ出している。道もまだ柔らかく、馬が蹄を置くたびに黒い泥が沈んだ。空は晴れていたが、尾根に近づくほど風は冷たくなり、ところどころに解け残った雪が見える。
「肩は」
前を行くカイルが、馬を進めたまま尋ねた。
「もう問題ありません。医師にも、無理に引かなければ現場へ出ていいと言われました」
「なら今日は縄を引くな」
「結界の調査で縄を引く予定はありません」
「橋でも、最初はその予定じゃなかった」
反論しようとして、セレナは口を閉じた。橋脚へ降りることも、流木に身体を持っていかれることも予定にはなかったので、今回はカイルの方が正しい。
横を走っていた騎士が、わずかに口元を緩めた。
「今、笑いましたね」
「いえ、セレナ様」
「笑いました」
「気のせいかと」
辺境へ来たばかりの頃なら、騎士が自分の前でこんな顔を見せることはなかった。公爵令嬢で、元王太子の婚約者で、王都から来た結界師。最初は誰もがそういう肩書きを先に見ていた。
今では森を走り、地下水路へ入り、橋では濁流に浸かったところまで知られている。壊れ物として扱われなくなったことを、セレナは悪くない変化だと思っていた。
山道の先に、崩れた石造りの塔が見えてきた。
北方街道と二つの谷を見渡すために使われていた監視塔で、記録では百年以上前に役目を終えている。上半分は風雨で崩れ、遠目には太い石柱だけが山の上へ残っているように見えた。
塔の前では、先行していた二人の石工が外壁を調べていた。年長の石工はセレナたちを見ると、手にした槌で西側の斜面を示した。
「塔そのものより、下の地盤が気になりますな。雨でかなり水を含んでます。西側の壁には寄らん方がいいでしょう」
「地下へ降りる階段は残っていますか」
「入口から見える範囲は。ただ、途中から補修の記録がありません。大人数で入るより、まずお二人で見た方が安全かと」
セレナは馬から降り、持参した古い見取り図を開いた。地上階は単純な構造だが、地下には貯蔵庫のほかに用途不明の小部屋が一つ描かれている。城地下や裂け谷で見つかった古い結界設備と年代が近いなら、ここにも何か残っている可能性があった。
「この奥を確認します」
「俺が先に行く」
「構いません。ただし、結界の反応があったら触らないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「君よりは触らない」
「私も勝手には触りません」
カイルは何も言わなかったが、橋での一件を思い出している顔だった。
*
塔の内部は、外から見た印象ほど傷んでいなかった。
外壁が風雨を受け止めていたおかげで、中央の石階段は形を保っている。ただし壁際には土と枯れ葉が入り込み、階段の端が欠けている場所もあった。カイルが灯りを持って先を歩き、セレナが一段ずつ足元を確認しながら続く。
「右、欠けてる」
「見えています」
「前にもそう言って滑った」
「落ちたわけではありません」
「似たようなものだ」
上から石工の笑い声が聞こえた。
「ずいぶん息が合いますな!」
「違います」
即座に返すと、前を歩くカイルの肩が少し動いた。笑ったのかもしれないが、暗くて表情までは分からなかった。
最初の地下室は、見取り図どおりの貯蔵庫だった。腐った木箱と壊れた棚が壁際に残り、床には古い陶器の破片が散らばっている。結界の痕跡はなく、セレナは一通り確認してから奥の石扉へ向かった。
扉は長い年月の間に歪んでいたらしく、一人では動かなかった。セレナが押している横からカイルが手を添えると、石が擦れる鈍い音とともにゆっくり開いていく。
「今、ほとんど一人で開けましたよね」
「開いたならいいだろ」
「私も押していました」
「知ってる」
どうにも釈然としないまま中へ入ると、セレナはすぐに足を止めた。
部屋の中央には円形の石台があり、そこから壁へ向かって何本もの細い溝が伸びている。装飾ではない。溝の幅も間隔も、城地下で見た古い配線とよく似ていた。
「ありました」
セレナは石台へ近づき、手袋を外して表面に触れた。冷たい石の奥から、ごく弱い魔力が規則的に返ってくる。完全に停止している設備なら、この感触は残らない。
「まだ動いています」
「百年以上使われてないんじゃなかったか」
「監視塔として使われなくなってから、です。この地下設備がいつ造られたかは分かりません」
測定針を取り出して溝へ当てると、弱いながらも反応があった。石台から伸びた四本の配線のうち二本は壁へ入ったところで見えなくなるが、その先にも魔力は続いている。
「壁の向こうへ伸びています」
「山の中へ?」
「それとも、もっと下かもしれません。北側だけ、今も少量の魔力が流れています」
針を少しずつ動かしていた時、足元の下から低い音が響いた。
セレナが顔を上げるより早く、カイルも入口を見た。
「今のは?」
「石が擦れた音です」
もう一度聞こえた。今度ははっきりと、階段側からだった。
「出るぞ」
カイルがセレナの腕を取る。二人が貯蔵庫へ戻ったところで塔全体が揺れ、天井から細かな砂が落ち始めた。
「外へ!」
階段を駆け上がると、上から石工たちの声がする。
「辺境伯様!」
「入口から離れろ! 斜面が動いてる!」
カイルが怒鳴り返した直後、壁の一部が大きく割れた。
階段へ石が落ちる。
カイルに引かれて数段戻った次の瞬間、轟音とともに階段の上半分が崩れた。土砂が入口から流れ込み、灯りの届く範囲が一瞬で砂埃に覆われる。
セレナは腕で口元を塞ぎ、壁へ身体を寄せた。
音が収まるまで、かなり長く感じた。
実際には一分も経っていなかったのだろう。カイルが灯りを高く掲げると、先ほどまで外の光が見えていた階段は、石と土で完全に塞がれていた。
「怪我は?」
「ありません。カイル様は」
「俺もない」
カイルが崩落面へ近づき、外へ向かって声を張った。
「聞こえるか!」
返事はなかった。
何度か呼んでも同じだったので、セレナも石へ手を当てて状態を確かめる。階段だけではなく、雨で緩んだ斜面の一部が塔へ寄りかかるように崩れたらしい。外から掘るにしても、無造作に石を抜けばさらに崩れる。
「石工さんたちは無事でしょうか」
「崩れる前に下がれと伝えた。入口に残ってはいないはずだ」
「救出には時間がかかりますね」
「支えを入れながら掘るなら、今夜中に終われば早い方だ」
セレナは持ち物を確認した。灯りは二つ、水もある。携行食も一晩なら足りる。空気は奥から僅かに流れているので、すぐに問題になることもなさそうだった。
「別の出口を探しましょう」
「ああ。ただし、壁を勝手に壊すなよ」
「そんなことはしません」
「今、少し考えただろ」
「考えただけです」
言い返しながら、二人で地下を調べ始めた。
*
外へ繋がっている可能性があったのは、貯蔵庫の西壁に走る亀裂だけだった。
幅は大人一人が肩を横にして通れる程度で、奥から弱い風が流れ込んでいる。カイルは鎧の一部を外すと、灯りを持って隙間へ身体を滑り込ませた。
「ここで待ってろ」
「危険なら戻ってください」
「分かってる」
光が岩の奥へ消えていく。
セレナは入口の前で耳を澄ませた。岩が擦れる音と、時折カイルの靴が小石を落とす音が聞こえる。声をかけるほどではないと思いながら待っていると、しばらくして灯りが戻ってきた。
「どうでした」
「途中から上へ向かってる。最後はかなり狭いが、俺なら外まで抜けられるかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、セレナには答えが出た。
「では、外へ出てください」
「嫌だ」
あまりに早く返され、セレナは眉を寄せた。
「まだ説明していません」
「説明しなくても分かる。俺が外へ出て救助を指揮し、君はここで待つ。そう言うんだろ」
「その方が早いでしょう。外から崩落の状態を確認できれば、掘る場所も決めやすくなります。私は一晩程度なら問題ありません」
「アシュフォード」
呼ばれた声に、橋の上と同じ硬さが混じった。
「今回は橋とは違います。私が危険な作業をするわけではありません。ただ待つだけです」
「一人で?」
「はい」
「それを問題にしてる」
セレナにはまだ納得できなかった。カイルが外へ出られる可能性があるなら、それを使わない理由の方が少ない。自分がここに残ることを感情の問題として考えなければ、十分に合理的な選択だ。
「私を残した方が、結果的に救出も早くなる可能性があります」
「可能性はあるな」
意外にも、カイルはそこを否定しなかった。
「あの亀裂が最後まで持てば、俺は外へ出られる。ただし途中が崩れれば戻れない。外の連中は俺たちが地下にいることを知ってるし、石工もいる。こっちの斜面がまだ動いている以上、君一人を残して賭ける理由はない」
「成功率を考えれば――」
「その成功率を君一人で決めるな」
セレナは口を閉じた。
カイルは亀裂から離れ、壁際へ灯りを置く。
「君を置いていく選択肢はない。だから別の道を探す。それでもなければ、二人で救助を待つ」
橋で言われたことと似ているようで、少し違った。
あの時は、自分が危険へ入ることを止められた。今回は、より効率がいいと思う案を出しただけだ。それでもカイルは、その判断を自分だけで決めるなと言う。
「では、別の道を探して、それでもなければ待つ。そういうことでいいですか」
「ああ」
「分かりました」
答えると、カイルが少し意外そうな顔をした。
「何ですか」
「もっと揉めると思ってた」
「意見を聞いているんです。合理性があるなら採用します」
「俺の意見にも?」
「失礼ですね」
「褒めてる」
「褒め方を考えてください」
そのまま奥の結界室へ戻り、壁を一つずつ確認していく。
先ほどは結界の流れだけを見ていたので気づかなかったが、北側の壁にわずかな隙間風があった。カイルが石を軽く叩くと、途中から音が変わる。
「向こうに空間があるな」
「見取り図にはありません」
灯りを近づけると、現在の壁は後から積み直されたものだと分かった。床際には古い溝が残り、円形の石台から伸びた配線がその壁の奥へ消えている。
「ここを開ければ、何か分かるかもしれません」
「今は開けない」
「分かっています。上が崩れている状態で石を抜く気はありません」
「本当に?」
「本当です」
セレナは見取り図の余白へ位置を書き込んだ。救出された後、石工に壁の荷重を見てもらえばいい。記録にない部屋と、そこへ伸びる古い結界線は逃げない。
調べたいという気持ちは強かったが、今すぐ確かめなければならない理由はなかった。
その結論を自分で出せたことに、少しだけ違和感がある。
「どうした」
「いえ。今夜は待てそうだと思っただけです」
「最初からそう言ってる」
「最初は、カイル様だけ出ていただく方が早いと思っていました」
「今は?」
「救助を待つ方が安全です。少なくとも、現状では」
「なら決まりだな」
カイルはあっさり言い、貯蔵庫へ戻っていく。
セレナも後に続いた。
一人で残る案が間違っていたとまでは思わない。ただ、最善を決める材料を自分だけが持っているわけでもないらしい。
その程度の結論なら、今は受け入れられた。
二人は貯蔵庫の中から安全な場所を選び、朝まで待つ準備を始めた。
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