第12話 夜明けまで二人
地下で夜を越すと決めてから、カイルは二人の持ち物を床へ並べた。
水筒が二つ、携行食が三食分。短い蝋燭が四本と火口箱、予備の灯石、包帯と消毒薬、それにセレナの測定道具がある。一晩なら十分だったが、救助が朝を越える可能性まで考えれば、使い方は決めておいた方がいい。
「山へ入る時は、日帰りでもこれだけ持つんですか」
「予定通り戻れないこともあるからな」
「準備がいいんですね」
セレナが素直に感心すると、カイルがこちらを見た。
「今のは褒めた?」
「はい」
「珍しいな」
「カイル様は、私を何だと思っているんですか」
「褒める前に問題を見つける人」
否定できず、セレナは黙った。
夜を過ごす場所には、最初の貯蔵庫を選んだ。結界設備のある奥の部屋は今後どう動くか分からず、階段側は崩落面に近い。腐った木箱と棚を壁際へ寄せ、床の比較的平らな場所を空けると、カイルは外套を二つ折りにしてそこへ敷いた。
「座れ」
「カイル様は?」
「壁でいい」
「でしたら私も」
「肩を痛めてる人間と同じ条件にする意味がない」
「もう治っています」
「医師は『無理をしなければ』と言ったんだろ」
最近、この言葉を出されると勝てない。
セレナは諦めて外套へ腰を下ろした。カイルは向かいの壁に背中を預け、剣を手の届く位置へ置く。
地下は静かだった。
完全な無音ではなく、どこかで水滴が落ちている。時折、崩落面から鈍い振動も伝わってきたが、外の救出作業なのか、斜面がまだ動いているのかまでは分からない。
「掘っていると思いますか」
「たぶんな」
「分かるんですか」
「分からない」
あまりにあっさり答えるので、セレナは顔を上げた。
「分からないと言うのを嫌がりませんね」
「分からないまま命令する方が危ない」
カイルにとっては当然のことらしい。
王都では、立場が上になるほど知らないと言うことを嫌う人間も多かった。分からなければ下へ尋ねればいいだけなのに、質問すること自体を恥だと思う者もいた。
「それで君が全部やった?」
「全部ではありません」
「そうか」
「結界局にも術者はいましたし、各地に担当者もいました。ただ、異常を見つけた時に報告して、次に確認したらまだ直っていない、ということが何度かあったんです」
予算待ちになったり、別部署の管轄だったり、担当者の異動で引き継ぎが止まったりした。どれも致命的な怠慢ではない。けれど小さな遅れが重なると、次の異常が起きる頃まで補修されないことがある。
だから、いつからか自分で直せるものは自分で直すようになった。
「誰かに頼んで、次に見た時に残っているくらいなら、自分でやった方が早かったんです」
「それで、君しか分からない場所が増えた」
痛いところを突かれ、セレナは少し黙った。
「全てではありません」
「全部とは言ってない」
「でも、王都を出た後に困っている場所があるのは事実ですね」
それまでは、自分が必要だったからだと単純に考えていた。もちろん間違いではない。ただ、問題が起きる前に自分で処理し続けたことで、本来なら表に出るはずだった不具合まで見えなくしていた可能性はある。
「私がしていたことは、間違いだったでしょうか」
「その時は必要だったんじゃないか」
「でも今は、問題になっています」
「なら今から変えればいい」
あまりに簡単に言われ、セレナは少し拍子抜けした。
「過去の判断まで間違いだったことにしないんですね」
「その時に持ってる情報で決めるしかないだろ。結果が悪ければ直す。次は変える」
結界と似ている、とセレナは思った。
一度張った術式が永遠に正しいわけではない。地脈が変わり、川が流れを変え、人の住む場所が増えれば、昔は適切だった配置が負担になることもある。その時に必要なのは、最初から間違えないことではなく、変化を見つけて直すことだ。
それを自分自身へ当てはめられるかは、まだ分からなかった。ただ、考え方として覚えておいても損はない。
*
蝋燭を一本使い切った頃、カイルが携行食を二人分に分けた。
「食べろ」
「まだそれほど空腹ではありません」
「昼から食ってないだろ」
「今夜で食料を使い切る必要もありません」
「三食分ある。朝までなら足りる」
差し出された乾燥肉と固いパンを受け取った。食べ始めてみると、思っていた以上に腹が減っていたらしい。
「こういう時でも忘れるんだな」
「食事を忘れたわけではありません。後でいいと思っただけです」
「リナが言ってた通りだ」
「何をです」
「仕事を始めると食べなくなるから、見張ってくれって」
セレナはパンを持ったまま止まった。
「いつ、そんな話を?」
「橋へ行く前」
「本人の知らないところで、そういう依頼をしないでほしいんですが」
「戻ったら本人に言え」
リナが悪びれる姿は想像できなかった。むしろ「役に立ったでしょう」と言われる気がする。
食事を終える頃には、地下の冷気がはっきり身体へ入り込んできた。春とはいえ山の夜は冷え、湿った石に囲まれた地下室では座っているだけで体温を奪われる。
セレナが腕を擦ると、カイルがすぐに気づいた。
「寒いか」
「少しだけです」
「今度は正直だな」
「震えてから否定しても信じてもらえないでしょう」
「学習した」
「褒め方を考えてください」
カイルは笑いながら立ち上がり、自分の外套を持ってセレナの隣へ座った。
「二人で使うぞ」
「カイル様が使ってください。私は敷いている方を――」
「下から冷えるから敷いたままでいい。二人で被った方が暖かい」
理屈としては正しい。狭い地下で体温を維持するなら、別々に寒さを我慢する理由はない。
セレナが少し端へ寄ると、カイルが外套を二人の肩へ掛けた。大きな外套なので身体は覆えるものの、腕が触れないほど距離を取る余裕はなかった。
近い。
橋から戻る馬車で借りた時には、布に残った体温を意識した。今はその本人が隣にいるので、意識しない方が難しい。
「どうした」
「何でもありません」
「それ、本当に何でもない時には言わないよな」
「寒さのせいです」
「俺のせいじゃないならいい」
カイルはそれ以上追及せず、壁へ背中を預けた。
セレナも外套の中で姿勢を整える。しばらくすると、肩から伝わる熱で指先の冷たさまで和らいできた。
「カイル様は、昔から危険な場所へ先に行くんですか」
なぜそんなことを尋ねたのか、自分でもよく分からなかった。
「どういう意味だ」
「今日も、亀裂の奥を最初に調べました。橋でも騎士より前にいましたし、魔獣が出ればだいたい一番前にいます」
「何でも俺が先に行ってるわけじゃない。森なら森に詳しい奴へ任せるし、結界なら君の判断に従う」
「それは知っています」
「戦う時は、俺が前に出た方が早い」
「なぜです」
「俺が一番強いから」
あまりに迷いなく言うので、セレナは思わず笑った。
「自分で言うんですね」
「事実だろ」
「否定はしませんけど」
「俺が一頭止めれば、その後ろにいる三人が怪我をしなくて済む。それなら俺が出る」
説明としては分かりやすかった。自分が最も得意だから自分でやる。それによって全体の損失が減るなら、多少の危険を自分が引き受ける。
「合理的ですね」
「ああ」
セレナは素直に頷いた。
どこかで聞いたような考え方にも思えたが、それ以上は考えなかった。カイルと自分では役割が違う。彼は戦う人間で、自分は結界を扱う人間なのだから、同じ基準で比べるものではないのだろう。
「ただし、今日みたいに君を一人で残す話とは別だ」
「なぜです。考え方としては似ているのでは?」
「その話を始めると長くなる」
「説明してください」
「今日は嫌だ」
「ずるいですね」
「そうかもな」
笑いを含んだ返事が返ってきた。
セレナは外套の内側で腕を組む。納得はしていないが、今すぐ答えを聞かなければ困ることでもない。
王都では、こんなふうに役目のない時間を誰かと過ごした記憶がほとんどなかった。夜会なら次の予定があり、結界局なら補修がある。公爵家へ戻っても、翌日の仕事を確認していた。
今は救助が来るまで、自分たちにできることがない。
以前ならそれだけで落ち着かなかったはずなのに、不思議と今夜は苦痛ではなかった。
*
どのくらい眠ったのかは分からない。
セレナは、石床を伝ってきた微かな震動で目を覚ました。
外套の隣では、カイルもすでに目を開けている。
「崩落でしょうか」
「さっきとは違う」
二人で耳を澄ませると、しばらくして同じ振動が来た。確かに土砂の動きとは違い、弱いながら規則性がある。
「奥です」
セレナは外套から抜け出して立ち上がった。
灯石を持って結界室へ向かうと、円形の石台の底で淡い光が動いていた。昼間に確認した時より弱いが、一定の間隔で青白い光が壁の溝へ流れている。
「光ってるな」
「待ってください。間隔を測ります」
セレナは膝をつき、測定針を当てた。
光は石台から北壁へ進み、記録にない空間を隠している壁の奥へ消えている。その周期を数えているうちに、覚えのある数字が浮かんだ。
「裂け谷と近いです」
「同じ?」
「完全に同じとは言えません。でも誤差が小さい。城地下で測った周期とも似ています」
手帳を開き、記録を確かめる。
城地下。
裂け谷。
厩舎の旧基点。
そして、この監視塔。
場所も現在の用途も違う設備が、同じような周期で魔力を動かしている。
「一つの結界なのか」
カイルが尋ねた。
「まだ分かりません。ただ、少なくとも無関係ではないと思います」
「どこまで繋がってる?」
「それを調べるには、古い地図が必要です。今の街道や村の位置ではなく、この設備が使われていた頃のものを」
「戻ったらローデリックに探させる」
「私も資料庫を見ます」
「寝てからな」
「城へ着く頃には朝ですよ」
「なら昼まで寝ろ」
「そんなに寝たら一日潰れます」
「リナに言う」
「それは卑怯です」
カイルが笑った。
セレナはもう一度、測定値を確認する。研究対象を前にしているせいか、地下へ閉じ込められていることを一瞬忘れかけていた。
「壁を開けたいとか思ってないよな」
「今は開けません。昨日の私とは違います」
「昨日?」
「数時間前です」
「ほとんど変わってないだろ」
「安全確認をしてから調べる、と決めました」
それなら問題ないはずだ。
光は三度ほど強く脈打ったあと、ゆっくりと消えていった。セレナは最後まで記録してから手帳を閉じる。
古い設備が個別に残っているのではなく、広い範囲で繋がっているのかもしれない。その可能性だけでも、監視塔へ来た意味は十分にあった。
*
夜明けが近いことを最初に知らせたのは、外の光ではなく金属音だった。
崩落面の向こうから、石を叩く規則的な音が聞こえる。セレナとカイルが揃って立ち上がると、やがて人の声も混じった。
「辺境伯様! 聞こえますか!」
「聞こえる!」
カイルが返す。
「二人ともご無事ですか!」
「無事だ!」
石の向こうから歓声が上がった。
そこから救出までには、さらに一刻ほどかかった。石工たちは二次崩落を防ぐために支えを入れながら、一つずつ慎重に石材を外している。
やがて崩落面に細い穴が開き、朝の光が地下へ差し込んだ。
たった一晩しか経っていないのに、その光はひどく眩しく感じた。
「セレナ様!」
穴の向こうから騎士が呼ぶ。
「皆さんは無事ですか」
「全員おります!」
その返事を聞いて、セレナはようやく息を吐いた。
階段が通れる程度まで開くと、先にカイルが状態を確かめ、その後からセレナが外へ出た。山の向こうから朝日が昇り、雨に濡れた森の上には薄い霧が浮いている。
石工たちは徹夜だったらしく、全員がひどく疲れた顔をしていた。
「ありがとうございます。助けてもらいました」
セレナが頭を下げると、年長の石工が慌てて手を振った。
「やめてくださいよ。こちらは仕事しただけです」
「それでも、ありがとうございます」
言ってから、自分でも少しだけ不思議に思った。
隣から視線を感じてカイルを見る。
「何ですか」
「いや」
「絶対に何か思いましたね」
「気のせいだ」
カイルは先に馬の方へ歩き出した。
セレナも続こうとして、一度だけ監視塔を振り返る。
崩れた石壁の下には、昨夜までいた地下室がある。そのさらに奥には、見取り図に存在しない空間が隠れている。
「戻ったら古地図を探します。それから塔の壁も、石工さんに安全を確認してもらって――」
「寝てから」
「まだ言いますか」
「言う」
古い結界のことを考えれば、すぐにでも資料室へ入りたかった。
けれど昨夜、自分は一人で残らずに済んだ。壁を壊さずに朝まで待つこともできた。
なら数時間眠るくらいは、たぶんできる。
セレナは少し考えてから、渋々頷いた。
「午前中だけなら」
「昼まで」
「交渉しましょう」
「寝る時間まで交渉するのか」
二人はそんな話をしながら山道を下り始めた。
監視塔で見つけたのは、一つの古い設備ではないかもしれない。城も、裂け谷も、厩舎も、この塔も、かつては同じ何かの一部だった可能性がある。
その答えは、城へ戻れば古い地図の中に残っているはずだった。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




