第13話 古い地図
監視塔から戻った翌々日、セレナは城の資料室で古い地図を広げていた。
床には現在の領内図と、五十年前、八十年前、さらに古い軍用地図が重ねてある。中には紙ではなく薄い皮へ描かれたものもあり、年代を遡るほど街道や村の位置が今とは合わなくなっていた。
朝から整理を続け、昼を過ぎても終わっていない。
「お茶、置いておきますね」
リナが机の端へカップを置いた。
「ありがとうございます」
「今度は冷える前に飲んでください」
「飲みます」
「さっきもそう言いました」
返事をしながら、セレナは監視塔で写した線を古地図へ重ねる。
塔の地下で見つけた結界線は北東へ伸びていた。現在の地図ではその先に目立った施設はないが、百年以上前の図には小さな砦が記されている。同じ方法で裂け谷、厩舎、城地下の旧設備を照合すると、それぞれ古い見張り所や兵站所と重なった。
「やはり、偶然ではなさそうですね」
古い街道を基準に線を結ぶと、点だった遺構が一つの形を作り始める。現在の領境とは関係がなく、むしろ当時の軍事施設を繋ぐように配置されていた。
リナが無言でカップを指す。
「今、かなりいいところなんですが」
「飲んでからでも地図は逃げません」
監視塔でも似たようなことを言われた気がする。セレナは諦めてカップを取り、一口飲んだ。すでに少し冷めていたが、頭の熱が下がったぶん、地図全体が見やすくなった。
「ローデリック様はどちらにいますか」
「執務室です。辺境伯様も昼前には戻られています」
「では、お二人を呼んでもらえますか」
ほどなくしてカイルとローデリックが資料室へやってきた。
「何か見つかった?」
「仮説ですが、かなり可能性は高いと思います」
セレナは二人を地図の前へ招いた。
「監視塔、裂け谷、城地下、厩舎。これまで見つかった旧設備を百年以上前の地図へ置くと、当時の軍事施設とほぼ重なります。魔力の脈動周期も近いので、それぞれが独立した結界だったとは考えにくいです」
ローデリックが床へ膝をつき、砦の印を確かめる。
「この砦は、私の祖父が生まれる前に廃止されていますな」
「記録では百二十七年前です。ただし地下設備は、さらに古い可能性があります」
「全部で一つの結界だった?」
カイルが地図の端から端へ視線を動かす。
「一枚の壁というより、複数の基点を繋いだ網だったのだと思います。一か所へ負荷が集中した時、別の場所へ逃がす構造なら、監視塔で見た配線の形とも合います」
「今も動いてる?」
「一部は。ただ、どちらへ流れているのかが分かりません」
そこまで説明して、セレナは地図の南側にある二点を指した。
「使われていない旧基点を二つ、低出力で一時的に接続してみたいです。流れの向きが分かれば、網の役割を絞れます」
「危険は」
「ゼロではありません。ただし制限具を入れ、異常があればすぐ遮断します。今分かっている範囲なら、大きな暴走にはならないはずです」
「はず、か」
「絶対と言えば嘘になります」
カイルは少し考えてから、人員を尋ねた。
「私のほかに流量を見る術者が一人、石工二人。周囲の退避管理に騎士を数人お願いします」
「俺も行く」
「戦闘ではありませんよ」
「知ってる。君が『大丈夫なはず』と言ったから行く」
「最近、本当に心配性になりましたね」
「誰のせいだ」
ローデリックが笑いを隠すように咳払いした。
「試験はいつにしますか」
「準備だけなら明日でも」
「明後日」
カイルが即座に決める。
「なぜです」
「石工に先に現場を見せる。退避経路も作る」
一日遅らせることで失うものはない。むしろ、初めて触る設備なら事前確認を増やす方が合理的だった。
「分かりました。では明後日に」
セレナはもう一度地図へ目を落とした。
仮説が正しければ、これまで別々に見えていた異常を一つの構造で説明できる。裂け谷も監視塔も城地下も、人為的に動かされていた結界石も、同じ網の一部なのかもしれない。
*
二日後の朝、試験地点には予定した人員が揃っていた。
城から南へ半刻ほどの丘陵地で、草地の中央に古い結界石が半ば土へ埋まっている。現在の村の防衛線はもっと東へ移っているため長く使われていなかったが、内部の魔力路はまだ生きていた。
「西側、固定終わりました!」
石工の声が飛ぶ。
反対側では若い術者が流量計を確認している。セレナの前には銀線を巻いた制限具があり、流量が一定値を超えれば自動的に焼き切れて接続を断つ仕組みになっていた。
「全員、退避線の外へお願いします」
騎士たちが人を下げる。
カイルだけは線のすぐ外に残った。
「もう少し離れてください」
「ここでいい」
「異常が起きても、剣で結界は止められませんよ」
「君を運ぶことはできる」
「今回は運ばれる予定はありません」
「橋でもそうだった」
反論しても終わらないと分かり、セレナは測定針へ視線を戻した。
「では、異常が出ても私より先に石へ触れないでください」
「分かった」
「本当にお願いします」
「二回言わなくても分かる」
呼吸を整え、古い溝へ測定針を差し込む。
「接続します」
魔力を少しずつ送り込むと、古い結界石の表面を細い青光が走った。刻まれた溝が一本ずつ明るくなり、少し離れた西側の基点にも同じ光が灯る。
「反応しました。流量、規定内です」
補助術者の声が届く。
測定針も予測した方向へ傾いた。
西から東。
仮説どおりなら、このまま安定するはずだった。
「そのまま維持してください。流向を――」
言い終える前に、針が大きく揺れた。
セレナはすぐ供給を下げる。
「待ってください。流量は?」
「上がっています」
こちらから送る魔力を減らしているのに、数値が落ちない。それどころか、流量計の針はさらに上へ動いた。
「供給を止めます」
魔力を切る。
それでも止まらなかった。
地面の下から低い唸りが響き、古い結界石の青光が一気に白へ変わる。
「遮断してください!」
石工が西側の留め具を外した。
「切れません!」
制限具もすでに焼き切れている。それなのに魔力は流れ続けていた。
接続した二点の間で循環しているのではない。別の場所から流れ込んでいる。
「全員、退避!」
カイルの声が響き、騎士たちが人をさらに下げる。補助術者も流量計を抱えて後退したが、セレナは基点前へ残った。
白く光る溝を追う。
一方向ではない。
接続したことで眠っていた複数の経路が開き、別系統から同時に魔力が流れ込んでいる。
「地下で分岐している……」
基点の上部へ細い亀裂が走った。
「アシュフォード!」
「来ないでください!」
今、近づく人間を増やす方が危険だ。
「三番と四番の補助石を外してください! 一番と二番はそのままで!」
待機していた石工がすぐ動いた。
「全部じゃなくていいんですか!」
「全部外すと流れの出口がなくなります。その二つだけ!」
一つ目が外れると、白い光がわずかに揺れた。二つ目を抜いた瞬間、流量が目に見えて落ちる。
「下がっています!」
補助術者の声が飛ぶ。
セレナはその隙を逃さず、基点の手前へ遮断膜を作った。完全に閉じれば石が砕けるので、余剰魔力を地面へ逃がしながら少しずつ入口を絞っていく。
「村側の石が光りました!」
遠くを見張っていた騎士が叫んだ。
予定していない場所だった。
そこまで繋がっている。
試験に使った二基だけではなく、離れた別の基点まで同時に反応している。古代網は想定していたより広く、しかも単純な一方向の防衛線ではない。
「あと少しです。そのまま補助石を動かさないでください!」
最後に大きな振動が一度だけ走った。
古い基点の上部が割れ、石片が草の上へ散る。それと同時に白い光が消え、地面の唸りも止まった。
静かになった丘で、セレナはしばらく測定針を見ていた。
「流量、ゼロです」
補助術者が確認する。
「止まりました」
答えると、すぐカイルが近づいてきた。
「怪我は」
「ありません」
「手は?」
「大丈夫です。石片も当たっていません」
両腕まで確認してから、ようやくカイルは離れた。
セレナは壊れた基点へ視線を戻した。上部が大きく欠け、このまま再使用することはできない。
「私が読み違えました」
口にすると、思ったより落ち着いていた。
「何を」
カイルが尋ねる。
「この網の用途です。私は複数の防衛基点を繋ぎ、負荷を分散する構造だと考えていました。それだけなら、接続後の流れは一方向になるはずです」
ところが実際には、外へ広がる経路だけでなく内側へ向かう流れもあった。複数の場所から同時に魔力が入ったことも、防衛網だけでは説明しづらい。
「封印も兼ねてる?」
ローデリックが尋ねる。
「可能性があります。もし防衛と封印を同じ網で扱っているなら、個々の基点だけを見ても役割は判断できません」
手持ちの情報から立てた仮説としては、不自然ではなかった。
それでも試験を決めたのは自分だ。
「次は、全系統を私が確認してから試験します」
「なぜそうなる」
カイルの返事があまりに早く、セレナは顔を上げた。
「私の判断で皆さんを危険に晒しました」
「だから一人で調べる?」
「少なくとも、確認段階ならその方が他の人を巻き込みません」
「今日、一人だったら止められた?」
「遮断そのものはできます」
「補助石を外したのは?」
石工を見る。
「石工さんです」
「流量を見てたのは?」
「補助術者です」
「周りを下げて、別の基点が光ったのを見つけたのは?」
騎士たちがいた方向を見る。
自分は中央の流れを止めることに集中していた。遠くの村側基点まで同時に確認する余裕はなかった。
「……騎士の方です」
「君は中央を止めた。それで全員で止めたんだろ」
「でも、原因を作ったのは私の判断です」
「そうだな」
否定されなかった。
責任がないと言われるより、その方が納得できた。
カイルは壊れた基点を示した。
「読み違えたのは君だ。だから次は調べ方を変える。それは必要だ。でも、失敗したから人を減らすのは違う」
「私一人なら、少なくとも――」
「君がもう一つ読み違えた時、誰が止める」
その問いには答えられなかった。
今日の試験で、自分は一度間違えた。その後の判断で止められたからといって、次の判断も必ず正しい保証はない。
「失敗した時に人を減らすんじゃない。止められる人間を増やせ」
風が草地を抜け、壊れた石の周囲に散った砂を動かした。
セレナは現場を見る。
石工は自分にはできない位置から補助石を外した。術者は流量を監視し続け、騎士は人を退避させながら遠くの異常まで見つけている。誰もセレナの手足としてそこにいたわけではなく、それぞれが自分の役割で事態を止めていた。
「分かりました」
「本当に?」
「疑っていますね」
「前があるからな」
「では言い直します。次の調査では人を減らしません。必要なら増やします」
「それでいい」
セレナは壊れた石へ視線を戻した。
「ただし、調べる範囲も増えます」
「好きにしろ」
いつもの返事だった。
少し考えてから、セレナは尋ねた。
「仕事を取り上げないんですか」
「なぜ?」
「試験に失敗しました」
「見てた」
「基点も壊しました」
「それも見てた」
「皆さんを危険に晒しました」
「怪我人はいない」
「それは結果論です」
「そうだな」
それでも、次は別の責任者へ任せるという話にはならない。
王都なら、少なくとも一度は責任者から外され、上役の判断を待つことになっただろう。正しいかどうかではなく、そういう手順を取ることが多かった。
「本当に、私が続けていいんですか」
「君は間違えたと分かったら止めた。誤魔化してないし、原因も今から調べるんだろ」
「はい」
「なら続けろ。新しいことを調べて、一度も外さない奴なんていない」
カイルはそれだけ言い、騎士たちへ撤収の指示を出し始めた。
セレナはしばらくその背中を見たあと、自分も壊れた基点の記録を取り始めた。
*
城へ戻った後、セレナは試験に参加した全員の記録を一つの机へ集めた。
自分の測定値だけでなく、補助術者が見ていた流量、石工が補助石を外した時刻、騎士が遠くの基点へ異常を見つけた順番まで並べていく。
一つずつでは意味のなかった数字が、時刻を揃えると繋がった。
最初に西側基点が反応し、次に南東、そこからさらに離れた村の石へ流れが移っている。地図へ落とすと、既知の四地点だけでは足りなかった。
「少なくとも十五地点は確認が必要です」
夕方、資料室へ戻ってきたローデリックへ説明する。
「十五?」
「今分かるだけで、です。位置を確認するだけでは足りません。周辺地脈、現在の結界との干渉、古文書との照合も必要ですし、次の試験方法も作り直します」
「全部見るなら、どのくらいかかります?」
セレナは移動日数まで含めて計算した。
近い場所なら一日で往復できるが、山中や廃砦はそうはいかない。地下設備が残っていれば石工も必要になり、封印機能があるなら不用意に起動させることもできない。
「最低でも半年です」
「半年?」
資料室の入口から声がした。
カイルだった。
「はい。調査だけで最低半年。恒久的な修復まで含めれば、もっとかかります」
「半年で調べられる?」
「おそらく。人員をきちんと組めるなら」
言いながら、セレナは自分が半年先の辺境を当然のように考えていることに気づいた。
ここへ来た時には、いくつか壊れた結界を調べ、必要な補修が終わればその後を考えるつもりだった。
今はもう、その範囲ではない。
「長期の調査になるなら、王都から別の専門家を手配する方法もあります。私が記録をまとめて――」
「なら半年いてくれ」
その一言で、続きが止まった。
カイルは地図を見ながら言っただけだった。
「調べるんだろ」
「はい」
「君が」
「そのつもりではあります」
「なら、半年いてくれ」
仕事の話だ。
古代結界を最も理解している術者を、そのまま調査へ使いたい。それだけだと考えれば、何も不思議ではない。
それでも、今日は失敗した。
自分の仮説を外し、基点を一つ壊した。その日の終わりに、仕事を外されるどころか半年先までここにいてほしいと言われている。
「……分かりました」
セレナは地図へ目を落とした。
「半年、調査します」
「頼む」
カイルはそれ以上何も付け加えず、ローデリックへ夕食の時間を尋ねた。
話はもう終わったらしい。
セレナは地図の上に散らばった十五の印を見る。
明日から調べる場所は増える。
次も、すべて正しく読めるとは限らない。
それでも今度は、一人で正解を作る必要はなかった。
セレナは新しい紙を一枚取り、十五の印の横へ、それぞれ誰と確認するべきかを書き始めた。
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