第7話 森の中の偽道
翌朝、捕らえた男はハーゼ村の納屋で椅子に縛られていた。
昨日、東の祠を調べている間に、村へ残った騎士が森の外れで見つけた男である。腰には小刀、袋の中には銀線を切るための細い工具が入っていた。疑う材料としては十分だ。
納屋の中は薄暗い。板壁の隙間から朝日が幾筋も差し込み、床に落ちた藁屑を照らしている。乾いた飼葉の匂いに、湿った土の匂いが混ざっていた。
「誰に頼まれた」
カイルは男の正面に立ち、腕を組んでいる。
「知らねえ」
「結界を切る仕事だとは聞いていた?」
「言われた場所の線を切れってだけだ」
「金は」
「前金半分。終わったら残り」
「受け渡しは?」
「森の南にある石塚だ」
「依頼人とは会ったのか」
「一度だけ。顔は布で隠してた」
カイルの質問は短い。怒鳴らず、脅し文句も使わない。声の高さもほとんど変わらない。それでも男が目を逸らすたび、次の質問が逃げ道を塞ぐように置かれていく。
壁際で聞いていたセレナは、男の腰袋から取り出した木札を眺めていた。手のひらに収まる大きさで、表面は削り出したまま磨いていない。
赤い線が二本。文字はない。
「これは?」
「目印だ。森に同じ印がある」
「どこに」
「知らねえよ。俺は祠までだ」
カイルが男の顔を見たまま、片手を差し出す。セレナは木札を渡した。
「ほかに何をした」
「粉を撒いた」
「魔晶石の?」
「そうだ」
「どこへ」
「印のある木を辿って東へ」
昨日見つけた粉と一致する。
「魔獣を呼ぶため?」
セレナが尋ねると、男は肩をすくめた。
「俺は専門家じゃねえ」
「誰かが説明したでしょう。触るなとか、こう撒けとか」
「袋を開けて道に落とせって」
「自分が襲われる危険は?」
「夕方までに終われって言われた。夜は入るなとも」
セレナは記録帳へ書く。依頼人は魔獣の反応を知っている。撒く量ではなく、時間帯を指定した。粉に反応が出るまでの猶予を把握しているということだ。
少なくとも素人ではない。
「いつから?」
「一週間前」
「一度だけ?」
「三回だ」
「同じ道?」
「違う」
男が顎で木札を示す。
「赤い印を追えって言われた。毎回、入口が違った」
カイルがセレナを見た。
「行くか」
「行きます」
「そう言うと思った」
今朝は休憩を命じられる前に朝食を食べてある。そのことを言うと、カイルは「それは報告しなくていい」とだけ答えた。
*
森の入口に赤い印はすぐ見つかった。
樹皮へ塗られた二本線。塗料は雨に流れておらず、縁がはっきり残っている。人の目には分かりやすい。
「露骨ですね」
ローデリックが言う。
「捕まった男に見せるためでしょう」
セレナは印の高さを見た。胸より少し上。同じ位置に次の木があり、さらにその先にもある。迷う余地がない。
カイルが先頭を歩く。
「楽でいいな」
「そうとも限りません」
「なぜ」
「依頼人が、捕まった人に本当の場所まで教える必要はないからです」
赤い印を五つ辿ったところで、セレナは足を止めた。
「ここ」
印のついた木の根元へしゃがむ。赤い線の下で、苔の一部だけが小さく削られていた。爪で引っ掻いた程度の傷だ。
その奥に、針穴ほどの黒い点があった。
「印?」
「たぶん」
次の赤印ではなく、右側の木を探す。同じ高さではない。膝より下、根に近い場所に黒い点があった。しゃがまなければ、一生気づかない位置だ。
「赤は運び役用。黒が本当の道かもしれません」
「根拠は」
「赤い印だけを辿ると、地脈の流れから外れていきます。魔晶石の粉を使うなら、流れに沿った方が効率がいい」
カイルは一度だけ周囲を見渡した。
「試す」
迷いは短い。確かめる方法があるなら、議論より先に足を動かす人だった。
隊列を組み直し、赤い印を外れて黒い点を探しながら東へ進む。
最初は半信半疑だった騎士たちも、三つ目の黒点の近くで魔晶石の粉を見つけると表情を変えた。
「本当にこっちだ」
「まだ油断しないでください」
セレナは地面の流れを測る。魔力が少しずつ低くなっていた。坂を下っているわけでもないのに、進むほど手の中の石が沈黙していく。
「この先で、何かに吸われています」
「結界か」
「可能性があります」
さらに進むと、谷が現れた。
深くはない。ただ、岩肌が左右から迫り、その間に細い裂け目がある。木が生えておらず、そこだけ森の色が途切れていた。
裂け目の手前には、簡素な野営跡がある。
「人がいる」
騎士が囁く。
五人。袋から魔晶石の粉を取り出し、裂け目へ撒いている。そのうち一人が弓を持っていた。
カイルがしゃがみ、地面へ簡単な図を指で描く。
「北から俺と二人。南はローデリック。逃げ道を塞ぐ」
「西が空きます」
騎士が言う。
セレナは谷の形を見た。西側は岩の間が細くなっていて、抜けるには一列にならざるを得ない。
「私が西を塞ぎます」
「一人で?」
「狭いですから、結界一枚で足ります」
騎士がすぐ首を振った。
「矢が来たら危険です」
もっともな心配だった。セレナは位置を変え、岩陰を指す。
「ここなら射線が通りません。完全に捕まえる必要もありません。西へ逃げる速度を落とせれば十分です」
カイルは数秒だけ地形を見ていた。
「その案で行く」
「辺境伯様」
「ここまで道を見つけたのは彼女だ。西の流れも彼女が一番分かってる」
騎士は納得しきってはいない顔だったが、反論は止めた。
カイルが続ける。
「ただし、矢が一本でも岩陰へ入ったら撤退しろ」
「分かりました」
「無理に維持するな」
「はい」
各自が位置につく。セレナは岩陰へ身を入れ、銀杭を二本だけ地面へ刺した。広い壁は要らない。逃げ道の幅だけ塞ぐ。
遠くで鳥が一羽飛び立った。
その直後、カイルたちが動く。
「武器を捨てろ!」
男たちが振り返る。一人が弓へ手を伸ばしたが、騎士の投げた石が手元へ当たり、矢が落ちた。
二人が北へ逃げ、ローデリック側の騎士に押し返される。一人が西へ走った。
セレナは魔力を流す。薄い結界が岩の間に立ち、男がぶつかってよろめいた。
「なんだ、これ!」
完全には止まらない。けれど十分だった。追いついた騎士が腕を取る。
別の男が短刀を抜き、セレナのいる岩陰へ投げた。反射的に腕を上げる。刃は結界へ当たり、横へ弾かれた。
それでも肩に衝撃が走る。膜越しでも、当たった位置の骨まで打たれたように痛んだ。
「アシュフォード!」
カイルの声が飛ぶ。
「大丈夫です!」
言ってから、昨日までなら「動けます」と答えていたかもしれないと思った。
戦闘は長く続かなかった。五人全員を捕らえる。弓、短刀、粉袋。それから、また赤い二本線の木札。
「同じですね」
ローデリックが拾い上げる。
「でも、この人たちは祠を切った男より先を知っているかもしれません」
セレナは肩を回した。痛みはあるが、腕は上がる。
その様子を、さっき反対した騎士が気まずそうに見ていた。
「アシュフォード様」
「はい?」
「さっきは、すみません」
「何がです?」
「あなた一人では危ないと思って」
「危ないのは事実です」
「でも、作戦は正しかった」
「それも事実です」
騎士が一瞬困った顔をし、それから笑った。
「変な人ですね」
「最近よく言われます」
そのやり取りを聞いていたカイルが、全員へ向き直る。
「今後、結界と魔力の異常が絡む現場では、彼女の指示を俺の指示と同じものとして扱え」
騎士たちの表情が引き締まった。
「彼女が右と言ったら右へ動け。止まれと言ったら止まれ。疑問があるなら終わってから聞け」
セレナの方が驚いた。
「そこまで権限をいただいていいんですか」
「現場で毎回説明してたら間に合わない」
「でも」
「嫌か」
「いいえ」
「なら決まりだ」
あまりに簡単に決めるので、重みを理解するのが少し遅れた。
これは礼ではないし、昨日の実績だけでもない。次も自分の判断を使う、と公に決めたのだ。取り消すには、同じ場所で同じ人数の前で言い直さなければならない。そういう形で渡された。
「分かりました」
セレナは今度こそ、まっすぐ頷いた。
*
捕らえた男たちの一人は、予想より早く口を割った。
「俺たちは獣を谷へ追い込んでただけだ!」
「何のために」
「知らねえよ!」
カイルが黙って見ていると、男は耐えきれなくなったように続ける。
「裂け目の奥に青い石があるんだ。それを起こせって言われた!」
「起こす?」
「粉を撒いて、獣を中へ入れろって。入った獣は戻ってこねえ」
セレナの背中を冷たいものが走った。
「どのくらいの大きさです?」
「人よりでかい。青く光ってる」
「形は」
「柱みたいな……」
古い結界石かもしれない。
「見せてください」
谷の裂け目へ入る。内部は人一人が通れる程度で、両側の岩が肩をかすめ、上を見上げると空が細い帯にしか見えない。足音が反響して、実際より人数が多く聞こえた。
十数歩進んだところで、岩壁の間に青白い光が見えた。
セレナは息を整え、近づく。
人の背丈ほどある石柱だ。表面に刻まれた紋様は、王都の現行式とはまるで違う。線が交差せず、重なっている。昨日、城の地下で見た古い魔力溝に似ていた。
「これ……」
指を近づけた瞬間、石が低く脈打った。
どん、と奥から音がする。音というより、腹に届く圧だった。
石柱が作っているのは、外から何かを入れない壁ではない。向きが逆だ。
「近づかないでください」
セレナは手を引いた。
「どうした」
「これは、防御結界ではないかもしれません」
「何を守ってる」
「守っているというより」
石の流れを読む。拒絶、境界、封鎖。
「中から何かが出ないようにしています」
カイルの手が剣の柄へ移った。奥で、また低い音がする。
セレナの胸は危機感と同時に、抑えきれない興味で高鳴った。
知らない。見たことのない構造だ。誰が、何のために、これだけの手間をかけて内側を閉じたのか。答えが目の前の石に彫ってあるのに、まだ読めない。
「もう少し近くを――」
「今日はここまでだ」
カイルが即座に言った。
「あと一列だけ」
「駄目だ」
「紋様を一列写すだけです」
「その顔は一列で終わらない」
リナが後ろから深く頷く。
「辺境伯様に賛成です」
「二対一は卑怯です」
「昨日も聞きましたね、それ」
結局、入口近くの紋様だけを紙へ写して戻ることになった。
帰り際、ローデリックが石柱脇の金具を指す。
「これ、新しくないですか」
黒い鉄製の留め具だった。錆はまだ表面だけで、角も潰れていない。古代の石には不釣り合いだ。
セレナは触れずに形を見る。
「王都でよく使う規格です」
「王都?」
「少なくとも北部の鍛冶屋の形ではありません」
少し離れた地面には、銀貨が一枚落ちていた。泥に半分埋まっていたが、拭えば刻印が読める。王都鋳造局。
人の手、王都式の部材、そして古い結界。まだ線にはならない。でも、偶然だけで片づけるには材料が増えてきた。
「戻って記録を照合します」
セレナが言うと、カイルが頷いた。
「その前に肩を見せろ」
「動きます」
「聞いてない」
「……少し痛いです」
「それでいい」
何が「いい」のかは、まだよく分からない。ただ、セレナは以前より少しだけ、自分の状態を答えることに慣れ始めていた。
裂け谷を離れる前、セレナは入口の木へ小さな布を結んだ。赤でも黒でもない、白い布だ。
「目印?」
「警告です。調査が終わるまで、村の人が間違って入らないように」
「敵にも見えるぞ」
「隠す必要のないものですから」
カイルは白布を一度見上げ、それ以上は何も言わなかった。
帰路、昨日まで鳥のいなかった森で、頭上の枝が一度だけ揺れた。小さな灰色の鳥が一羽、低い枝へ降りる。
ガルトが先に気づいた。
「戻ってきたな」
「一羽だけです」
セレナは見上げる。
「でも、昨日は一羽もいなかった」
老人はそう言って、嬉しそうに目を細めた。
魔晶石の粉を撒いていた男たちを捕らえたからといって、森がすぐ元へ戻るわけではない。それでも、変化は小さなところから現れる。数えられるのは、まだ一羽だ。
カイルが歩調を緩め、セレナの肩へ視線を落とした。
「さっきの衝撃、悪化してないか」
「少し重いですが、腕は上がります」
実際に肘を肩の高さまで持ち上げてみせる。
「見せなくていい」
「確認した方が早いでしょう」
「そういうところだ」
「何がです?」
答えないまま、カイルは前を向いた。その背中を見ていた騎士が小さく笑ったので、セレナはますます意味が分からなくなる。
森を抜ける前、白い警告布を結んだ木が見えた。風に揺れている。
誰かに見つけてもらうための印。赤い線や黒い点とは違い、隠す必要のない目印だ。
セレナは馬上から一度だけ確かめ、そのまま村へ戻った。
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