第6話 最初の村
ハーゼ村へ向かう道は、城下を離れて半刻ほどで街道らしさを失った。
雪解け水に削られた轍へ馬の蹄が沈み、そのたびに泥が左右へ跳ねる。踏み抜くたびに、ぐしゃ、と湿った音がした。昨日まで王都の石畳を歩いていた靴では、とても無傷では済みそうにない道だ。
「辺境伯様」
後ろからリナが恨めしそうに声を上げる。
「なんだ」
「舗装してください」
「金があればな」
「夢のない返答ですね」
「現実的と言え」
先頭を行くカイルは振り返りもしない。けれど、その返事があまりに即座だったので、セレナは手綱を握ったまま少し笑った。
今日の同行者は七人だった。カイル、セレナ、リナ、ローデリック、石工が二人。それに、途中の猟師小屋で加わった老人ガルトである。
ガルトは腰の曲がった小柄な男だったが、馬に乗ると妙に姿勢がいい。手綱の持ち方も緩く、馬の方が道を知っているという乗り方だった。
森の入口へ差しかかったところで片手を上げ、全員を止める。
「この先から村道だ。谷を越えればハーゼ村になる」
「何か気になることがありますか」
セレナが尋ねると、ガルトは道の東側へ広がる森を顎で示した。
「三日前から鳥がいない」
言われて初めて気づいた。
風が枝を鳴らす音はする。馬の鼻息も、荷車の車輪が泥を噛む音も聞こえる。それなのに、鳥の声だけがない。
音がないのではなく、一種類だけ抜けている。楽団から弦だけを抜いたような欠け方だった。
「魔獣のせいでしょうか」
「分からん。ただ、森が静かすぎる時はろくなことがない」
ガルトは測定器を持っていないし、魔力の流れを見ることもできない。それでも、この土地で何十年も生きてきた人間にしか拾えない異常がある。数字にならないぶん、たぶん誰にも引き継げない種類の知識だ。
セレナは鞍袋から記録帳を取り出し、「東森・鳥の減少、三日前から」と書きつけた。
「そんなことまで書くのか」
カイルが横から覗く。
「後で意味が出るかもしれません」
「出なかったら?」
「その時は、何もなかったと分かります」
「なるほど」
彼はそれ以上言わなかった。
谷が開けると、ハーゼ村の屋根が見えた。三十軒ほどの家と、畑、羊小屋、小さな水車。遠目には、ごく普通の村に見える。
近づくと、違いが分かった。
畑に出ている者がいない。家の戸は半分ほど閉まったままで、そのいくつかは外から板を渡して打ちつけてある。物干しに洗濯物が残ったままの家もあった。
昨日、灰狼の群れに追われて多くの住民が南へ避難したからだ。持って出られなかったものだけが、そのまま残っている。
村の入口では、十人ほどの住民が待っていた。
「辺境伯様!」
年配の男が駆け寄る。
「村長です」
ガルトが教えてくれた。
カイルは馬から降りると、まず人数を確認する。
「残ったのは?」
「十五人です。老人が八人、家畜の世話をする者が五人。それと……」
男の声が少し小さくなる。
「子どもが二人」
「なぜ残した」
「隠れていたんです。避難の荷車が出たあとで見つかって」
カイルの眉間に皺が寄ったが、怒鳴らなかった。
「今どこにいる」
「教会です」
「そこから出すな。騎士を一人つける」
セレナは村の東西を見た。
「結界石は全部で五基でしたね」
「はい。西に二つ、東に三つ」
「壊れた石はありますか」
「見たところは」
「では、順番に確認します」
最初の石は村の西端にあった。高さは腰ほどで、表面に古い紋様が刻まれ、青い光は弱いながらも残っている。
セレナは手袋を外し、石へ直接触れた。冷たい。ただし、死んだ石の冷たさではない。深いところで、脈のような動きがまだある。
「石そのものは生きています」
「では、なぜ村全体の結界が落ちた」
ローデリックが聞く。
「水が来ていない水車と同じです。羽根が壊れていなくても、水路が止まれば回りません」
石工の一人が頷いた。
「石を直すより、上流を見るべきだと」
「はい」
五基すべてを確認した結果は同じだった。どれも完全には壊れていないが、供給される魔力が極端に弱い。
「東から来るはずの流れがありません」
セレナは村の地図に指を置く。
「東に何があります?」
「昔の祠だな」
ガルトが答える。
「今は誰も使っとらん。森の縁にある」
「結界施設ですか」
「さあ。子どもの頃から石が立ってるだけだ」
カイルが東の森を見た。
「鳥が消えた方角か」
「同じですね」
セレナは記録帳を閉じる。
「見に行きます」
「俺も行く」
「村の守りは?」
「騎士を残す。俺がいなくても村は守れる」
その言い方に迷いはない。昨日の執務室で言った通り、自分でなければできないことと、他人へ任せられることを分けている。任せられる側を数えてから動く人だった。
セレナは頷いた。
*
東の祠までは、村から歩いて二十分ほどだった。
森の縁に、半ば土へ埋もれた石柱が三本並んでいる。高さは人の胸ほど。傾き方がばらばらで、一本は根元から斜めに沈んでいた。祠というより、古い結界基点の名残に見える。
「これですね」
セレナは石柱の前へしゃがみ込む。
表面には苔がついている。だが、根元だけ不自然に新しい土が露出していた。周囲の地面は落ち葉が積もって黒いのに、そこだけ茶色い。
「最近、掘られています」
石工が手で土を崩す。
「昨日今日じゃない。雨の前だな」
さらに掘ると、銀線が出てきた。一本ではない。村側へ伸びる線と、森の奥へ向かう線。その接続部が、刃物で切られていた。
カイルが腰を落とし、切断面を見る。
「魔獣じゃないな」
「はい。かなりきれいです」
自然劣化なら、銀線は細く痩せてから切れる。断面はざらつき、まわりが変色する。これは違う。切り口が平らで、光沢まで残っていた。一度で断ち切っている。
しかも切っただけではなかった。
「……向きを変えています」
セレナは泥を払った。村へ流れるはずだった銀線が、別の導線へ繋ぎ直されている。
「どこへ」
「東です」
森の奥。鳥が消えた方角だ。
カイルが立ち上がる。
「人がやった?」
「少なくとも、この接続は人の手です」
「直せるか」
「村側だけなら、今すぐ」
「なら先に戻せ」
セレナは頷き、工具を広げた。
「石工さん、根元をあと手のひら二枚分だけ掘ってください。銀線を傷つけないように」
「任せてくれ」
「ローデリック様、村へ伝令を。結界が戻るまで東側へ近づかないように」
「承知しました」
誰か一人が全部をやる必要はない。必要な指示を出すと、それぞれが動く。
王都では、指示を出す前に説明が要った。ここでは、指示がそのまま動作に変わる。
セレナは切断された線を新しい銀線で繋ぎ、魔力を少しずつ流した。いきなり全量を戻せば、長く止まっていた基点へ負荷がかかる。
「一割……二割……」
石柱の根元から、青白い光が指の太さで這い上がった。
遠く、村の方から鐘の音が聞こえる。
「戻った合図です」
ガルトが言う。
セレナは少しだけ肩の力を抜いた。
しかし、問題は残っている。東へ繋ぎ直された線。誰かがわざわざ村の結界を弱め、森の奥へ魔力を送った。
「追いますか」
カイルが聞く。
「このままでは」
「なら行く。ただし村の確認をしてからだ」
セレナは一瞬、今すぐ東へ入りたいと思った。切断面を見れば、使われた工具も分かるかもしれない。導線が新しいうちなら、魔力の残滓も拾いやすい。時間が経つほど、読めるものは減っていく。
けれど、カイルの判断は正しい。
「分かりました」
*
村へ戻ると、五基の結界石には順番に光が戻っていた。教会前では、残っていた住民たちがそれを見上げている。
「これで大丈夫ですか」
村長が聞く。
「今夜は大丈夫です。ただ、原因を作った人がまだ分かっていません」
「人が?」
「結界線が切られていました」
ざわめきが広がる。安堵で緩みかけた顔が、一斉に別の方向へ固くなった。
セレナは不安だけを残さないよう、続ける。
「今夜は東側へ近づかないでください。結界は戻っています。騎士も残ります」
「明日も?」
「明日は今日より強くします」
そう答えた時、教会の扉が勢いよく開いた。
「ミルがいない!」
女性が飛び出してくる。
「誰です?」
「娘です。八歳で……さっきまで弟と中にいたのに!」
弟らしい男の子が泣きながら言う。
「羊が一匹いなくて、探しに行った」
「どっちへ」
「東」
空気が変わった。カイルはすでに剣帯を確かめている。
「俺と騎士二人で行く」
「私も」
「結界は直したばかりだ」
「だから流れを追えます。子どもがどこで外へ出たかも」
カイルは一拍だけセレナを見た。
「走れるか」
「はい」
「なら来い」
今度は馬を使わなかった。村東側の柵を越え、羊の足跡を探す。泥の上に小さな靴跡が残っていた。歩幅が狭い。走ってはいない。
「こっちです!」
セレナが指す。
森へ入って百歩ほどで、泣き声が聞こえた。
倒木の陰で、少女が羊を抱えて動けずにいる。その前に灰狼が二頭いた。
「動くな!」
カイルの声が飛ぶ。少女が顔を上げ、灰狼もこちらを向いた。
セレナは地面へ銀杭を一本だけ刺す。大きな結界はいらない。少女と狼の間だけでいい。
「今!」
薄い壁が立つ。一頭目がぶつかり、進路を失った。
その横をカイルが抜ける。剣が走った。二頭目が横から飛びかかるが、騎士が槍で押し戻す。
数秒で終わった。
少女は羊を抱いたまま震えている。腕の中の羊も同じように震えていて、どちらがどちらを支えているのか分からなかった。
カイルは剣を収めると、少し離れた位置で膝をついた。
「怪我は?」
少女は首を振る。
「羊は?」
「……たぶん」
「なら帰るぞ」
手を伸ばさない。怖がらせないよう、少女が自分から立つのを待っている。
セレナはその横へ行き、羊の脚を確認した。
「この子も大丈夫そうです」
「よかった……」
少女の目から涙が落ちた。
帰り道、セレナは少女と並んで歩く。
「結界、直ったの?」
「直りました」
「じゃあ、もう狼は来ない?」
「絶対とは言えません」
少女の顔が曇る。
「でも、今夜は村の中にいれば大丈夫です。明日はもっと強くします」
「ほんと?」
「約束します」
少女はようやく笑った。
守っているのは結界石ではない。その向こう側に、こういう顔がある。
王都にいた頃も同じだったはずなのに、セレナはそのことをほとんど知らなかった。塔の数値が戻れば、それで一件が閉じた。数値の先に何人いるのかを、報告書は書いていない。
*
夕方、東の祠へ戻ると、セレナは森へ向けられた導線を追った。
地表では見えない。だが、ところどころに細かな魔晶石の粉が落ちている。夕日の角度によって、落ち葉の上でだけ青くちらついた。
「餌みたいですね」
石工が言う。
「ええ。魔力に反応する魔獣なら追います」
「村へ来た狼を、森の奥へ?」
「逆です」
セレナは粉の向きを確かめる。
「森の魔獣を、もっと東へ誘導しています」
「村から遠ざけている?」
「結果だけ見れば」
カイルはしゃがまず、森の奥を見たまま聞いた。
「善意か」
「分かりません」
むしろ妙だ。村の結界を弱めてまで、森の奥へ魔力を流す必要がどこにある。守るためなら、もっと安い方法がいくらでもある。
その時、ガルトが低い声を出した。
「この先に、古い裂け谷がある」
「何があります?」
「何も。昔から近づくなと言われてるだけだ」
「理由は?」
「知らん」
セレナとカイルの視線が重なった。
「明日」
カイルが言う。
「森へ入る」
「はい」
「今日はここまでだ」
今度はセレナも反対しなかった。日が落ちれば、森の中で人の痕跡を追う方が難しくなる。
村へ戻る途中、セレナは一度だけ東の森を振り返る。鳥の声は、やはり聞こえなかった。
*
村へ戻ったあと、セレナは結界石の脇に小さな木札を立ててもらった。異常を見つけた日付と、東の祠を確認するよう書いただけの簡単なものだ。
「これで何が変わる」
ガルトが聞く。
「次に来た人が、今日の私と同じところから始めなくて済みます」
「なるほどな」
老人は札を見て、ゆっくり頷いた。
自分が覚えているから大丈夫ではなく、誰かが続けられる形にする。その方が、たぶん長く守れる。
その帰り、道端で一頭の羊が柵の外へ出ていた。昨日の騒ぎで壊れた板の隙間から抜けたらしい。
「捕まえます」
セレナが手綱を引くより早く、ガルトが馬から降りた。
「術者様がやることじゃない」
「羊を戻すのに資格は要りません」
「そりゃそうだが」
羊は人の気配を嫌って、ぬかるんだ畑の縁を逃げる。カイルが進路へ回り込み、両腕を広げた。
「そっちへ行くぞ」
「分かっています」
セレナは反対側へ回る。大げさな結界を使う必要はない。細い魔力線を地面すれすれへ張ると、羊は見えない境界に鼻先を触れて立ち止まった。数歩下がり、もう一度確かめるように鼻を突き出す。
ガルトがその首を抱えた。
「便利だな、それ」
「羊を捕まえるための術式ではありません」
「使えりゃ同じだ」
カイルが濡れた柵板を持ち上げ、石工へ渡す。
「これも直すか」
「今やりますよ」
石工たちは手際よく板を打ち直す。槌の音が二つ、間隔をずらして畑の向こうまで届いた。
セレナはその様子を見て、少しだけ肩の力を抜く。
結界を直すことも、柵を直すことも、逃げた羊を戻すことも、村にとっては同じ一日の中にある。
王都では、仕事を部署ごとに切り分けることが当たり前だった。切り分けた線の上に落ちたものは、たいてい誰も拾わない。ここでは、暮らしの方が先にあって、その周りへ仕事が集まっている。
「何を見てる」
カイルに聞かれた。
「村を」
「見れば分かる」
「王都と違うと思って」
「そりゃ違う」
「そういう意味ではなくて」
説明しようとして、やめた。まだ自分でもうまく言葉にできない。
カイルも急かさず、直された柵を一度蹴って強度を確かめると、そのまま馬へ戻った。
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