第5話 好きにしろ
翌朝、セレナは城の鐘で目を覚ました。
王都の鐘より低く、厚い音が石壁を通して響く。耳から入るというより、寝台の枠を伝って背中へ届いた。
窓を開けると、冷たい空気が部屋へ入ってくる。城下の屋根の向こうには森が広がり、さらに北には雪を残した山が見えた。王都ではとうに消えている雪が、稜線から下へ二本分ほど白い帯になって残っている。
「寒い……」
隣室から入ってきたリナが、肩に毛布をかけたまま呟く。
「北だから」
「知識と体感は違います」
「それはそうね」
外套を羽織ろうとして、右肩に鈍い痛みが走った。昨日、地下で壁へぶつけたところだ。
リナがすぐ気づく。
「痛みます?」
「少し」
「ちゃんと答えましたね」
「昨日から、そこを妙に評価されるわね」
「大事な進歩なので」
腕は上がるし、筆も持てる。結界線を引くくらいなら問題ない。
「今日は城の記録を見ます」
「その前に朝食です」
「分かってるわ」
「それは素晴らしい」
珍しく素直に褒められた。
*
食堂は想像していたより賑やかだった。
辺境伯の城だから、もっと格式張った食事を思っていた。実際には、天井の高い広間に長机が三本並び、騎士も文官も同じ板に肘をついている。上座らしい場所には誰も座っていない。
黒パン、豆の煮込み、卵、干し肉。湯気と、焦げた麦の匂い。
セレナが席につくと、周囲から視線が集まった。
「昨日の結界師だ」
「公爵令嬢らしいぞ」
「本当に?」
小声は聞こえるが、聞こえないふりをする。
リナが隣で囁いた。
「便利な耳ですね」
「朝から何の話?」
「いえ」
そこへカイルが入ってきた。一瞬だけ食堂が静かになる。
「続けろ」
それだけで元のざわめきへ戻った。命令というより、栓を抜いたような戻り方だった。
カイルは向かいへ座る。
「肩は」
「痛いです。ただ、医務室では打撲で一、二日と言われました」
「なら重い物は持つな」
「今日は記録を見るだけです」
「ああ」
それで終わりだった。セレナは少し意外に思う。
「止めないんですね」
「医者がいいと言ってるなら止めない」
筋が通っている。
食事の半分ほどを終えたところで、リナがパン籠をこちらへ寄せた。
「もう一枚」
「十分よ」
「昨日の昼、干し果物二つだった人の言葉は信用できません」
カイルが豆の煮込みを食べながら言う。
「それは昼飯じゃないな」
「二対一は卑怯では?」
「俺は数に入れるな」
「同じことを言ったでしょう」
「言っただけだ」
朝食管理の主導権は完全にリナにあるらしい。セレナは諦めてパンをもう半分食べた。
*
食後、カイルの執務室へ案内された。入った瞬間、セレナは立ち止まる。
机の上には報告書が山になり、棚には地図が丸めて突っ込まれている。壁際の箱には未分類らしい書類束。窓際の椅子にまで紙が積まれ、座面が見えなくなっていた。
「……かなり多いですね」
「何が」
「書類です」
ローデリックが後ろから入ってくる。
「辺境伯様は、戦況報告と緊急案件は必ず読みます」
「それ以外は?」
「私が要点をまとめます」
「全部読んでいたら剣を振る時間がなくなる」
カイルが平然と言う。
昨日の旧排水路の異音報告も、営繕案件としてローデリック側で処理されていた。情報が上がっていなかったわけではない。ただ、結界の異常と結びつける専門家がいなかっただけだ。
「結界関係だけ抜き出せますか」
「すでに用意しました」
ローデリックが別の束を机へ置く。二十七件。
セレナは一枚目から目を通した。村の結界光が弱い。街道杭の色が変わる。井戸の浄化結界が不安定。森で魔獣の移動が増えた。古い塔から夜に音がする。
筆跡はばらばらで、日付の書き方も統一されていない。村長が書いたもの、騎士が口述させたもの、文官が清書したもの。それぞれが、それぞれの言葉で異常を訴えていた。
「九件は急ぎです」
「そんなにか」
「昨日の城門と同程度になる可能性があります」
セレナは二十七件の報告を三つの山に分ける。
「これは急ぎ。こちらは一週間以内。残りは経過観察でいいです」
ローデリックが一枚ずつ確認した。
「基準は?」
「人命への影響と、他の結界へ連鎖する可能性です。たとえば井戸の浄化結界は一見小さな問題ですが、村で代替水源がなければ優先度が上がります」
「では、この南西の村は?」
「井戸が二つあるので一段下げます。ただし片方が濁ればすぐ上げる」
「なるほど」
カイルは黙って聞いていたが、途中で一枚の報告書を抜き取った。
「これは?」
街道沿いの小さな祠で、夜だけ結界光が消えるという報告だ。
「場所は?」
「ハーゼ村の東です」
「なら今日ついでに寄れる」
「はい。ただし、村の状況次第です」
「分かった」
予定は詰め込めるだけ詰めるのではなく、優先順位に沿って変える。
ここでは、そうではないらしい。少なくともカイルは、必要なら予定を捨てることに抵抗がない。それはセレナにとって、少し新鮮だった。
カイルは報告書の山を片腕で脇へ寄せ、空いた机の上へ地図を広げた。紙の端が丸まると、インク壺を重し代わりに置く。
「一日で回れるのは?」
「場所によります。三件が限界です」
「なら近い順に」
「いえ」
セレナは首を振った。
「危険度順にします」
報告書の位置を地図へ落とす。
「最初はハーゼ村。昨日の灰狼が出た場所です。その次が東の林道。最後に、城の地下と同じ振動報告がある北西の塔」
「分かった」
「人員も必要です」
「何人」
「騎士二人。石工二人。できれば現地の地形を知っている人。馬は四頭」
カイルは人数を頭の中で数えるように一度天井へ視線を上げ、それからローデリックへ目を向けた。
「出せるか」
「騎士は出せます。石工も一人は城に。もう一人は城下から呼べます」
「ではお願いします」
セレナは続ける。
「測定石を十。銀線を二巻。固定杭。交換用の小型魔晶石。それと、現地で必要になった部材を買える権限がほしいです」
ローデリックが口を挟んだ。
「金額の上限を決めましょう」
「そうですね」
セレナは少し考える。
「通常補修なら銀貨三十枚まで。その範囲は現場判断で使わせてください。それを超える場合は城へ連絡します」
「妥当です」
ローデリックが頷く。
カイルは二人の間を行き来する数字を黙って聞いていたが、話がまとまると椅子の背へ片肘を預けた。
「好きにしろ」
「上限は今決めました」
「その中で好きにしろ、という意味だ」
「最初からそう言ってください」
「面倒だ」
ローデリックは書類の角を揃えていた手を止め、眉間を指で押さえる。どうやら、この主人の省略癖には長年付き合わされているらしい。
「辺境伯様は、言葉を省きすぎるのです」
「伝わっただろ」
「私が補足したからです」
この二人の分担は、かなり長いらしい。
セレナはそれ以上を問い返さず、指先で一番上の報告書を手元へ引き戻した。
「もう一つあります」
「何だ」
「現場で結界に関する判断が必要になった場合、誰が最終決定をしますか」
カイルは問いの意味を測るように一拍置いてから、地図ではなくセレナ本人へ視線を合わせた。
「君」
「私でいいのですか」
「俺に分かると思うか」
「思いません」
「なら聞くな」
あまりにも簡単に言う。セレナは少し戸惑った。
「昨日会ったばかりです」
「昨日、城門を直した」
「はい」
「灰狼の群れで頭を見つけた」
「はい」
「穿角獣を誘導した」
「はい」
「それで足りないか」
足りないとは言えなかった。
「経歴は気にならないんですか」
「必要ならあとで見る」
「公爵令嬢であることも?」
「結界が直るかどうかに関係あるのか」
「ありません」
「なら今はいらない」
王都では、名前を名乗ればまず家柄を見られた。公爵令嬢だから意見を聞く者もいれば、王太子の婚約者だから従う者もいた。どちらも、セレナが何をしたかとは関係のない理由だった。
カイルは、昨日したことだけを見ている。それだけを見られるのは、思っていたより落ち着かない。逃げ場がないからだ。
「分かりました」
セレナは地図の上へ指を置いた。
「では、結界と魔力異常が絡む現場では、私が判断します」
「ああ」
「ただし戦闘はカイル様」
「それは俺がやる」
「住民避難は現地責任者と騎士団」
「それでいい」
役割が決まると、気持ちが少し軽くなった。
何でも自分が決めるのではなく、分かるところだけ決めればいい。抱えていた荷物のうち、自分のものではなかった分を下ろした感覚に近かった。
「今まで王都では、どのくらい現場へ出ていた」
カイルが何気なく聞く。
「週に三、四回くらいです」
「王太子妃教育をしながら?」
「はい」
「結界局の人間と?」
「一人の時もありました」
ローデリックが顔を上げた。
「公爵令嬢が?」
「夜間の方が魔力負荷を測りやすい場所もあるので」
「護衛は」
「王宮内ならつけないことも」
カイルの眉がわずかに寄った。
「それはもうやめろ」
「なぜです?」
「ここは王宮じゃない」
「分かっています」
「魔獣が出る」
「はい」
「だから一人で行くな。現場に行くのを止めはしない。必要なら俺も行く」
禁止ではない。同行する、と言っている。
その違いがセレナには分かりやすかった。禁止されれば理由を探して抜け道を作っただろうが、これには抜ける隙間がない。
「分かりました」
「合理的なので」
「そうか」
カイルはそれ以上言わなかった。
ローデリックが地図の端へ、新しい紙を差し込む。
「こちらは古い領内図です。今の道と合わないので参考程度ですが」
セレナは広げた。ところどころ色あせた羊皮紙に、現在の地図にはない細い線が何本も走っている。インクの色が本文より薄く、あとから足したようにも、先に引いてあったようにも見えた。
「これは何ですか」
「不明です。古い境界線か、軍道跡ではないかと」
線の一部が、昨日の城門地下へつながっている。セレナの指が止まった。
「この地図、借りられます?」
「ああ」
「書庫も見たいです」
「好きにしろ」
今度は意味が分かった。
「では、好きにします」
ローデリックが小さく息を吐く。
「本当に相性が良さそうで困りますな」
「何が?」
「いえ、こちらの話です」
*
昼前、城門前には馬と工具を積んだ荷車が用意されていた。騎士二人、石工二人。昨日より、明らかに調査隊らしい。
セレナは馬の鞍へ測定器を固定しながら、必要な物をもう一度確認する。
「銀線、杭、予備石、記録帳」
「昼食」
リナが付け加えた。
「それは持った?」
「私が持ちました」
「なら完璧ね」
カイルも自分の馬へ乗る。
「最初はハーゼ村だったな」
「はい」
「昨日、逃げてきた人たちの村か」
「まず結界が止まった原因を見ます。そのあと灰狼がどこから押し出されたか確認したいです」
「分かった」
セレナも馬へ乗った。
出発前、石工の一人が声をかけてくる。
「アシュフォード様。昨日の地下ですが、石そのものも見てもらえますか」
「もちろん。何か気づいたことが?」
「北壁だけ、湿り方が違います。排水が詰まってるのかと思ったんですが、結界核の下だけ乾いてる」
セレナはすぐ記録帳を開いた。
「その差、いつからです?」
「分かりません。俺たちは石の割れしか見ないので」
「いえ、それで十分です」
自分なら魔力の流れを見る。石工は石の湿りを見る。同じ地下室に立って、同じ壁を見ているのに、目に入っているものが違う。
「次に地下へ入る時、一緒に見てください」
「俺が?」
「はい。私は石のことは分かりません」
石工は少し照れたように頭を掻いた。
「じゃあ、分かる範囲で」
「お願いします」
カイルが馬上からそのやり取りを見ていた。
「君、何でも自分で見るわけじゃないんだな」
「当たり前です。分からないものは分かる人に聞きます」
「なら安心した」
「何がです?」
「全部自分でやる女かと思っていた」
「……全部はやりません」
即答したものの、リナが横で何とも言えない顔をしている。
「何です?」
「いえ。今後が楽しみだなと」
意味が分からない。セレナは気にせず馬を前へ進めた。
北へ来て二日目。まだ、何が起きているのかは分からない。
ただ昨日までと違うことが一つある。自分の判断を聞く人がいて、その判断に必要な人と物が用意される。それだけで、仕事は驚くほど進めやすい。
城門が開く。鎖の巻き上がる音が、石壁の内側で長く尾を引いた。
「行くぞ」
「はい」
セレナは手綱を取り、カイルたちと最初の村へ向かった。
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