第4話 城門の下
森へ入ると、街道のざわめきはすぐに遠ざかった。
カイルを先頭に、セレナ、その後ろをリナと騎士二人が続く。午後の森は明るいはずなのに、針葉樹が密集した一帯だけは薄暗い。頭上で枝が幾重にも重なり、日の光が地面へ届く前に濾し取られている。
足下は積もった枯れ葉で柔らかく、踏んでも音がしなかった。
灰狼の足跡は簡単に見つかった。数が多い。ただし、向きが揃いすぎている。
「追われていますね」
セレナがしゃがみ込む。
足跡は北東から南西へ一直線に伸びていた。獲物を追う群れなら、もっと散らばる。匂いを探し、周囲を回り込み、何度も方向を変えるはずだ。
ここには、迷った跡が一つもない。
「何に」
カイルが聞く。
「まだ分かりません」
測定用の魔晶石を掌へ載せると、内部の光が北東へ偏った。昨日から感じていた地脈の乱れが、ここではさらに強い。
「この先で流れが詰まっています」
「川みたいなものか」
「近いです。完全に止まっているわけではなく、途中で圧力が上がって別方向へ漏れている感じです」
「それで狼が逃げた?」
「直接の原因かはまだ」
カイルは森の奥を見た。
「なら見に行く」
「止めても行きますね」
「君もだろう」
「はい」
「なら同じだ」
話はそれで終わった。説得も、確認も、条件の擦り合わせもない。同じ方向を向いていると分かった時点で、この人は話を切る。
さらに十分ほど進むと、倒木の脇に灰狼の死骸があった。
騎士が剣先で毛皮を持ち上げる。
「噛み傷じゃありません」
首の後ろに、深い穴が二つ開いている。セレナは屈み込み、傷の間隔を測った。指を二本並べて、ちょうど収まるくらい。
「角でしょうか」
「穿角獣だな」
カイルが言う。
「この辺りに?」
「昔はいた。ここ十年ほどは見ていない」
穿角獣は土中を掘り進む中型魔獣で、岩塩や魔晶石を好む。地下の基点へ潜り込み、結界石を食い荒らす被害例もある。
灰狼。地脈の乱れ。穿角獣。
三つの情報が、ようやく同じ場所へ近づいた。まだ線にはならない。ただ、遠くにあった点が、互いの距離を縮め始めている。
「戻りましょう」
カイルが振り返る。
「分かったのか」
「確信はありません。でも、辺境城の結界も弱っていると手紙にありましたね」
「ああ」
「もし同じ種類の異常なら、城の地下にも何かいる可能性があります」
カイルの視線が鋭くなり、さっきまで追っていた森の足跡から一気に城の方角へ移った。
「急ぐぞ」
*
ヴァレンシュタイン城が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。
切り立った岩山の上に、黒灰色の塊がのっている。
最初は岩の続きかと思った。輪郭を目で追ってようやく、それが人の積んだ石だと分かる。王都の宮殿のような彫刻も、金を張った屋根もない。高い城壁、太い塔、指二本ほどの幅しかない窓。美しくするための線が、一本も引かれていなかった。北風と魔獣を防ぐという条件だけを解いていったら、この形になったのだろう。
風が変わる。湿った石と針葉樹の、王都では嗅いだことのない匂いがした。
城門へ近づくにつれ、セレナは速度を落とす。
「止めてください」
騎士たちが馬を止める。
セレナは地面へ降り、城門脇の石壁へ手を当てた。青白く流れるはずの魔力が重い。水路に泥が溜まっている時の流れ方に似ていた。塞がってはいない。ただ、通るたびに削られている。
「結界核はどこですか」
「地下だ」
「入れます?」
「もちろん」
「今すぐ見たいです」
「そんなに悪いか」
「見た目ほど安定していません」
カイルは頷き、門番へ指示した。
城内へ入ると、突然辺境伯が連れてきた見知らぬ女に、兵士や使用人たちの視線が集まる。
その視線を意に介さず、カイルは石造りの廊下を一定の速さで進んだ。歩幅を緩めないせいで、あとから追いついた文官は書類を抱えたまま小走りになる。
途中、年嵩の男が書類を抱えて駆けてきた。
「辺境伯様。お戻りでしたか」
「ローデリック。地下結界の記録を持ってこい」
「地下ですか?」
「三日前の異音報告も」
男は一瞬だけ目を見開いた。
「営繕方から上がった、旧排水路の件ですね」
「それだ」
セレナが尋ねる。
「どんな音でした?」
「石を引っかくような音です。営繕方では春先の地盤沈下か、排水路内部の落石と見ていました」
「結界の数値は?」
「城門側が一割ほど低下しています。ただ、冬の終わりには毎年下がるので、別件と判断していました」
なるほど。報告はされていた。誰も怠けていない。ただ、別々の現象として処理されていたのだ。
「同じ原因かもしれません」
セレナが言う。
ローデリックは抱えていた帳面を胸元へ引き寄せ、初めてセレナを正面から見た。
「あなたは?」
「セレナ・アシュフォードです」
「……公爵令嬢の?」
「今は結界を見に来ました」
カイルが短く補足する。
「街道で灰狼の群れを止めた。地脈の異常も見つけた」
「それは失礼を」
「挨拶はあとでいいです。地下へ」
セレナが言うと、ローデリックは一拍置いてから頷いた。
「ご案内します」
*
地下への階段は、城の北東側にあった。降りる途中、ローデリックは帳面を開きながら説明を続ける。
「城門結界の低下は、春先の恒例として処理していました。北風が弱まり、地脈が動く時期なので」
「過去何年分あります?」
「八年分は」
「あとで見せてください」
「もちろん」
「今年だけ落ち方が違えば、穿角獣が原因。毎年同じなら、別の構造上の問題もあります」
ローデリックが頷き、すぐ帳面の端へ書きつけた。
「記録を読む前から、見る場所を決めるのですね」
「全部読むと時間がかかります。比較する数字を先に決めた方が早いです」
「耳が痛い話です」
「ローデリック様が悪いわけではありません。営繕と結界を別々に扱えば、こういう繋がりは見えにくいです」
王都でも同じだった。灯具は灯具、道路は道路、結界は結界。担当が違えば、同じ地脈の変化でも別件として処理される。書類は正しく書かれ、正しく回され、正しく綴じられて、そこで止まる。
セレナは地下の冷たい空気を吸い込んだ。
ここで起きていることを直すだけでは足りない。なぜ見落とされたのかまで分からなければ、次も同じことが起きる。
降りるほど空気が冷えた。石段の途中から、外套の内側まで冷気が入り込んでくる。壁に触れると、指先が吸いつくように冷たい。
古い排水路と結界保守路が並行しており、壁の一部には王都より古い形式の銀線が埋め込まれていた。
「これは……」
セレナは足を止める。
「知ってるのか」
「いいえ。むしろ、知らない形式です」
王都の現行式より太い。しかも銀線そのものではなく、石壁に彫った溝へ魔力を流している。溝は指の腹ほどの幅で、角が丸い。長い年月をかけて魔力に舐められた跡だった。
「後で見たいです」
「今じゃないのか」
「今は異音の方が先です」
言いながら、自分で少し惜しいと思った。カイルがそれに気づいたらしい。
「顔に出てるぞ」
「何がです?」
「後で絶対戻る、って顔だ」
「戻ります」
「そうか」
排水路の奥から、石を擦るような音がした。
先頭のカイルが片手を上げた瞬間、後ろの全員も足を止める。靴音が消え、排水路の奥から響く石擦れの音だけが残った。
ごり、と低い音。水の滴る音が、その合間に規則正しく混ざっている。
「近い」
カイルが剣を抜く。鞘走りの音が、狭い通路で二度跳ね返った。
セレナは壁の魔力線へ指を当てる。流れが断続的に引かれていた。
「何かが食べています」
「魔晶石を?」
「たぶん」
角を曲がった瞬間、床が盛り上がった。
「下!」
セレナが叫ぶ。
石床を割って、黒褐色の魔獣が飛び出した。太い前脚、岩を砕く二本角。穿角獣だ。
カイルは剣を半身に構え、セレナたちと魔獣の間へ滑り込むように一歩出た。狭い通路で剣を振り回さない。角を紙一重で避け、身体を横へ滑らせると、前脚の内側を切る。
魔獣が崩れる。だが、背後の壁から別の音がした。
「一頭じゃない」
騎士が言う。壁が割れ、二頭目が頭を出した。
「結界核は?」
カイルが聞く。
「この先です!」
「君は核を見ろ。こっちは止める」
セレナは一瞬だけ迷った。戦える人が前へ出る。自分は直す。役割が明確だ。迷う時間の方が損になる。
「お願いします」
リナとローデリックを連れ、奥へ走る。
結界核の部屋は半分崩れていた。中央の魔晶石には何本もの傷があり、周囲に細かな欠片が散っている。踏むと、砂糖を踏んだような硬い音が鳴った。
「食われてる……」
床の穴から、穿角獣が潜り込んだらしい。核の出力は四割まで落ちている。
「交換できますか」
ローデリックが聞く。
「今すぐ全部は無理です。まず流れを戻します」
予備の魔晶石を取り出し、欠損した核へ仮接続する。
しかし、その瞬間、床下で大きな振動が走った。
「まだいます!」
リナが叫ぶ。壁際の石が膨らみ、三頭目が飛び出す。
狭い。しかもカイルたちのいる通路とは別側だ。
セレナは銀杭を投げるように床へ打ち込んだ。
「ローデリック様、後ろへ!」
薄い結界を斜めに張ると、穿角獣の角が膜へ当たり、進路が滑る。完全に止める必要はない。向きを変えればいい。
「右の通路を開けて!」
ローデリックが扉を蹴り開ける。
セレナは工具箱から小さな魔晶石片を掴んだ。
「何を?」
「餌です」
穿角獣が魔晶石を好むなら、そちらへ寄る。石片へ魔力を流し、右の通路へ投げた。石が床を跳ね、青い光がひとすじ闇へ転がっていく。
魔獣の頭が動いた。
「今です!」
結界の角度を変えると、穿角獣が右へ押し流される。その先からカイルが走ってきた。
「伏せろ!」
セレナたちが身を低くする。カイルの剣が魔獣の腹側へ入り、巨体が倒れた。
「無事か」
「はい」
「怪我は」
「ありません」
答えてから、セレナは自分の右肩が壁へぶつかったことに気づいた。
「……肩は少し痛いです」
カイルがこちらを見る。
「今の答えは正しい」
「何の話です?」
「別に」
セレナは気にせず結界核へ戻った。
「仮接続します。十分ください」
「分かった。入口は俺たちが守る」
*
仮修復を終えたあと、セレナは壊れた核の周囲をもう一度確認した。
穿角獣がかじった痕は新しい。角の削り跡が白く、まだ粉が乾いていない。しかし、その下には古い補修痕が何層も重なっていた。継ぎ足し、埋め直し、また継ぎ足し。
「これは昨日今日の問題ではありません」
ローデリックが覗き込む。
「昔から傷んでいた?」
「少なくとも数年前から、局所的に負荷が偏っていたはずです。穿角獣は弱っているところへ来ただけかもしれません」
カイルが壁へ手を当てた。
「つまり、獣を全部殺して終わりじゃない」
「はい」
「面倒だな」
「結界は大体そういうものです」
「君は楽しそうだ」
セレナは否定しようとして、やめた。
「少し」
「少しか」
「かなり、かもしれません」
知らない構造を見つけた時の高揚は隠せなかった。壁の溝も、重なった補修痕も、誰かがここで考えた跡だ。会ったことのない人間の思考を、石越しに読んでいる感覚がある。
カイルが初めて声を立てずに笑った。
「なら明日も働けそうだな」
「もちろんです」
*
修復が終わる頃には、完全に日が落ちていた。城門の結界光は、来た時より明らかに安定している。
外へ出ると、門番の兵士が青白い光を見上げていた。
「戻った……」
誰かが呟く。
セレナは測定器を確認した。
「今夜は持ちます。ただし仮修復です。明日、核の交換と地下経路の確認が必要です」
「それでも十分です」
ローデリックが深く頭を下げる。
「助かりました」
近くにいた兵士たちも、次々に礼を言った。
「ありがとうございます」
「これで門番も少し眠れます」
セレナは返事に困る。
王都で補修をしても、こうして直接礼を言われることはほとんどなかった。王宮では、直っているのが当然だったからだ。灯りは点くもの、壁は立っているもの、結界は光っているもの。誰も、それを誰かが保っているとは考えない。
考えないで済むようにするのが仕事だと、自分でも思っていた。
「……仕事ですから」
そう答えると、カイルが隣で言う。
「なら慣れろ」
「何にです?」
「礼を言われることに」
「必要ですか?」
「ここでは必要だ」
理屈はよく分からない。けれど、悪い気はしなかった。
「それで」
カイルが城門の下から地下入口へ目を向ける。
「灰狼と城の地下は、同じ原因だと思うか」
「可能性は上がりました。ただし、穿角獣が増えた理由までは分かりません」
「明日も見る?」
「もちろんです」
即答すると、カイルが少し笑った。
「なら部屋を用意させる」
「宿を取ります」
「城にいろ。その方が早い」
セレナは少し考える。たしかに、結界記録も設備も城にある。
「分かりました」
ローデリックが困ったような顔をした。
「辺境伯様。まず客室が使えるか確認を」
「使えないのか」
「昨日まで北棟の窓を修理していました」
「じゃあ南棟」
「南棟は騎士団の負傷者が」
カイルが黙る。
客室の候補を言い尽くして主人が黙ると、ローデリックは一度だけ横目でその顔を見た。それから、場を引き取るようにセレナへ身体を向ける。
「急ぎ整えますので、少々お待ちください」
この城も、別の意味でかなり修理が必要なのかもしれない。
セレナはそう思いながら、もう一度青白い城門の光を見上げた。
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