第3話 辺境伯は剣を抜く
北へ進むほど、街道を南へ下る人の数が増えた。
家財を積んだ荷車、家畜を引く老人、幼い子どもの手を引く母親。荷台には鍋が縄で縛りつけられ、その上に丸めた寝具が積まれている。旅人というより、生活そのものを積んで逃げてきた人たちだった。
誰も走っていない。走れる者はもっと前を行き、走れない者だけがこの速さで残っているのだと分かった。
「避難民ですね」
リナが窓の外を見ながら言う。
「ええ」
昨夜泊まった宿でも、北部の村で魔獣被害が続いているという話を聞いた。結界が弱った、狼が増えた、森の奥から夜ごと音がする。噂は混ざり合い、どこまで本当か分からない。
ただ、南へ向かう人がこれだけいる以上、何かが起きているのは確かだった。
セレナは膝の上の魔晶石を見る。淡い水色の光が、今朝から何度も揺れていた。
「止めますか」
リナが聞く。
「何を?」
「北へ行くのを」
「あなたは帰りたい?」
「帰りたいです」
「そう」
「でも一人で帰るのも嫌です」
「では、もう少し付き合って」
「仕方ありませんね」
そんな会話をしていた時、前方で御者が馬車を止めた。
街道の先に人だかりができている。荷車が溝へ落ち、片側の車輪を浮かせたまま傾いていた。荷台の下から女性の声がし、その横で幼い男の子が泣いている。
セレナは扉を開けた。
「見てきます」
「待ってください。私も行きます」
リナと一緒に降りると、避難民の一団が荷車の周囲で右往左往していた。
「お母さんが……!」
男の子が指さす。
女性の片足が車体の下へ挟まれていた。数人の男が荷車を持ち上げようとしているが、力の方向が揃っていない。持ち上がりかけては落ち、そのたびに女性が短く声を上げる。
「一度止めてください」
「でも、このままじゃ――」
「今持ち上げると、車体が横へ滑ります」
セレナは周囲を見回した。倒木の枝、荷縄、道端の石。あるものだけで組める形を探す。
「太い枝を一本。縄も貸してください」
枝を支点にして車軸へ縄を回す。簡単な梃子を作り、男たちへ位置を指示した。
「合図で一緒に引いて。こちら側へ寄らないでください」
荷車がわずかに浮く。
「今です」
女性を引き出す。足首は腫れていたが、大きく変形してはいない。
「歩かせないでください。板か扉を外して担架に」
「ありがとうございます」
女性が息を整えながら頭を下げた。
「どちらから来られたんですか」
「ハーゼ村です」
「北の?」
「はい」
女性の顔が曇る。
「昨夜、狼が来たんです。普通の狼じゃありません。大きくて、目が青く光って」
灰狼。北部に棲む小型魔獣だ。単体なら村人でも追い払えるが、群れになると危険性が跳ね上がる。
「村の結界は?」
「夕方から急に光らなくなって」
「結界石は何基あります?」
「東に三つ、西に二つだったと思います」
「破損は?」
「分かりません。逃げるだけで精一杯で」
セレナの手の中で、魔晶石が強く震えた。昨日までとは違う。石を通り越して、掌の骨まで届くような震え方だった。
「いつ村を出ました?」
「夜明け前です」
「灰狼は追ってきましたか」
「途中までは」
街道の北側を見る。森が近い。街道と森の縁の間は、せいぜい二十歩。遮るものは低い草だけだ。
もし群れがまだ後を追っているなら、この場所は開けすぎている。避難民の中には怪我人も子どももいる。
「皆さん、荷車を道の西側へ寄せてください」
「何か来るんですか」
「まだ分かりません。でも準備はできます」
セレナは御者へ向いた。
「馬は木に固定しないで。すぐ動かせるようにしてください」
護衛の二人にも声をかける。
「荷車を半円に並べてください。子どもと怪我人を内側へ」
「結界を?」
「簡易式だけ。長くは持ちません」
リナが工具鞄を差し出す。
セレナはしゃがみ込み、街道脇の土を手袋越しに確かめた。指で押すと、雪解けの水が染み出して指跡が残る。柔らかすぎる。半歩ずれた場所を押し直し、そこで硬さが変わるのを確かめてから、三本の銀杭を扇状に打ち込んだ。
中心へ魔晶石を据え、地面を流れる魔力を拾って、荷車の前へ薄い膜を張る。
広さを取れば強度が落ちる。それでも、最初の一撃を止められれば十分だ。
「来ます」
護衛の一人が森を見た。
青い光が、木々の間にいくつも浮かぶ。高さが揃っていない。低い位置と、少し高い位置。前列と後列だ。
数える。
十では足りない。
「二十以上」
灰狼が森から飛び出した。先頭の一頭が結界へ衝突し、青白い膜が大きく揺れる。
「石を投げて追い返すな! 刺激すると群れで来ます!」
セレナが叫ぶ。護衛たちは剣を抜き、結界の切れ目へ回った。
二頭目、三頭目。銀杭が軋む。長くは持たない。
「あと何分?」
リナの声。
「二分。良くて三分」
その時、北の街道から蹄の音が響いた。最初は地面越しに届く。膝から下へ、細かく速い震動。
灰狼の群れが一斉に顔を上げた。
黒い騎馬隊が、街道の向こうから突っ込んでくる。先頭の男だけが、ほかの騎士より半馬身前へ出ていた。
長い黒髪を後ろで束ね、外套の下に軽装の鎧。右手に抜いた剣は細身でも大振りでもない、ごく普通の長剣に見えた。装飾は一つもなく、鍔の縁だけが使い込まれて丸くなっている。
「ヴァレンシュタイン騎士団だ!」
避難民の誰かが叫ぶ。
男は馬から飛び降りると、その勢いのまま一頭目の灰狼を斬った。
速い。
大きな動きではない。
飛びかかってきた灰狼の進路へ半歩入り、首の付け根だけを切る。返す刃で二頭目の前脚を払い、転んだところへ別の騎士が槍を突き立てた。
強いというより、無駄がなかった。
灰狼の爪を受け流した男が、剣先を下げないまま結界越しにセレナを見る。戦いの最中とは思えないほど、視線だけは静かだった。
「あとどれくらい持つ」
「二分です」
「二分あれば足りる」
即答だった。
「この壁、開けられるか」
「どこを?」
「正面を三秒」
「できます」
「合図する」
男は肩越しに騎士たちの位置を一度確認し、声だけを後方へ飛ばした。
「右へ追い込め!」
騎士たちが一斉に動く。群れの半数を右へ押し、男自身は正面へ残った。
「今!」
セレナは結界の中央だけを解いた。
三秒。灰狼が五頭、開いた隙間へ殺到する。
男が踏み込んだ。一頭目を斬り、二頭目の牙を剣の腹で逸らし、身体を回して三頭目の脇腹へ刃を入れる。残り二頭は左右の騎士が仕留めた。
「閉じます!」
「ああ!」
結界を戻す。予定通りだ。
セレナは少し驚いた。初対面の術者が作った簡易結界を、男は疑わず戦術に組み込んだ。強度を尋ねもせず、開く幅を確かめもせず、こちらの申告した二分と三秒だけを信じて自分の身体を置いている。
灰狼の動きが乱れ始めた。その中で、セレナは一頭だけ後ろへ下がる個体に気づく。
ほかより一回り大きく、毛色が黒い。群れの中央に入らず、騎士の動きに合わせて位置を変えていた。
「右奥!」
セレナは指さした。
「森際の黒い個体です! あれが群れを動かしています!」
男は確認のために立ち止まらなかった。
「聞こえただろう! 左へ追え!」
騎士の一人が一瞬だけ迷う。
「しかし――」
「彼女の指示通りに動け!」
隊列が変わる。左側から圧力をかけられた灰狼が、結界の右側へ寄った。
「右を厚くします!」
「頼む!」
セレナは右側の銀杭へ魔力を集中させる。膜が白く光った。
灰狼がぶつかる。一頭、二頭。押し返す。腕に負荷がかかった。膜を通して、体当たりの衝撃が肩へ返ってくる。
黒い個体がようやく前へ出た。
男が走る。灰狼も気づいて跳んだ。
剣が一閃した。
黒い身体が地面へ落ちる。直後、残った群れの動きが崩れた。
「散った!」
騎士たちが追い払う。
数分後、街道に残っていたのは倒れた灰狼と、荒い息をつく人々だけだった。
セレナは結界を解く。張り詰めていたものが指先から抜けていく。急に力が抜けて、膝が少し揺れた。
「大丈夫ですか」
リナが腕を取る。
「歩けます」
「聞いていることが違います」
そこへ先ほどの男が来た。
「怪我は?」
「ありません」
「魔力切れは」
「少し疲れただけです」
「なら五分休め」
「でも、灰狼の足跡を――」
「五分だ」
言い方は強いが、怒鳴ってはいない。
男は腰の剣を拭いながら、街道脇へ目をやった。
「君が張ったのか、あの結界」
「はい」
「名前は」
「セレナ・アシュフォードです」
紙を開きかけた男の指が、署名のあたりで止まった。
「アシュフォード?」
「はい」
「王都の結界師か」
「正確には、王宮結界局の局員ではありません」
説明が面倒だ。セレナがそう思っていると、男は懐から折りたたんだ紙を出した。
「これを出したのは俺だ」
見覚えがある。三か月前に届いた、北部結界の調査依頼だ。折り目の位置まで同じだった。
署名欄には、カイル・ヴァレンシュタインとある。
「辺境伯様?」
「ああ」
最強の辺境伯、という噂は聞いたことがあった。もっと豪胆で、何でも剣で解決するような人物を勝手に想像していた。実際に目の前にいる男は、剣より先に人数を数える種類の人間に見える。
「返事がなかったから断られたと思っていた」
「結界局へ相談していました。正式派遣が難しいと言われて」
「それで自分で来た?」
「はい」
「婚約者の仕事は」
情報が早い。
「昨日、婚約を解消されました」
「昨日?」
「はい」
「それで今日ここにいるのか」
「正確には、王都を出たのは昨日の昼です」
カイルは返事を急がず、セレナの旅装から泥のついた裾、手にした測定石まで順に視線を移した。値踏みというより、道具を確かめる時の目つきだった。
「変な女だな」
「よく言われます」
「そうか」
気にした様子もなく、彼は倒れた灰狼の方へ向く。
「こいつら、村からずっと追ってきたと思うか」
いきなり話が戻った。セレナもその方が楽だった。
「全部ではないと思います」
「理由は」
「群れの動きが変です。人を狙っているというより、後ろから押し出されているように見えました」
「何かから逃げている?」
「可能性があります。それと、地脈の流れが北東側で乱れています」
カイルの目が細くなる。
「それが結界停止の原因か」
「まだ断定できません」
「何を見れば分かる」
「村の結界石と、灰狼の足跡。できれば今日中に」
護衛の一人が口を挟んだ。
「お嬢様、今日はもう宿へ――」
「行きます」
セレナが答える。
カイルの口元が、ごくわずかに緩んだ。笑ったというより、予想が当たったことを確認した顔だった。
「そう言うと思った」
「なぜです?」
「五分休めと言った時の顔で分かった」
セレナは何も言えない。
「ただし五分は休め」
「今から?」
「今からだ」
カイルは騎士の一人へ水筒を投げさせ、セレナへ渡した。
「そのあと案内する」
セレナは受け取る。金具が日に焼けて熱く、中の水は逆に冷たかった。
王宮では、結界の異常を説明しても、まず規定や前例について聞かれることが多かった。誰の管轄か、前例はあるか、予算はどこから出るか。答えられるようになる頃には、たいてい現場の方が変わっている。
カイルは違う。何が起きているかを聞き、必要なことが分かれば、すぐ動く。
休憩の五分間、カイルは避難民の代表から状況を聞き取っていた。村を出た人数、残っている家畜、怪我人の数、最後に灰狼を見た場所。質問は短いが、必要なところだけを外さない。同じことを二度は聞かなかった。
セレナは水を飲みながら、そのやり取りを眺める。
剣が強いだけの人ではないらしい。
やがてカイルがこちらへ来た。
「ハーゼ村には十数人残っている。老人と、家畜を捨てられなかった者だ」
「結界が止まったままなら危険です」
「だから急ぐ。ただし、避難民をこのままにはしない」
騎士の半数が護送につき、残りだけが森へ入ることになった。
「戦力を減らして大丈夫ですか」
「必要なら呼び戻す。今は人を安全圏へ送る方が先だ」
判断に迷いがない。セレナは頷いた。
「では、森では私が足跡と魔力流を見ます」
「頼む」
その一言も、やはり軽くなかった。任せると決めたら、本当に任せる人なのだ。
五分後、森へ入る前にカイルが騎士たちへ言った。
「次も何か見えたら、彼女に聞け」
騎士の一人が怪訝な顔をする。
「しかし、まだ――」
「俺たちが見えなかった群れの頭を、彼女は見つけた」
それだけだった。
カイルはセレナを見る。
「次も見えたら言え」
「はい」
「君が指示しろ。俺たちが動く」
セレナは一瞬、返事が遅れた。
能力を疑われなかったからではない。説明し終える前から信じられたことが、少し意外だった。
王都では、正しいと分かってもらうまでにいつも手順が要った。図面を出し、数値を並べ、前例を探し、それでようやく半分だけ通る。ここでは、順序が逆らしい。
「分かりました」
今度はすぐ答える。
森の奥には、まだ灰狼が逃げてきた理由が残っている。
セレナは魔晶石を握り直し、カイルたちと北東へ向かった。
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