第2話 北へ
翌朝、セレナは六時に目を覚ました。
長年の習慣は、婚約がなくなったくらいでは簡単に変わらないらしい。
寝台の上でしばらく天井を眺めていたが、眠気は戻ってこなかった。天蓋の縁に彫られた蔓の模様を、右から左へ二度数える。昨夜、リナには八時に起こすよう頼んである。それでも二時間を持て余すよりは、起きた方が早い。
窓を開けると、春の朝らしい乾いた空気が入ってきた。
公爵邸の三階からは王宮の尖塔が見える。七番塔そのものは建物の陰で見えなかった。
見えない方がいい。
見えれば気になる。気になれば、たぶん確かめに行きたくなる。
セレナは窓を閉めた。
「さて」
声に出してみても、今日から何をすればいいのかは決まらなかった。
王宮へ行く予定はない。王太子妃教育の講義も、結界局から回されてくる図面もない。
十年近く、朝から夜まで予定が詰まっていた生活が、一晩で空白になっている。
やることが多すぎる日には、順番を決めればよかった。何もない日の順番の決め方は、誰も教えてくれなかった。
扉が叩かれた。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
家令の声だった。
時計を見ると六時二十分。
「すぐ参ります」
着替えて一階の書斎へ向かう。
父、アシュフォード公爵はすでに執務机についていた。五十を過ぎても姿勢の崩れない人で、机上には王宮から届いたばかりらしい封書が置かれている。
「座りなさい」
「はい」
セレナが向かいへ座ると、父は封書を指先で軽く叩いた。爪が紙を打つ音が、朝の書斎では妙に大きく聞こえる。
「王家から正式な書面はまだ来ていない」
「そうですか」
「昨日の宣言は、公の場で行うには軽率だった。アルベルト殿下も、今頃は周囲からかなり言われているだろう」
そこには同意できる。
「私も、あの場で告げる必要はなかったと思います」
「なら分かるだろう。今すぐ破談が確定したと思うな」
セレナは膝の上で組んだ手をほどき、父の目を正面から見返した。
「殿下ご自身が婚約解消を宣言されました」
「政治上の婚約は、本人が一言言えば終わるほど簡単ではない。王家と公爵家の関係がある。王妃陛下も、このまま通すとは限らん」
父の言っていることは正しい。
十年近く続いた王家と公爵家の婚約は、恋愛だけで成り立っていたわけではない。王太子本人が気持ちを変えたからといって、その日のうちにすべてが片づくものでもなかった。
「数日は動くな」
「家で待て、ということですか」
「そうだ。少なくとも正式な協議が終わるまでは」
父は冷静だった。怒鳴りもしないし、アルベルトを庇っているわけでもない。ただ、公爵家当主として損失を最小限にしたいのだろう。
だからこそ、セレナも曖昧には答えたくなかった。
「お父様。私は、殿下との婚約に戻るつもりはありません」
父が封書の端を叩いていた指を止めた。
ほんの小さな変化だったが、セレナにはそれで十分だった。この人が指を止めるのは、話の重さを測り直した時だけだ。
「昨日のことに腹を立てているのなら、それ自体は当然だ。だが、腹立ちと家の判断は分けろ」
「怒っているからではありません」
「では、なぜだ」
すぐには言葉にならなかった。
昨日までの自分なら、父を納得させる理屈を探しただろう。王家との婚姻を続ける利点と欠点を並べ、今後の政治的な損失を説明し、自分の選択が家にも合理的だと証明しようとしたはずだ。
けれど、今はそれが違う気がした。
「昨日、殿下に言われました。王太子妃には向かないが、結界の仕事は今後も続ければいい、と」
「聞いている」
「一瞬、それでもいいと思いました」
父はすぐには答えず、机上の封書を裏返した。蝋印の赤だけが、朝の光の中で妙に鮮やかだった。
「仕事が残るなら、王宮にいる理由も残る。今までと同じように頼まれたことをしていれば、婚約者でなくなっても困らないと思いました」
「それの何が問題だ」
父の問いは意地悪ではない。
本当に、分からないのだ。
セレナ自身も、昨日までなら同じように考えていた。
「うまく説明できません」
「セレナ」
「ただ、そのまま戻れば、私は何も選ばないままです」
父の眉がわずかに動く。
「殿下に必要だと言われたから王宮へ行き、結界局に頼まれたから塔を直し、お父様に待てと言われたから待つ。それを繰り返してきました」
「貴族の娘なら当然のこともある」
「はい。それも分かっています」
セレナは膝の上で手を組んだ。
「でも、婚約がなくなった今くらいは、自分で次を決めてみたいのです」
父は椅子の背へ寄りかかり、セレナの顔をしばらく見ていた。反対する理由を探しているのか、それとも娘の本気を測っているのかは分からない。
窓の外から、庭師が砂利を踏む音だけが聞こえる。
「決めたのか」
「北へ行こうと思っています」
「北?」
「ヴァレンシュタイン辺境伯領です」
父の顔に、初めて明確な驚きが出た。
「なぜそんな場所へ」
「三か月前、結界の異常調査を頼まれました」
「王宮経由で?」
「いいえ。辺境伯本人からです」
「それを今まで放置していたのか」
「結界局へ相談しました。人手が足りないため、正式派遣は見送りになっています」
「なら、公爵家から技師を出せばいい」
父はすぐに実務へ切り替えた。
「お前が行く必要はない。家の名で調査団を送る。必要なら王都の術者も雇おう」
「私が行きたいのです」
「なぜ」
今度は、答えが早かった。
「見たいからです」
父が目を細める。
「仕事だからではなく?」
「仕事でもあります。でも、それだけではありません」
三か月前に届いた手紙を思い出す。
紙は上等ではなかった。字は大きく、余計な前置きが一行もなかった。
北部で結界石の光が不安定になり、魔獣の出没が増えている。局の定型報告では原因不明。現地へ来て、自分の目で見てほしい。
あの手紙を読んだ時、セレナは行きたいと思った。
しかし王太子妃教育があり、王宮の補修があり、結界局から次々と相談が持ち込まれた。北へ行く時間は作れなかった。
「少なくとも、一度は自分の目で確かめたいです」
「危険な土地だ」
「知っています」
「魔獣被害も増えている」
「だからこそです」
父は椅子の背へ身体を預けた。
「いつ出るつもりだ」
「今日」
「今日?」
「待つと、また誰かの判断で予定が決まりそうなので」
「それはさすがに急すぎる」
「必要な荷物は多くありません」
「そういう話ではない」
さすがに少し怒ったらしい。
セレナも、そこは認めた。
「分かっています。でも、家の馬車や護衛を大勢連れて行くつもりはありません」
「まさか乗合馬車で行く気か」
「いいえ」
昨日まではそうしてもいいと思っていたが、冷静に考えれば公爵令嬢が侍女一人で長距離の乗合馬車に乗るのは、自由というより無謀だ。
「自費で小型の貸切馬車を雇います。御者も含めて、北部街道に慣れた者を」
父は少しだけ表情を緩めた。
「最低限の常識は残っていたか」
「失礼ですね」
「護衛を二人つける」
「一人で十分です」
「二人だ」
そこは譲る気がないらしい。
セレナは考えた末に頷いた。
「分かりました」
「そして行き先は逐一知らせろ。辺境伯にも、公爵家から正式に一筆入れる」
「それは構いません」
「婚約の件は別だ。勝手に破談が確定したと外へ触れ回るな」
「それも分かっています」
父は深く息を吐いた。
「お前は昔から、決めるまでが遅いくせに、決めると急だ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
父の口調は呆れていたが、もう止めるとは言わなかった。
書斎を出ると、廊下の端でリナが待っていた。
「聞こえていました?」
「扉が厚いので、半分くらい」
「便利ですね、その耳」
「お嬢様ほどでは」
「どういう意味?」
「支度をします。北へ行くのでしょう」
「あなたは残ってもいいのよ」
「そう言われると思って、もう荷物をまとめました」
セレナの足が廊下の途中で止まる。半歩先を歩いていたリナも、すぐに振り返った。
「いつ?」
「昨日の夜です」
「私より決断が早いわね」
「お嬢様が王宮へ戻らないと言った時点で、次は家を出ると思いました」
「そんなに分かりやすい?」
「大変分かりやすいです」
*
昼前には、荷物が玄関へ並んでいた。
着替え、外套、簡易魔法具、測定用の魔晶石、銀線、記録帳、工具箱。
磨かれた玄関の床に並ぶと、公爵令嬢の長旅としては驚くほど貧相に見えた。舞踏用の靴も、装身具の箱もない。持っていくものを選んだのではなく、要らないものを外していったら、これだけが残ったのだ。
母は旅行中で領地へ出ており、出発前に顔を合わせることはできなかった。代わりに古い侍女長が、小さな包みを渡してくる。
「奥様からお預かりしていたものです」
「母から?」
「お嬢様がいつか家を出る時に、と」
布を開くと、母が若い頃に使っていた小さな銀の首飾りが入っていた。鎖の一部が使い込まれて、そこだけ色が違う。
「ずいぶん前から準備していたのね」
「奥様は、旦那様より先を読む方ですから」
リナが隣で頷いた。
玄関の外には、父が手配した小型の貸切馬車が待っている。護衛は二人。どちらもアシュフォード家の騎士だった。
出発しようとした時、裏口から年配の女性が駆けてきた。
「セレナお嬢様!」
「マーサ?」
幼い頃に乳母を務めてくれた女性だった。今は邸を離れ、王都の外れで家族と暮らしている。
「お聞きして、間に合えばと思って」
息が上がり、肩掛けが片方ずり落ちている。走ってきたのだろう。
差し出された籠には、固いパンと干し果物、それに小さな瓶詰めが入っていた。
「道中で食べてください」
「ありがとう」
「北は寒いですよ」
「知ってるわ」
「知ってると寒くないんですか」
どこかで聞いたやり取りだった。
セレナは笑って籠を受け取る。
*
馬車は王都の東門へ向かいかけ、途中の分岐で北へ曲がった。
これまで王宮へ向かう時は、必ず東側の大通りを使った。無意識にそちらを見る癖が残っている。
しかし今日は違う。
北門へ続く街路は、王宮周辺ほど整っていなかった。商人の荷車が多く、舗装の隙間には雑草も生えている。車輪が石を踏むたび、座席が細かく跳ねた。
窓の外で、店の看板が少しずつ簡素になっていく。金箔が塗料に変わり、塗料が板の焼き印に変わる。王都は、外へ向かうほど飾りを落としていく街だった。
王都を出て一時間ほど走ったところで、御者が馬車を止めた。
「前で何かやってます」
道端に、小さな人だかりができていた。
街道の結界杭が一本、斜めに傾いている。荷車がぶつけたらしく、土台の石が割れていた。
近くの農民が困った顔で眺めている。
「このままでも通れますが、夜までに直さないと魔獣除けが弱くなりますね」
セレナが言うと、リナがこちらを見る。
「行きます?」
「……行く」
「昨日、何か学んだ気がしたのですが」
「これは私が直したいから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
馬車を降り、割れた土台の周囲を調べる。幸い銀線は切れていない。杭を起こして石を噛ませ、応急的に固定すれば夜までは持つ。
「そこの木片を貸していただけますか」
農民たちに手伝ってもらい、十五分ほどで形を戻した。
「これで今夜は大丈夫です。明日、街道管理所へ連絡してください」
「助かりました。お代は」
「いりません」
立ち上がると、裾に土がついていた。膝のあたりが湿って、布が肌へ張りつく。
リナが見ている。
「何です?」
「いえ。少し楽しそうだなと」
「そう見える?」
「少なくとも、王宮の天井裏よりは」
否定はできなかった。
馬車へ戻ると、セレナは測定用の魔晶石を取り出した。
淡い水色の石の内部で、光がほんの少し北へ偏っている。
水を張った皿を、片側だけ持ち上げた時のような偏り方だった。
「気になりますか」
リナが聞く。
「ええ」
「王都の七番塔?」
「違うわ」
偏りの方向は、もっと遠い。
北。
辺境伯領の方角だった。
夕方、立ち寄った宿では、北から来た商人が妙な話をしていた。
「最近、夜になると道沿いの柱の色が変わるんだ」
「結界杭ですか?」
セレナが尋ねる。
「たぶん。青かったり、白かったり。馬が嫌がる場所もある」
「どの辺りです?」
「ハーゼ村より北だな」
地図へ印をつける。
その夜、部屋へ戻ってからも魔晶石は時折かすかに震えた。掌に載せていないと分からない、脈のような震え方だった。
リナが寝台を整えながら言う。
「引き返します?」
「いいえ」
「一応、毎日聞くことにします」
「どうして?」
「お嬢様は一度決めると、自分からは言わなさそうなので」
セレナはカーテンを指先で少しだけ開き、暗くなった街道の向こうへ目を凝らした。
王都の夜には必ずどこかに灯りがあった。ここでは、宿の窓が届く範囲の先が、そのまま黒く途切れている。
遠くで、獣の遠吠えが聞こえた。
王都では聞かない音だ。
「明日も北へ行くわ」
「分かりました」
不安がないわけではない。
それでも、自分で選んだ方向へ進んでいるという感覚は、思ったより悪くなかった。
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