第1話 役立たずの婚約者
婚約を破棄される三十分前、セレナ・アシュフォードは王宮大広間の天井裏にいた。
埃と乾いた木材、それに熱を持った銀線の匂いがする。梁と梁の間は、屈んでようやく通れる程度の高さしかない。床板の隙間からは細い光の筋が何本も差し込み、その線の中でだけ埃が金色に浮いて見えた。
「お嬢様。今夜くらいは、ほかの方に任せてもよろしいのでは」
狭い保守通路の後ろから、侍女リナの声がした。絹の夜会服で這うような場所ではない。裾を両手で持ち上げたリナの顔には、言葉にしなくても分かる不満が浮かんでいる。
「任せたわ」
「でしたら、なぜ私どもが礼装のまま天井裏にいるのでしょう」
「任せた人から、分からないと呼ばれたからよ」
「それは、任せたことになるのでしょうか」
もっともな疑問だったが、答えている時間はなかった。
セレナは裾を膝の下へ巻き込み、片膝をついた。床板の隙間へ指を差し入れると、微かな振動が指先へ伝わってくる。音ではなく、震えとして届く楽の音だった。
下では春の大夜会を前に、百人を超える招待客が大広間へ集まり始めている。王族、高位貴族、外交使節を迎える三十二基の魔導灯。そのうち西側の四基だけが、開宴直前から不規則に明滅していた。
数だけなら一割強。
ただし、西側は王族の席の真上にあたる。
灯具そのものに異常はない。魔晶石も交換済み。それでも直らず、最後に王太子付きの侍従がセレナを探しに来た。
「昨日、厨房側の防火結界を増設しましたね」
隣で待っていた若い結界局員が頷く。
「はい。規定改定に合わせて、出力を二段上げました」
「やはりそれね。防火線と照明線がここで干渉しています」
「ですが、どちらも規定値の範囲です」
「一本ずつなら、です」
セレナは髪に挿していた銀簪を抜いた。留めていた一房が肩へ落ちる。かまわず、簪の先で複数の銀線が交差する接続盤を示した。
「三番の防火線を半分まで落として、先に六番の照明線へ逃がしてください。そのあと三番を戻します。今夜はこれで持ちます」
「規定外の手順になりますが……」
「恒久処置ではありません。明日の朝に配線を引き直してください。順番だけは間違えないで。六番を落としてから三番を戻すと、大広間の照明が一度すべて消えます」
局員は緊張した顔で頷き、指示された順に魔力弁を操作した。
銀線を青白い光が走る。
足下から伝わっていた細かな震えが、波が一度引いて、それから平らになるように消えた。
床板の隙間から覗くと、西側の魔導灯は何事もなかったように安定している。
「直った……」
「今夜だけです。明朝の再施工と、今日の応急手順を記録に残してください」
「はい。ありがとうございました、アシュフォード様」
「次に同じことが起きた時は、あなたが直せるようにしておいてください」
局員は一瞬、意外そうな顔をした。それから慌てて「承知しました」と頭を下げる。
下で楽師が調律を始めた。
リナが懐中時計を見せる。
「今度こそ、本当に遅れます」
「行きましょう」
二人で細い階段を下りる。控えの間に出ると、リナが慣れた手つきでセレナの肩と裾についた埃を払い、ほどけかけた髪を直した。手際が良すぎて、何度目かを数える気にもならない。
大広間へ戻る扉の前で、セレナはふと思い出して足を止めた。
「七番塔の基石交換は、今日の予定だったわね」
ついてきた局員の表情が曇る。
「交換用の基石が届かなかったそうです。明後日に延期になりました」
「明後日?」
「局長には報告済みです。七番塔単体の測定値は、まだ許容範囲です」
セレナは返事をせず、頭の中で七番塔と北側補助線の位置関係をなぞった。
塔が一本。そこから王都の北へ、細い補助線が扇のように伸びている。
七番塔だけなら、確かに今夜明日で崩れる数値ではない。ただ、あの塔は補助線の受け口でもある。雪解けから春にかけて北側地脈の流量は増えやすく、行き場を失った負荷が別の基点へ逃げることがある。
水路と同じだ。詰まった場所そのものより、押し出された先の方が先に壊れる。
「春季運用の記録を確認してください。七番塔だけでなく、北側補助線の値も一緒に見て」
「分かりました」
「基石が届くまで、朝夕二回。変動幅が前月平均を超えたら局長へ」
「はい」
それだけ伝えて、セレナは扉を開けた。
途端に、光と音が押し寄せてきた。
磨き上げられた大理石が三十二基の魔導灯を跳ね返し、蝋と香油と人いきれの匂いが混ざって流れてくる。弦の音、笑い声、杯の触れ合う硬い響き。
つい先ほどまで、この天井の上で照明が消えかけていたことを知る者は、ほとんどいないだろう。
それでよかった。
灯りが消えず、火事が起きず、魔獣が城壁を越えない。結界の仕事は、何も起こらなかった時ほど人目につかない。
セレナはそれを、不満に思ったことがなかった。
*
「――セレナ・アシュフォード。今日をもって、君との婚約を解消する」
大夜会の始まりから三十分後、楽師の演奏が止まった。
弓が弦から離れる音まで、はっきり聞こえるほどの静けさだった。
第一王子アルベルトの声は、突然の宣告にしては落ち着いていた。濃紺の礼装も、胸元の勲章も、王太子として人前へ立つために整えられている。
セレナは手にしていた杯を卓上へ戻した。銀の縁が皿に触れて、小さな音を立てる。その音が、思ったより遠くまで届いた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
問い返す声は、自分でも驚くほど平静だった。
アルベルトの半歩後ろには、ベルローズ伯爵令嬢ミレイユが立っている。白金の髪に淡い金のドレスがよく映える、華やかな女性だった。だが、周囲の視線を受ける本人は勝ち誇るどころか、居場所をなくしたように唇を引き結んでいる。
「君に能力がないと言っているわけではない」
アルベルトはそう前置きした。
「王太子妃、いずれ王妃となる者には、政務能力だけでなく、人を惹きつける力が必要だ。社交の場で人心を集め、危機に際しては民衆の前に立たなければならない。君はその役割に向いていない」
「具体的には?」
「君は目立つことを好まない。公の場で自分を示そうともしない。魔法についても、結界術は優秀だが、攻撃魔法は使えない。近年は魔獣被害も増えている。王家の象徴となる者には、分かりやすい力も必要だ」
そこまで聞いて、セレナはようやく話の形を理解した。
アルベルトは彼女を無能だと思っているわけではない。ただ、自分が王妃に求める価値の順位の中で、セレナの持つものを低く置いている。
順位そのものを争っても仕方がない。天秤の目盛りを決めたのは、こちらではないのだから。
「殿下のお考えは分かりました」
「……それだけか?」
「はい」
アルベルトの眉がわずかに動く。予定していた受け答えから外れた時にだけ出る、昔から変わらない癖だった。
何か別の反応を予想していたのかもしれない。泣くか、縋るか、ミレイユを責めるか。あるいは十年近い婚約期間を持ち出して、翻意を求めるか。
しかしセレナには、どれも今さら必要だとは思えなかった。
ミレイユがためらいがちに一歩前へ出る。
「セレナ様、私――」
「お気遣いなく、ベルローズ様」
セレナは彼女を遮った。
「これは殿下と私の婚約についてのお話です。あなたに謝っていただくことではありません」
ミレイユは何か言いかけ、結局、小さく頭を下げた。
ミレイユから視線を戻すと、アルベルトはまだこちらの返答を待っていた。セレナはその正面へ身体を向ける。
「婚約解消の書面は、正式な手続きの上でアシュフォード公爵家へお送りください」
「ああ。もちろんだ」
「では、私はこれで失礼いたします」
礼をして踵を返したところで、背後から呼び止められた。
「待て、セレナ」
「まだ何か?」
「結界局の仕事までやめる必要はない」
意味をつかむまで、少し時間がかかった。
アルベルトは、自分なりに配慮しているつもりらしかった。
「王太子妃には向かなくても、君が結界術に詳しいことは認めている。これまで通り王宮結界局を手伝えばいい。君の知識なら、今後も十分に役立つだろう」
役に立つ。
その言葉に、セレナの思考が一瞬だけ止まった。
妙な感覚だった。痛いのでも、腹立たしいのでもない。ただ、自分の輪郭が急にはっきり見えた気がした。婚約者という枠を外されたあと、そこに残っているものを、アルベルトは一つだけ数えている。
役に立つ部分。
婚約者ではなくなる。王太子妃候補でもなくなる。それでも仕事が残るなら、自分がここにいる理由も残る。
そう考えかけて、セレナは違和感を覚えた。
理由が残る、という言い方は、そもそも誰かに与えられるものなのだろうか。
「殿下。確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「私は王宮結界局から正式な任命を受けていましたか」
「任命?」
「辞令も俸給もいただいた記憶がありません」
大広間の空気が変わった。
近くにいた貴族たちが、露骨に聞き耳を立てる。扇の動きが止まり、杯を持つ手だけが宙で浮いていた。
「これまで私が行っていた補修は、殿下から個人的に頼まれ、婚約者として引き受けていたものです。王都東門、旧水路、王家墓所、南部街道の三基、監視塔七基。結界局からの正式な依頼ではありません」
「だが、局とも連携していたはずだ」
「必要な記録は共有していました。ですが、私は局員ではありません」
「それなら、今から正式に――」
「婚約者でなくなる以上、私的に引き受けていた補修は本日で終了いたします」
今度こそ、周囲が静まり返った。
アルベルトの顔から余裕が少し消える。
「終了する? あれは定期的に手を入れる必要があるだろう」
「必要です」
「なら、なぜ――」
「結界局のお仕事だからです」
セレナは淡々と答えた。
「私はもう、殿下の婚約者ではございません」
先ほどまで黙っていたミレイユが、思わずというように口を開いた。
「旧水路の補修も、セレナ様がなさっていたのですか」
「ええ」
「昨冬、北区で起きた魔力漏れを止めたのも?」
「はい」
「結界局の報告では、局員が処置したと……」
「局員の方々と一緒に作業しましたから、間違いではありません」
セレナには、今ここで功績を取り返すつもりはなかった。並べたところで、明日から誰かの手が増えるわけでもない。
アルベルトは杯の脚へ指を掛けたまま、短く息を吐いた。
「必要な資料が残っているなら、引き継げば済む話だろう」
「記録はすでに局へ渡してあります」
「なら問題ないではないか」
「そうですね」
セレナは頷いた。
「問題がなければ、それが何よりです」
今度は止められなかった。
*
大広間を出ると、夜気の混じった廊下は少し肌寒かった。
背中で扉が閉まり、音楽が厚い板の向こうへ遠ざかる。耳に残っていた騒がしさが引いていくにつれて、自分の足音だけが石床に高く響いた。
「お嬢様」
追いついてきたリナが、ためらいながら声をかける。
「大丈夫ですか」
「何について?」
「今は、選択肢が多すぎます」
リナらしい答えだった。
セレナは少しだけ口元を緩め、長い窓の外へ目を向けた。
王都の夜景の向こうに、城壁沿いの結界塔が青白く並んでいる。等間隔に並ぶ光は、遠目には縫い目のようにも見えた。
そのうち北側の一基だけ、光が弱くなっている。
七番塔だ。
セレナの足が自然にそちらへ向きかけた。
今から行けば二時間もかからない。公爵家の保管庫には予備基石が一つあったはずで、持ち出しの許可も取れる。数値が崩れる前に交換してしまえば、明日の朝まで誰も困らない。
手順は全部、頭の中にある。
考えるより先に道筋ができてしまうことが、この十年の癖だった。
「行かれますか」
リナが聞いた。
セレナは窓枠に触れかけた手を下ろし、七番塔の弱い光を見たまま答えた。
「行かないわ」
「本当に?」
「ええ」
ちょうどその時、廊下の向こうから足音が響いた。
先ほど天井裏にいた若い結界局員が、息を切らして走ってくる。
「アシュフォード様!」
「七番塔ですね」
「はい。光量が少し落ちました。測定値はまだ許容範囲ですが、変動が急で……」
「局長へ報告を。春季運用の記録を開いて、北側補助線も同時に測ってください」
「でも、アシュフォード様なら状況を見ればすぐ――」
青年はそこまで言って、口をつぐんだ。
責める気にはなれなかった。
困った時にはセレナを呼べばいい。そう覚えさせたのは、これまでのセレナ自身でもある。便利な近道を作ったのは自分で、その近道しか道がなくなったことに、今日まで気づかなかった。
「私はもう担当ではありません」
「……はい」
「ただし、手順は記録にあります。七番塔だけを見ないこと。北側補助線との流量差を先に確認して、それから局長の判断を仰いでください」
「分かりました」
青年はまだ不安そうだった。
セレナは少し迷い、それから言う。
「あなたならできます」
青年が顔を上げた。
「今夜、私が代わりに直せば早いでしょう。でも、それでは次も同じです」
「……はい」
「お願いします」
今度は、青年の返事に迷いがなかった。
「はい。行ってきます」
走り去る背中を見送り、セレナは正門へ向かった。
王宮の前には公爵家の馬車が待っていた。御者が扉を開け、リナが先に踏み台へ手を添える。
乗り込む前、セレナは一度だけ王宮を振り返った。
七番塔の光はまだ揺れている。
心配ではある。
けれど、戻らなかった。
*
馬車が王宮前の広場を抜ける。
車輪が石畳の継ぎ目を拾うたび、身体が小さく揺れた。窓の外を流れる街灯が、一定の間隔で車内を明るくしては暗くしていく。
セレナは膝の上で指を組んだ。
十年近い婚約だった。
幼い頃から王太子妃になると決められ、そのための礼儀を学び、政務を学び、王家の一員として恥ずかしくないよう振る舞ってきた。
それが今日、なくなった。
悲しくないわけではない。
ただ、涙より先に困惑が来ていた。
明日の予定がない。
朝は何を確認するのか。誰から何を頼まれるのか。どの塔へ行き、どの書類を読むのか。
決まっていないことが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。
「リナ」
「はい」
「明日、何時に起こしてくれる?」
「いつもの六時でよろしいですか」
セレナは少し考えた。
六時に起きれば、いつも通り何かを始められる気がする。
けれど、その『いつも通り』はもう終わったのだ。
「八時にして」
リナが目を丸くした。
「二時間も?」
「寝すぎかしら」
「いえ。快挙です」
真顔で言われて、セレナは少し笑った。
それからまた窓の外を見る。
王宮は少しずつ遠ざかっていた。
「お嬢様」
「なに?」
「戻りたいとは思われませんか」
問いの意味を考える。
アルベルトの婚約者へ戻りたいか。
王宮の仕事へ戻りたいか。
今までの生活へ戻りたいか。
どれも同じようで、少しずつ違う。
今ならまだ、七番塔を見に行くことはできる。今夜だけ助けて、明日は別の塔を確認して、その翌日は局員から送られてきた図面を見る。
頼まれれば引き受ける。
必要とされれば応える。
そうしていれば、婚約者という肩書きだけを失ったまま、これまでとほとんど同じ毎日を続けられるだろう。
それを想像すると、不思議なほど簡単だった。
道はすでに敷かれていて、あとは歩くだけでいい。踏み外す心配もない代わりに、どこへ行くのかを自分で決める余地もない。
簡単だからこそ、セレナは首を横に振った。
「戻らない」
リナが隣で息を止める。
「王宮には戻らないわ。少なくとも、頼まれたからという理由では」
何をするかは、まだ決めていない。
けれど、何をしないかなら一つ決められた。
馬車は夜の王都を、公爵邸へ向かって進んでいく。
その頃、王宮七番塔では、若い結界局員が春季運用の記録を開いていた。
七番塔だけを見るな。
そこに残された一文を追い、彼は北側補助線の測定器へ手を伸ばす。
針が、許容幅の端で小さく揺れていた。
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