第49話 辺境伯夫人
式は、春まで待つことになった。
理由は三つある。北の冬は道が塞がること、王都からの参列に十日かかること、それに旧兵舎の講習が冬季の分を終えるのが二月だからである。
三つとも実務上の理由だった。婚礼の日取りを決めるのに、こういう並べ方をする娘は珍しいらしい。リナが一度そう言った。
「三つ目は理由になりますか」
ローデリックが名簿を作りながら尋ねた。
「なります。冬季の卒業が十四人います」
「式へ呼ぶと」
「呼びます」
「では、席が足りませんな」
結局、椅子は城下の家々から借りることになった。形も高さも揃わない。ローデリックは最後まで難色を示していたが、揃った椅子を運ぶ費用を計算して黙った。
冬の間に決まったことは、多くなかった。
場所は城下の広場に決まった。教会ではない。北の教会は小さく、五十人しか入らないからである。
衣装は、村の女たちが仕立てることになった。春祭りで着せてもらった深緑の衣装を作った人たちである。誰に頼むかを相談する前に、向こうから来た。
「白ですか」
採寸に来た女性が尋ねた。
「白はやめます」
セレナは即答した。
「なぜです」
「ノルトハイムでは葬儀の色です」
女性が目を丸くした。
「あちらから来られるので」
「何人です」
「今のところ、九人と聞いています」
結局、生成りに濃い緑の縁取りと決まった。祭りの衣装と同じ系統である。ノルトハイム側にも確認を取り、あちらでは祝いの色だという返事が来た。
「これ、動きやすいですよ」
「動く予定はありませんが」
「踊るでしょう」
断定だった。去年の祭りで途中まで踊ったことを、この人たちは全員知っている。途中で抜けたことも、その理由も知っていた。
*
春になり、雪が解けた。
王都からの一行が着いたのは、式の三日前だった。
ミレイユ、エドガー、リース、マルタ、バルド。それに営繕府の次官と、資材管理の男。ラングレー子爵は評議会の日程が合わず、手紙だけになった。
手紙には、前例のない件について三つ照会したいとあり、そのうち二つが結界局の人事、一つが婚礼の祝辞の書式についてだった。
「お久しぶりです」
ミレイユが馬車を降りて言った。
「遠くまで」
「遠かったです。十一日かかりました」
「十日の予定でしたが」
「三日目の街道で、牛が止まっていました」
セレナは足を止めた。
「牛が」
「灰狼が一頭、林の縁にいたそうです。脚を引きずっていたと」
「同じ場所ですか」
「三日目の分岐だと聞きました」
セレナは記録帳を思い出した。去年の秋、同じ場所で同じことを書いている。三日目の分岐、脚を痛めた灰狼一頭、単独。
「どうなりました」
「衛兵が結界杭を四本打って、林の奥へ道を作ったそうです」
その方法を、セレナは誰にも教えていない。
ただ、記録帳には書いた。あの三行は、王都へ提出した引き継ぎの一覧に入っている。四十七項目のうちの、街道の項である。
「読んだんですね」
「何をですか」
「いえ」
自分がやったことは、記録帳へ三行書いただけである。書いた時は、次に誰かが通った時のためだと思っていた。実際に次の誰かが通り、同じことをした。
顔も名前も知らない衛兵である。
父は、前日に着いた。
アシュフォード公爵。評議会の議席は保っている。王太子の教育係だった経歴は、廃嫡の後で少し重くなった。
「久しいな」
「はい」
「体調はどうだ」
「問題ありません」
半年前と同じやり取りだった。会話の型が変わっていない。
城の応接室で、二人は向かい合った。王都の公爵邸の応接室より狭く、時計もない。
「明日のことだが」
「はい」
「私は、父として席へ着く」
「そうしていただけますか」
「他に何がある」
「王国評議会の一員として、という形もあります」
父は少し黙った。
「それでは、公爵家が辺境伯家と縁を結ぶ話になる」
「なります」
「お前は、それを望まないだろう」
セレナは、その言い方に少し驚いた。
半年前、この人は婚約の再締結を勧めた。家のためだと言えば娘は頷くと思っていた。
「望みません」
「では、父として着く」
それだけだった。
和解というほどのものではない。抱擁もないし、詫びもない。半年前に聞いた「両方だ」という答えから、何かが動いたわけでもなかった。
ただ、席の名目を尋ねられたのは初めてである。この人は、これまで娘に選ばせたことがなかった。
「お父様」
「何だ」
「明日、母の形見の櫛を使ってもよろしいですか」
父の目が上がった。
「持ってきているのか」
「王都を出る時に、持って出ました」
「……そうか」
父はそれ以上言わなかった。
言わなかったが、翌朝、櫛を包む布が新しいものに替わっていた。
誰が替えたかは聞かなかった。聞けば、たぶん答えない。
*
式の日は、風がなかった。
城下の広場に、椅子が並べられた。数えると二百を超えている。村から来た者が席に入りきらず、後ろは立ち見になった。
半年前、王宮の中庭へ避難した市民が二百三人だったと聞いている。同じくらいの人数が、今日はここで座っていた。
前列には、ハインツと講習の生徒が座っている。ミナと少年は、規則通り後ろの席だった。
「十二歳未満は前に出ない」
ミナが不服そうに言うと、ハインツが答えた。
「規則を作ったのはあの人だ。文句は本人に言え」
「言った」
「なんて」
「規則は変えられるって」
ハインツが吹き出した。
規則を作ったのはセレナで、その規則に「年少者は帳面を持たず後方で聴く」と書いたのもセレナである。変えられると言ったのも本人だった。
式の前、控えに使った部屋でリナが髪を結った。
母の形見の櫛は、王都を出る時に持ち出したものである。半年前、荷の底に入れたまま一度も出していない。
「重いですね」
リナが言った。
「銀ですから」
「そういう意味ではありません」
鏡はない。城には全身が映るものが一つしかなく、それは客室にある。持ってこさせるほどのことでもなかった。
「お嬢様」
「はい」
「今日から、お嬢様ではなくなります」
セレナは手を止めた。
考えていなかった。呼称が変わることを、今まで一度も。
「では、何と」
「奥様、が普通です」
「……慣れません」
「私も慣れません」
リナは櫛を挿した。
「なので、しばらくお嬢様のままでいきます」
「よろしいんですか」
「誰も困りません」
その理屈は、この半年でよく聞いたものだった。
誰も困らないなら、変えなくていい。困る人が出てから変える。ハインツも、ローデリックも、同じ言い方をする。
「リナ」
「はい」
「半年前、私が王都へ発つ時に、あなたは何と言いましたか」
「覚えていません」
「『行ってらっしゃいませ』でした」
「普通です」
「はい。普通でした」
セレナは立ち上がった。
「今日は、普通のことをします」
式そのものは短かった。
北の慣習では、領主の婚礼は誓いと署名だけで済む。宣誓文は二行、署名は三箇所。読み上げるのは、領内で最も年長の職人と決まっていた。
今年は、ガルトだった。
「読めん字がある」
開口一番、そう言った。
「では、飛ばしてください」
セレナが答えると、広場から笑い声が上がった。
結局、ガルトは読めない字を全部飛ばして読んだ。宣誓文は二行から一行半になった。
誰も文句を言わなかった。読み上げが短くなったことを、むしろ喜んでいる顔が何人かいる。
署名は、セレナ、カイル、それに立会人としてローデリックが書いた。
書式はもう一枚あった。婚姻とは別の紙である。
「顧問契約は、そのままですな」
ローデリックが確かめる。
「そのままです」
「俸給も」
「独立させてください。辺境伯家の会計とは別に」
「面倒が増えますが」
「増やしてください」
その一行を入れるかどうかで、冬の間に二度議論した。
辺境伯夫人になれば、領地の支出で暮らせる。顧問の俸給を残す実務上の理由は薄い。ローデリックは最初、帳簿が複雑になると難色を示していた。
「理由を、もう一度伺っても」
「私が働けなくなった時に、止まるものを分けておきたいので」
ローデリックは筆を止め、それから頷いた。
「承知しました」
三か所目に判を押した時、ローデリックが小さく言った。
「これで、書式は整いました」
「ずいぶん短い書式ですね」
「短い方が続きます」
その言い方に、セレナは笑いそうになった。二年前の王都なら、婚礼の書式だけで十七枚あった。
その後は、祭りと同じだった。
屋台が出て、楽師が入り、酒が回る。春祭りの時と違うのは、王都から来た十人ほどとノルトハイムから来た九人が混じっていることだけである。
ミレイユは光魔法で広場の上を照らしていた。装飾用の術で、量は控えめである。
「働かないでください」
セレナが言うと、ミレイユは笑った。
「これは仕事ではありません」
「同じことをしています」
「気分が違います」
エドガーは、いつの間にか石工たちと話し込んでいた。北市場の話らしい。手振りが大きい。
資材管理の男は、ハインツの隣に座っていた。二人とも帳簿を持ってきていない。共通の話題があるとは思えないのに、しばらく前から同じ卓にいる。
後で聞いたところによると、石の音の話をしていたらしい。
*
日が傾いた頃、楽師が曲を変えた。
輪ができた。村人が手を取り合い、足を運び始める。
セレナはその輪を見ていた。
春祭りの日と同じ曲である。あの時は、途中で警報が鳴った。足運びを間違えずに続けられるようになった頃だった。
「セレナ」
横から声がした。振り返ると、カイルが立っている。
「何ですか」
「続きだ」
手が差し出されていた。
セレナはその手を取った。
輪の中へ入る。楽師の音に合わせて足を運ぶ。一歩、二歩。あの日と同じ順番で、同じところでつまずきそうになった。
一年近く経っても、上手くなっていない。
「下手だな」
「お互いにです」
「そうだな」
曲が続く。
途中で、広場の東側の結界灯が一度暗くなった。
セレナの足が半歩ずれる。目が自然にそちらへ向いた。
「行くか」
カイルが言う。
「……いえ」
東側には、今年の卒業生が二人立っている。片方が既に杭袋を開けていた。もう片方が測定石を出している。
二人とも、こちらを見ていない。
「担当がいます」
セレナはそう答えて、足を戻した。
灯りは、しばらくして元へ戻った。誰も広場の中央へ知らせに来なかった。
春祭りの時は、ここで警報が鳴った。今日は鳴らない。鳴らないまま、曲が終わりへ近づいていく。
最後の一小節で、セレナは足を止めそうになった。止めなかった。
曲が終わった。
広場から拍手が上がった。
セレナはカイルの手を離し、それから自分の鞄を探した。式の間、リナに預けてあったものである。
小さな手帳を取り出す。一年近く前、祭りの夜に書いたものだった。仕事の記録が並び、最後に一行だけ違う文字がある。
――踊り、未完。
セレナは筆を出し、その一行に線を引いた。
消しはしなかった。線を引いただけである。
その下へ、新しく一行書いた。
『完了』
「何を書いてる」
カイルが覗き込む。
「記録です」
「今か」
「忘れないうちに」
「同じこと言ってたな」
「あの時は、覚えておくために書きました」
セレナは手帳を閉じた。
「今日は、終わったので書きました」
夜、城壁の上へ出た。
広場の音がまだ届いている。城下の灯りは全部点いていて、その中に屋台の火が混ざっていた。
「疲れたか」
「疲れました」
「そうか」
「カイル様は」
「俺も疲れた」
二人とも、それ以上は言わなかった。
去年の秋、この場所で「隣にいます」と答えた。その前は「ここにいたいです」と言い、さらに前は「ここにいていいんでしょうか」と聞いている。
同じ場所で、三回違うことを言った。
「一つ、報告があります」
「言え」
「明日から、また仕事です」
「知ってる」
「北の村で、結界石の据え直しがあります」
「行くのか」
「行きません。ハインツさんの卒業生が二人行きます」
セレナは城下を見た。
「私は、その報告を待ちます」
カイルは頷いた。
それから、短く言った。
「明日は休め」
「休みます」
「本当か」
「本当です」
「珍しいな」
「明日は、たぶん誰も仕事の話を持ってきません」
「なぜ」
「今日、全員に言われました。明日は来るな、と」
カイルが笑った。
城下では、まだ楽師の音が続いている。誰かが酔って歌い出し、それを止める声がして、また笑い声が上がった。
セレナは城壁へ肘を預けた。
半年前、この景色を見ながら、ここにいたいと言った。
今日は、何も言わなかった。言う必要がなかった。
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