第50話 二人で守る
四年後の春、北方結界保守学院の第五期生が卒業した。
旧兵舎はもう使っていない。三年目に手狭になり、城の北側へ新しい建物を建てた。石造りの平屋で、教室が三つと実習場が一つ。窓は指二本分ではなく、ちゃんと明かりが入る幅がある。
北風と魔獣を防ぐという条件だけで建てられた城とは、そこだけ設計思想が違っていた。
卒業生は十九人だった。うち七人がノルトハイムからの留学生である。四年前、最初の留学生が一人来た時は、受け入れる書式がなかった。ローデリックが三日かけて作った。
「多くなりましたな」
ローデリックが名簿を数えた。以前より頁をめくる速度が落ちている。老眼鏡を作ったが、使うのを嫌がっていた。予算の欄を読む時だけ、こっそり掛けている。
「五年で百二人です」
「そのうち、うちの領内に残ったのは」
「四十三人。残りは他領と、王都と、ノルトハイムです」
「半分以上、出ていきますな」
「出ていってもらっています」
セレナは名簿を受け取った。他領で働く卒業生からは、年に一度、その土地の記録が届く。届いた分だけ、比べられる数字が増える。
最初の講習は、机が六つで生徒が八人だった。旧兵舎の床を張り替え、壁に結界石の断面図を掛けた。教えたのは、見る、知らせる、触らない。それだけである。
今も、最初の三回はそれをやっている。教える人間は替わったが、順番は替えていない。
「今年の首席は」
「ミナです」
ローデリックが言った。
「十二歳ですな。最年少記録だそうです」
「規則上は」
「十四歳からです。ただし、五年前に例外規定が入っております」
「誰が入れたんですか」
「ハインツです」
セレナは名簿から顔を上げた。
ハインツは、二年前に亡くなった。
冬の初め、講習の翌日だった。前の晩まで石を叩いていたという。眠るように、というのが医師の言い方だった。
葬儀の日、教室の後ろの椅子には誰も座らなかった。十二歳未満の聴講席である。規則を作ったのはセレナだが、実際に運用したのはハインツだった。
今は、その席に八人座っている。
規則も変わった。年少者も帳面を持ってよいことになり、質問は授業中でも構わない。変えたのはミナである。十歳の時に、変更案を書いて出した。
「規則は変えられる」
変更案の一行目に、そう書いてあった。
誰かが言ったことを覚えていたらしい。言ったのはセレナで、聞いていたのはミナである。五年前、旧兵舎の裏で河原の石を叩いていた頃の話だった。
*
王都からは、年に二度報告が届く。
結界局は今、局長がバルドである。三年前に交代した。エドガーは技術監理官という役職に就いていた。五年前にセレナが三か月だけ務めた職が、常設になっている。
空白の一覧は、毎年更新されている。三十七箇所から始まり、去年は十一箇所まで減った。
増えた年もあった。二年目に四十一箇所へ増えている。理由は、部署が増えたからだった。
『増えるのは、見えるようになったからです』
エドガーの報告書に、そう書いてあった。
その一行を、セレナは記録帳へ写した。自分が言った覚えのない言い方である。五年で、向こうの方が上手くなった。
ミレイユからは、別に手紙が来る。
光魔法班は今、二十九人になった。王都だけでなく、南部の三都市にも同じ形の班ができている。彼女は去年、伯爵位を継いだ。
『結婚はしません。しない理由を聞かれるのが面倒なので、忙しいことにしています』
三通に一通は、そういう報告が入っていた。
魔獣被害は減った。
辺境伯領の記録では、五年前の三分の一になっている。理由は結界の修復だけではない。異常を早く見つける人が増えたことの方が大きかった。
ただ、ゼロにはならない。
去年の秋、東の村で三人が負傷した。今年の春、北の谷で家畜が十四頭やられている。
どちらも、セレナは現場へ行っていない。担当が行き、処理し、記録が届いた。届いた記録を読んで、二箇所へ書き加えた。それだけである。
イルゼは、去年で退いた。
十九年と言っていた勤めは、二十四年になった。最後の年に、後任へ引き継ぐための記録を作っている。ノルトハイム側の基点四十七箇所と、担当者の名前と、王国側との照合手順。
厚さは指四本分あったという。
『あなたの真似をしました』
最後の手紙に、そう書いてあった。
『名前を全部埋めるのに、一年かかりました。埋めてから気づきましたが、私の名前はどこにも入っていません。それで正しいのでしょう』
中州の二つの机は、まだ置いてある。
春の測定は今も両国同じ日に行われ、その日だけ橋板が渡される。渡すのは、両国の若い技師の仕事になった。
この五年で、二人が同じ現場へ行った回数は、思ったより少ない。
カイルが討伐へ出る時、セレナは必要でなければ同行しない。結界の判断が要らない相手なら、行っても見ているだけになる。以前はそれでも行った。今は行かない。
セレナがノルトハイムへ行く時も、カイルは城に残る。共同調査の会議に辺境伯が同席すると、技師同士の話が領主同士の話になってしまう。それは五年前に一度学んだ。
別々に出て、別々に戻る。
ただ、帰る日は互いに知っている。
三年目の冬、セレナが雪で三日遅れたことがあった。城へ着いたのは深夜で、門番が驚いた顔をしていた。
厨房に灯りがついていた。
「起きていたんですか」
「いや」
カイルはそう答えたが、卓の上に地図が広げてあった。北の街道の、雪の深い区間である。
「明日、迎えに出るところだった」
「三日遅れると、手紙を出しました」
「読んだ」
「では」
「読んだのと、待つのは別だ」
その言い方を、セレナは覚えている。
雪山で言われた「理屈は正しい、だから怒れない、だから怒っている」と同じ形だった。
*
その日は、朝から会議だった。
新しい教室棟の予算と、来年の留学生の受け入れ数。それに、南部から届いた技術照会への回答である。
卓には八人いた。セレナ、カイル、ローデリック、学院の教師が二人、ノルトハイムからの連絡官、それに評議会からの派遣が一人。
「南部の照会ですが」
教師の一人が紙を上げた。
「うちの様式をそのまま使いたいと」
「使ってもらってください」
「無償でですか」
「はい」
セレナは即答した。
「使う人が増えると、比べられます。比べられると、間違いが見つかります」
ローデリックが横で頷いた。
「それに、渡してしまえば、こちらへ聞きに来る理由がひとつ減りますな」
「まだそれを言うんですか」
「五年前に、あなたが仰いました」
セレナは口を閉じた。
実際、言った。王都へ技術資料を無償で渡した時である。
その時、この人は「商売より性質が悪い」と言った。
「では、次の議題を」
教師が紙をめくった。
その時、鐘が鳴った。
三回。間を置いて、もう三回。全員が立ち上がった。
辺境の警報は、五年前と変わっていない。三回なら魔獣、二回なら地脈異常、四回なら火事である。三回が二度続くのは、規模が大きい時だった。
扉が開き、騎士が入ってくる。
「西の谷です。穿角獣、十以上」
「村は」
「谷の入口に二つ。避難は始まっています」
「担当は」
「西部の保守担当が四人、現地にいます。学院の三期生が二人加わっています」
セレナは頷いた。現場はもう動いている。普段なら、ここで報告を待つと言うところだった。
ただ、十以上の穿角獣となると話が違う。地下を掘る魔獣で、群れると結界石の基礎ごと持っていく。
「規模の記録は」
「五年前の旧鉱山の件が最大です。あの時は七頭でした」
「今回は十以上」
「はい」
セレナは地図を見た。
西の谷。旧鉱山から北へ二時間。地脈の分岐がある場所で、五年前に一度調べている。
「行きます」
立ち上がった時、隣でも椅子が動いた。
カイルである。もう剣帯を締めていた。会議の間、椅子の背へ掛けてあったものだった。
「早いですね」
「鐘が三回だ」
それだけで通じる。
五年で、この人は少し変わった。髪に白いものが混じり始めているし、雨の前には左脇腹が痛むという。痛む日は自分から言うので、医師も把握している。
剣の振りは小さくなった。ただし、遅くはなっていない。
「人数は」
カイルがローデリックへ聞く。
「騎士二十、石工四、医師一。学院からは、卒業生を三人出せます」
「三人?」
「本人たちが手を挙げました」
セレナは名前を確かめた。
二人は知っている。もう一人は今年の卒業生だった。
「ミナは」
「十二歳です」
ローデリックが即答した。
「出しません」
「聞いてみましたか」
「聞きました。行きたいと言いました。規則を見せたら、黙りました」
「規則を作ったのは」
「あなたです」
「そうですね」
セレナは記録帳を鞄へ入れた。
*
城門まで、二人で歩いた。
中庭を抜け、厩舎の前を通る。馬はもう用意されていた。誰が指示したわけでもない。鐘が三回鳴れば、厩舎の人間が馬を出す。それだけの手順が、いつの間にか決まっている。
五年前は、そうではなかった。
「銀杭は」
カイルが尋ねる。
「積んであります」
「何本だ」
「十六本。穿角獣は地下から来ますから、面より線で止めます」
「上からは」
「来ません。あれは飛べません」
「そうか」
カイルは馬の腹帯を確かめた。
「一つ聞く」
「はい」
「君が行く必要はあるか」
その質問を、この人は毎回する。五年前は、行くなという意味だった。三年前は、確かめる意味になった。今は、たぶん違う。
「あります」
セレナは即答した。
「十以上の穿角獣は、誰も見たことがありません。記録がないので、担当が判断できません」
「それだけか」
「それと」
セレナは馬へ手を掛けた。
「見たいです」
カイルが笑った。
「そう言うと思った」
「褒めていますか」
「褒めてる」
「珍しいですね」
「そこは真似するな」
同じやり取りを、五年前にもした。
厩舎を出るところで、ローデリックが追いついてきた。
「一つだけ」
「はい」
「五年前と、同じことを申し上げます」
ローデリックは帳面を開いた。
「現場裁量枠は銀貨九十枚まで。それを超える場合は城へ」
セレナは足を止めた。
最初にこの城へ来た日、同じことを言われている。あの時は三十枚だった。裁量の範囲を示すための言葉である。
「増えましたね」
「五年経ちましたので」
「言い方は変わっていません」
「変える理由がありませんので」
ローデリックは帳面を閉じた。
「それと、道中で村を三つ通ります。三つとも担当がおりますので、寄る必要はございません」
「寄りたいと言ったら」
「時間を計算してからにしてください」
その返事に、セレナは笑った。
城門の下で、リナが待っていた。
包みを二つ持っている。
「食事です」
「要りません」
「持っていってください」
「時間が」
「二秒で受け取れます」
受け取った。二秒だった。
「奥様」
リナが言う。三年かけて、この呼び方に慣れた。
「はい」
「今夜は戻られますか」
「分かりません」
「では、戻られた時に温め直します」
「明日になるかもしれません」
「その時は、明日温めます」
セレナは頷いた。
それから、包みを鞍へ結びつけた。
馬が動き出す。
城門をくぐると、街道が北西へ伸びている。西の谷までは二時間。日が高いうちに着けば、日没まで四刻あった。
背後で、学院の鐘が鳴る。授業の終わりだった。
振り返ると、新しい教室棟の窓が見えた。誰かが窓際に立っている。距離があるので顔は分からないが、たぶんミナだった。
セレナは手を上げた。向こうも上げたように見えた。
「行くぞ」
カイルが言う。
「はい」
「今度は西の谷だ」
その言い方が、いつもと同じだった。
五年前、初めてこの人と街道を走った日、同じ調子で「なら見に行く」と言われた。あの時は、灰狼の群れが北東の森から来ていた。
今日は西で、穿角獣が十頭以上いる。場所も相手も違うし、行く理由も違う。
それでも、鐘が鳴れば二人で出る。そこだけは変わっていない。
「ええ。参りましょう」
馬が速度を上げる。
街道の両側を、春の畑が流れていく。結界杭が等間隔に立ち、そのどれもが光っていない。
光っていない、ということは、機能しているということである。誰かが見て、誰かが直して、誰かが記録した結果だった。名前は全部、担当表に入っている。
その中に、セレナの名前はない。
入っていないことを、五年前は寂しいと思うかもしれないと考えた。実際には、そうならなかった。
馬が城門から離れていく。二頭が並んで、北西の街道を駆けていった。
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